英語のノートの余白に (12)cream puff

レイモンド・チャンドラーストーリー・テリングに優れた作家とは思わないが、読者の情感にさざなみを寄せることには巧みで、その最たるものとして遺作『プレイバック』のあの人口に膾炙したやりとりがある。いまさら引用するのもはずかしくなるほどよく知られた会話だが英文法の仮定法過去の勉強にもなるので書きとめておこう。

"How can such a hard man be so gentle?"

"If I was't hard, I wouldn't be alive, If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive."

「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」

 「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」(『長いお別れ』清水俊二訳)

問うたのはリンダ・ローリング。応じたのはフィリップ・マーロウ

リンダ・ローリングは大富豪ハーラン・ポッターの長女で、The Long Goodbyeのテリー・レノックス夫人シルヴィアの姉にあたる。マーロウはまえに検察局の捜査課に勤めていたが組織のなかで生きるのを潔しとせず私立探偵に転じた男だ。

二人はThe Long Goodbyeで出会い、関係を持ちながら別れてしまったのだが、互いに忘れられないままでいたところ『プレイバック』で再会する。うえの会話はそのなかで交わされたものだ。

順序は逆になるが、ここでThe Long Goodbyeにある二人の会話を見てみよう。

「まだしばらくこっちにいるなら、一杯おごるよ」

「おごってくれるならパリでおごって。秋のパリは素敵よ」

「できればそうしたいところだけど、そう言えば、パリは春のほうがもっといいと聞いたことがある。行ったことがないんでどっちとも判断はできないが」(『長い別れ』田口俊樹訳)

‘I’ll buy you a drink if you’re going to be around long enough.’ ‘Buy me one in Paris. Paris is lovely in the fall.’ ‘I’d like to do that too. I hear it was even better in the spring. Never having been there I wouldn’t know.’ ‘The way you’re going you never will.’ ‘Good-bye, Linda. I hope you find what you want.’ ‘Good-bye,’ she said coldly. ‘I always find what I want. But when I find it, I don’t want it any more.’ She hung up. The rest of the day was a blank.

四十二歳の男と三十六歳の女の素敵で印象深い会話で、バックには「四月のパリ、マロニエの並木に花が咲き、休日、お休みの日のテーブル、そう、これこそ四月のパリの感覚」と歌われる「エイプリル・イン・パリ」を流しておきたい。

「さよなら、リンダ。きみの求めるものが得られることを祈ってるよ」

「さよなら」「自分の欲しいものはいつでも手に入れてきたけど、でも、手に入れたとたん、それは欲しいものじゃなくなっちゃうのよね」。そう言って彼女は電話を切った。

ここのところでわたしの心のなかでさざなみが寄せてきた。

せっかくだから余韻に浸りたいところだが、もうひとつこれとは対照的、けれどおなじく印象的な会話について述べておかなければならない。俗語の下品についてはあらかじめご容赦をお願いしておく。

The Long Goodbyeでマーロウ探偵は、殺人の参考人として警察にしょっぴかれる。待っていたのはロスアンジェルス市警察セントラル管区殺人課の課長グレゴリアスというとんでもない警部で、手錠を付けられたマーロウにさっそく一発見舞う。ところが検察から連絡がありマーロウは警察留置ではなく検察送りとなる。さあ怒ったのがグレゴリアス課長で憤懣を部下のデイトン部長刑事にぶちまける。

「何を待ってる、このふにゃまら。いっちょまえにゴムをつけてもらいたいのか?」

「まだ命令をいただいていないので、課長」

「ちゃんと"サー"をつけて言え。馬鹿たれ!」( 田口俊樹訳)

「ふにゃまら」の箇所はWhatcha waiting for,cream puff?An ice cream cone may be?’というもの。 cream puff (シュークリーム)が「ふにゃまら」になるなんて!?いわれてみて理解はしたけれど ice cream cone (ゴム)には思い至らない。ちなみに清水俊二訳は「何を待ってるんだ。アイスクリームでもほしいのか」で、むかしはわかっていても訳出は憚られたのかもしれない。

こんなふうにチャンドラーの文体についての実験のひとつにアメリカの俗語の多用があった。『長い別れ』の解説で杉江松恋氏は、このことについて「チャンドラーは文体についての実験を早い段階から行っていた。アメリカの俗語を多用したのはその一つである。俗語は犯罪者社会の現実を描くためにあるのではない。それを用いることで文章が醸し出すであろう雰囲気が重要なのだ」「彼が小説に取り入れる叙景を、アクションを停滞させるものとして編集者は除きたがる。だが、読者が本当に求めているのは殺人という作中の事件そのものではなく会話と叙述を通じて感情が創造されることなのだ」と述べている。

チャンドラーはこうした卓抜な技巧を持つパルプ雑誌の作家だった。素人考えだが、チャンドラーの衣鉢を継ぐ後の世代の作家は別にして、ドンパチが繰り返される粗雑なパルプ雑誌で、ハードボイルドがもたらす叙情なんて考えている人はチャンドラーのほかにいなかったのではないか、また彼にはそれを可能にする感性と知性が具わっていた。「別れを告げるということは、ほんの少し死ぬことだ」なんてセリフがぴたっとはまる作家はそういるものじゃない。