英語のノートの余白に(10)文末の前置詞

江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)を読んでいると、不定詞に伴う場合の前置詞の位置についていくつか例文があり、なかにGive me something to remember you by.(あなたを思い出すよすがとなるものをください)という一文があって、思わずニヤリとした。江川先生もジャズがお好きだったのかな。

「Something to Remember You By 」という曲を知ったのはマキシン・サリヴァンが来日した一九八六年のコンコード・ジャズ・フェスティバルでの歌唱で、伴奏はスコット・ハミルトンをリーダーとするコンボだった。マキシン・サリヴァンは翌年七十五歳で急逝したから、かろうじて彼女のステージを見られたのは幸運だった。

そのときの歌の歌詞が英文法の本に載っているんだからうれしいじゃありませんか。

「(Please Give Me) Something to Remember You By 」は、一九三0年、アーサー・シュワルツ(作曲)とハワード・ディーツ(作詞)の作品、リビー・ホルマンの歌でヒットし、その後、スタンダードナンバーとなった。以下はその歌い出し。

Oh, give me something to remember you by

When you are far away from me

Just a little something, meaning love cannot die

No matter where you chance to be

ジーニアス英和辞典』にはrememberのイディオムとしてsomething to remember (目的語)byがあり、何か…の思い出になるもの、…の思い出のよすがと説明されている。

『英文法解説』には、前置詞は目的語の前に置かれるのが原則であるが、いくつかの場合には後ろに回ることができるとして、そのひとつに不定詞に伴う場合が挙げられている。

Give me something to remember you by.は不定詞to rememberに伴って前置詞と目的語の順序が逆になったわけだ。

仮に英作文の出題に、何かあなたの思い出になるものをください、とあったとする。イディオムを知っていればよいが、知らなければどうだろう。Please give me something to remember youとまでは書けても文末にbyを置くのは、いまのわたしには無理だ。思いもよらない。文末の前置詞をマスターするのは遥かかなたというのが実感である。

もうひとつジャズボーカルと文末の前置詞を話題にしてみたい。

ジャズボーカルのベストとして「ヘレン・メリル ウイズ クリフォード・ブラウン」を推すファンは多く、なかでもコール・ポーター作詞作曲You'd Be So Nice to Come Home Toは絶唱として評価が高い。

長年「帰ってくれたら嬉しいわ」の邦題で親しまれてきた。ところがいつのころからかこの訳はまちがいと指摘されるようになった。和田誠さんの名著『いつか聴いた歌』では単行本では「帰ってくれたら嬉しいわ」だったのが文庫本では「帰った時のあなたは素敵」となっている。文春文庫の一冊に収められたのは一九九六年、単行本の刊行は二十年近く遡る。

「帰ってくれたら嬉しいわ」だと帰って来るのは「あなた」、家にいるのは「わたし」なのだが、最後にToが附くと帰るのは「わたし」で、家には「あなた」がいることとなる。そこで邦題が変わった。まことに悩ましいToである。

You'd Be So Nice to Come Home To,

You'd Be So Nice by the fire,

家をめざして(文末のto)、帰ったとき、そこにあなたがいたら、暖炉のそばにいてくれたらどんなにか嬉しいだろう、といったふうに解釈しているが、完璧に理解したのかと問われると自信はない。

コール・ポーター作詞作曲のこのナンバーははじめ一九四二年の映画 Something to shout aboutの挿入歌として用いられた。戦場に送られた青年が、愛する女性を思う気持ちを歌い上げたナンバーとして、帰りたくても帰れない兵士たちのあいだで人気となった。男性歌手が歌うと戦地から帰ってきた兵士が妻や恋人のいる家へと向かうというシーンが連想されたという。文末の前置詞という難問がここにもある。