寺門静軒 おぼえがき

寺門静軒『江戸繁盛記』は天保初年の江戸風俗、世態人情を漢文戯作の文体で活写した名著として知られる。「相撲」「戯場」(しばい)「千人会」(とみくじ)「楊花」(おんなだゆう)「混堂」(ゆや)などをユーモラスな漢文で綴ってベストセラーとなった。

静軒は寛政八年(一七九六年)水戸藩大吟味方勤、寺門弥八郎勝春の次男として江戸小石川水戸藩邸内に生まれたが、本妻の子ではなかったため仕官は叶わず、やむなく細々と私塾で教えていた。しかし、それでは妻子を養うことすらできず、洛陽の紙価を高めるべく文筆をめざして成ったのが『江戸繁盛記』だった。

本書について静軒は「稗史本の翻訳なり」と述べていて、市中の風俗、雑踏の世界が「翻訳」すなわち漢文で綴られ、焼き直されたことで独特の諧謔と滑稽味が生まれた。

しかし、この時代、漢文は知識人を象徴するものだったからインテリ官僚からの弾圧は避けられず、大学頭林述斎は「当世市中の風俗俚言を漢文に綴り、敗俗の書にて候間」として絶板を勧告した。大学頭は昌平坂学問所のトップ、また幕府の政治顧問でもある、その高官が、漢文戯作はインテリ官僚ひいては武家を茶化すものと断じたのだった。

繁盛する古着市にことよせて静軒はいう「権家ノ門前、人ノ市ヲ為ス者、予、之ヲ謂ヒテ士市ト曰フ。此ノ市、最モ繁盛す」と。就職、昇進をもとめて旗本、御家人が押し寄せる権門の屋敷は古着市を上回る賑わい、いちばんの繁盛は武士の市(士市)だった。

『江戸繁盛記』により江戸追放処分となった静軒は以後自らを「無用の人」と称し、越後や北関東を放浪したのち武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)で私塾を開いて晩年を過ごし、慶応四年(一八六八年)三月二十四日に歿した。明治改元は同年九月八日である。(いずれも旧暦の日付)

しかし静軒の筆致を学ぶ者は明治となっても絶えず、永井荷風は「服部撫松は柳巷新史を著し、松本萬年は新橋雑記をつくり、三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げた」と述べている。(「申訳」)

その荷風が、静軒の確立したユーモアと茶化しの漢文体を継承する。

下谷叢話』には荷風の母方の祖父で尾張藩儒者だった鷲津毅堂が弘化三年九月に駒込吉祥寺在の友人長谷川昆溪宅を訪ねたところ、そこへ寺門静軒がやって来たことが述べられている。荷風は静軒の生涯を略述したうえで「静軒は滑稽諧謔の才あるに任せ動もすれば好んで淫猥の文字を弄んだが、しかし其の詩賦には風韻極めて誦すべきものが多い」と評価している。

荷風が『断腸亭日乗』に漢文体を採用したのも『江戸繁盛記』の著者が穿った漢文の機微とともにうえの評価も作用していたと考えられる。

「午ちかく起出で近隣の洗湯に浴す、女湯には妓輩の笑語既にかしましく聞こえしが、男湯には文身の男ニ三人を見るのみ。今晩五時頃神楽坂芸者家町に火事ありし由語り合へり。(中略)朝湯に仕事師の語り合へるを見れば今も猶三馬が戯作静軒が繁盛記など思返さるゝなり」(『断腸亭日乗』昭和三年三月二十八日)

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佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(講談社文庫)によると、静軒は一時期、谷中、三浦坂にある破れ長屋の一部屋を借り、克己塾と名付けた学塾を開いていた。門弟は寥々たるもので、入門を願うのはよほどの変わり者だった。

三浦坂は自宅に近く、毎度ジョギングの際にはここを駆け下りる。谷中は坂の多い町だが、なかでこの坂はわたしのいちばんのお気に入りだ。江戸の繁盛とは別の閑静なところで、静軒がこの界隈に住んでいたと知るとやはり嬉しい。

『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』には「三浦坂というのは、片側に二万三千石作州勝山三浦兵庫頭の下屋敷があるところからつけられた俗称で、坂の両側には武家屋敷、寺院、幕府の小役人の屋敷が並んでいる。ここもまた竹やぶや杉の老木に囲まれた昼なお寂しい江戸の外れ」とあり、静軒宅は坂の途中の寺の軒先を借りるように建てられていた。

三浦坂は三崎坂と善光寺坂の中間に位置しており中坂とも呼ばれる。佐藤雅美氏が「俗称」としたのは中坂を本来の呼称としたのであろう。現在の区画でいうと台東区に属し、坂を下りると文京区根津二丁目となる。

羽仁進監督、寺山修司がシナリオを担当した「初恋地獄篇」は初恋という甘い言葉の裏に秘められた主人公の青年の地獄篇的心象風景がしばしば上野界隈のロケとともに描かれていて三浦坂を下る青年の姿も撮られている。

寺門静軒の貧しい生活も、ロケを通して青年の初恋の地獄もみてきた三浦坂である。

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