英語のノートの余白に (4)“Prints it?”

コナン・ドイルシャーロック・ホームズ最後の挨拶』に収める「赤い輪」の冒頭、下宿屋の女主人ウォーレン夫人が、十日前から住んでいる下宿人の様子があまりに風変わりなのでホームズのところに相談にやってくる。

その下宿人は朝から晩まで部屋のなかを歩き回っていて、足音は聞こえるのだが姿はまったく見せない。そればかりか部屋には絶対に入らないでほしいと訴え、頼みごとがあれば紙に書いて寄越す。

「お食事以外に、なにかほしいものがあるときは、活字体で紙にそう書いて、いっしょにトレイに置いてあります」

「活字体で?」(“Prints it?”)

「そうなんですよ。鉛筆でね、活字体で書くんです。それも一語だけ、ほかにはなにもなし」。SOAP(石鹸)だったりMATCH(マッチ)だったり。

そこでホームズは「ひきこもってるというだけなら、まだわかる。しかし、なぜ活字体で書く? 活字体なんて、書きにくくて、面倒くさいだけじゃないか。なぜ普通の筆記体で書かない? これになにかいわくでもあると思うかい、ワトスン?」と訊ねるとワトソン博士は「筆跡を隠したがってる、とか」と答える。

ここから窺われるように、コナン・ドイル(1859-1930)の生きた時代、活字体で書くのはずいぶん風変わりなことだった。団塊の世代のわたしも英語の授業で筆記体(script)を習い、英作文の答案は筆記体で書いて提出した。活字体で答案書くやつはいなかったと思う。ところがいま中学校や高校ではみんな活字体で書いている。ネットで調べてみると、二00二年に改定された中学校学習指導要領で英語の筆記体は必須項目から削除されていた。また米国では通常小学三年時から筆記体を学ぶもののスマホSNSの発達で筆記体使用者は減少の一途をたどっていて、こちらでも筆記体離れが顕著になっている。

そのうち、多くの読者は、どうしてホームズは“Prints it?”なんて活字体で驚いているのだろうと不思議に思う時代がやって来るのかもしれない。

ご参考までに、先日視聴したキャリー・マリガン主演のテレビドラマ「コラテラル 真実の行方」(BBCNetflix共同製作2018年)で、秘密司令部の指示でシリア移民のテロリストを狙撃したと信じていたイギリス軍のサンドリン・ショー大尉(ジーニー・スパーク)が、事件のからくりと、殺害した人物がテロリストではなかったと知り、遺書をしたためるシーンがあり、ここでは筆記体で書かれていた。