「比翼床」

星新一に、明治の世相や風俗、ゴシップなどを新聞記事に探り、集め、時代の流れを追った『夜明けあと』(新潮文庫)という編年史の著作がある。

星一の生涯を描いた『明治・父・アメリカ』『人民は弱し官吏は強し』また母方の祖父で解剖学者、人類学者として著名な小金井良精の生涯をたどった『祖父・小金井良精の記』を執筆するなかで拾われた余滴を集めたものだ。いわば、星新一が独自の視点で明治という時代を眺めたユニークな年表にして雑学コレクションであり、森鴎外がヨーロッパの新聞記事から話題を提供した『椋鳥通信』の、明治日本版の趣きもある。そういえば小金井良精の妻、すなわち祖母は森鴎外の妹小金井喜美子だった。

その『夜明けあと』の明治三十三年(一九00年)の記事に「英国より寝台車を輸入。東海道線(読売)。」とあり、わが国の鉄道に寝台車が設けられたのはこの年のことだったと知れる。

寝台車と聞くと(寝台車の殺人というべきか)、わたしはアガサ・クリスティーオリエント急行殺人事件』とすぐに反応するので、寝台車の濫觴はこの鉄道かもしれないと調べてみたら、はじまりは米国で、一八三八年にアメリカのペンシルベニア州周辺の複数の鉄道会社が寝台車の運行を始めていた。

鉄道好きの作家の代表格に「阿房列車」シリーズの内田百閒(1889-1971)がいる。よくしたものでその随筆「寝台車」に、昔の二等寝台車にダブルベッドがあり「比翼床」と呼ばれていたとあった。

ここですこし漢文の授業の復習をしておきます。「比翼床」は「比翼連理」(二羽いっしょに空を飛ぶ鳥と、もともと二本なのに繋がってひとつになった木)から来ていて、ともに男女の睦まじさを表しています。中唐の詩人白居易の、玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋の物語「長恨歌」の一節には「天に在りては願はくは比翼の鳥と作り、地に在りては願はくは連理の枝と為らん」とあります。

内田百閒によると「私の思ひ出す汽車に二等寝台がついた当初は大変な人気であつた。下段三円五十銭上段二円五十銭、その外にタブルベツドがあつて四円五十銭であつた」。残念ながらこのダブルベッドがいつ日本の鉄道に設けられたかはわからないけれど、おそらく明治三十三年からさほど遠くない頃だっただろう。それにしても舌を巻くほどの素晴らしいネーミングで、百閒先生は名付けの主について「ダブルべツドの事を比翼床と云つたのは世間の命名でなく、事によると鉄道の方でさう云ふ宣伝をしたのかも知れない」と述べている。いずれにせよ明治の名コピーライターである。

しかし「比翼床」は長くは続かず、まもなく若い女が帯を締めずに通ったとか、洗面所から長襦袢の芸妓が出て来たといった話題から風俗壊乱の非難が起こり取りやめとなってしまった。ただダブルベッドはそのままに独寝のものとなり「大床」と呼ばれた。「比翼床」から「大床」へ、えらく無粋になったのだった。

ついでながら『夜明けあと』の明治二十年の記事が「比翼塚」に触れていて、「お寺の下宿営業に、禁止の通達(朝野)。 遊郭での心中者を、同じ墓に埋め、比翼塚など呼ぶと、まねするのが出る(読売)。」とあった。

「比翼床」「比翼塚」にまつわるエピソードを知る、こんなときだ、わたしが日本人としての自覚を深くするのは。気のきいた言葉、機知、滑稽、諧謔、そこから生まれる人びとの親しみと共感がうかがわれて嬉しくなる。

『夜明けあと』のあとがきで星新一は「徳川時代の長い鎖国のあと、文明開化の大変化。普通だと内乱状態だろうが、意外に平静で、ユーモアもある。落語を育てた社会の、つづきを感じる」と述べている。日本の社会が落語との親近性を末長く保つよう願ってやまない。