鞍を欲しがる牛

カエサルは『ガリア戦記』で橋や武器をつくったことをずいぶん得意げに書いていて、武勲の数々よりもこちらをアピールしているような筆遣いだと聞く。優れた武将であるのはいまさらいうまでもないから、立派な技術者としての資質と実績を知ってもらいたかったのだろう。

シラクサの僭主ディオニュシオス一世は偉大なる武将であったにもかかわらずみずからの威厳を詩作によって得ようと苦心惨憺していた。しかし詩のことはほとんどわかっていなかった。

「のろまな牛は鞍をほしがり、駄馬は耕作したがる」といったのは古代ローマ時代の南イタリアの詩人ホラティウスで、人はときに自分のもつ能力、本業、専門以外のことがらを強調したくなるものらしく、カエサルディオニュシオス一世はそれでもよかったが、彼らの反対側には本業はさておき、むやみに余技や趣味に情熱を傾け、そうしていずれも語るに足りない人がいる。

カエサルディオニュシオス一世は武将という本業を語る口数はひかえめに、それとは異なる面を多く語りたかった。しかし、これを凡人がやると鞍をほしがる牛や耕作したがる駄馬になりかねない。そこを避けたいなら本業について心をこめて語るほかないが、ひとつのことだけを語っているうちに、視野は狭く、考え方は固定的に、心は柔軟性を失う事態に陥るかもしれない。

それに世の中には本業の下手な人も多く、カエサルと対比していえば、下手な武将ほど武事、戦争に関することがらをいつまでも、これでもかとばかりに語りたがるのかもしれない。

鞍をほしがらないからよい牛、耕作したがらないからよい馬というのも保証の限りではない。難儀なことである。