英語のノートの余白に(7)からだいぶん間があいたが、もう一度O・ヘンリー「最後の一葉」を取り上げてみたい。
肺炎に罹ったのを機に生きる意欲を失ったジョンズィ。往診に来た医師はスウディを廊下に呼び出して、彼女の生きる可能性は十にひとつくらい、それも生きたいという気持があってのことだよ、と告げる。このとき医師の手には体温計があった。
“She has one chance inーlet us say, ten,”he said, as he shook down the mercury in his clinical thermometer.
英文のテキストは山本史郎、西村義樹、森田修『オー・ヘンリーで学ぶ英文法』(アスク出版2020年)で、この箇所には説明があり、どうして医師はこんな動作をしているのか質問すると、おおむね四十代以上では「わかる」人が多かったのに対して二十代、三十代では「わからない」人が多かった。デジタル式体温計しか知らない世代にはどうして体温計を振ったりするのだろう、というわけだ。水銀式体温計も、体温計を振ったりする姿も若い人たちにはなじみがない。
念のため申し上げておくと水銀式体温計では体温計が35℃以下を示すようあらかじめ水銀を振り下げておかなければならない。ただし気温が35℃以上の場合は気温より低くは下がらない。
いまや水銀式体温計や血圧計はすっかりデジタル式に置き換わり、そのうえ世界保健機関(WHO)は水銀体温計、水銀血圧計の全廃を目指していて、水俣条約および水銀汚染防止法等により、二0二一年一月一日以降製造、輸出入は禁止、廃棄するには廃棄物処理法に従った対応が必要とされている。
こうしてO・ヘンリーの小説の解読にも科学技術の変化の波が押し寄せ、ときに理解を難しくしている。
映画「カサブランカ」の愛のテーマ曲As time goes byの冒頭。
You must remember this,
A kiss is still a kiss,
A sigh is just a sigh,
The fundamental things apply,
As time goes by.
覚えておこう、キスはやっぱりキスだし、ため息はため息
どんなに時が流れても本質的なことは変わらない
と、歌われるのだが、水銀からデジタルへの変化は水銀の処理という新たな問題をもたらした。キスやため息をめぐる意識だって変化しておかしくない。おなじ言葉でも時代とともに意味が変化する事例もある。第二次世界大戦後しばらくの間、米国ではMade in Japanは粗悪品の代名詞だった。
万物流転の諸相である。