英語のノートの余白に(11)look、watch、 see、 stare、 view、 glance

江川泰一郎『英文法解説』に、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の五感についての説明があった。人を主語として五感を二つに分類すると、意志を持つ場合と持たない場合とがあり、前者はlook(at),listen(to),feel,taste,smell,後者はsee,hear,feel,taste,smellと分類される。

意志を持つlook系は進行形を作ることができるが、意志のないのは進行形は作れない。そのうえで著者は人間の五感のなかでもっとも基本的な視覚と聴覚には複数個の動詞を使うが、比較的マイナーな触覚、味覚、臭覚にはそれぞれfeel、taste、smellしか使わない点がおもしろいと述べていた。

ちなみに上の六つの「見る」を辞書で引くと

look(見る)、watch(じっと見る)、 see(見える、目にはいる)、 stare(目を大きく開いてじっと見つめる)、 view(とくに窓や高いところから見える眺め)、 glance(ちらっと見る)とあった。

日本語でも「見る」の表現はさまざまで

見る(目でみる、みとめる、見分ける)、観る(よく見る、こまかに見る、注意して見る)、視る(気をつけて見る、注意して見る、見くらべる、見立てる)、看る(手をかざして見る、熟視する)、診る(よく見る、病状を調べる、占う)といった具合である。

洋画家で随筆家だった中川一政は「眼」という随筆に「眼を開いて見れば十のものが十に見える。部分細部がよく見える。/眼を細くして見ると十のものが一に見える。大局が見える」「見といふ字と観といふ字は、意味が違ふ。見とは十のものを一つに見ること、観といふのは観察の観で十のものを十に見ることだらう」と書いている。

宮本武蔵は「観見二つの見様観の目つよく、見の目よはく見るべし」といっていて、これをふまえ中川一政宮本武蔵が相手に対するときの目付は画家がモデルをまえにしたときのそれに通じているという。

石井鶴三の「顔」という随筆には「相者は人の顔を見て、その人の過去現在未来、その他いろいろの事をいいあてますが、全く人の顔にはその人の事は何でもありありと書いてあるものです。ただこれを読む事が大変むずかしいのです」「言葉は嘘をいう事が出来ましょうが、顔は人を偽る事が出来ません」とあり、こうした目を想像すると見られる側はこわくなってくる。そしてどのような目、視線で外の世界を見ているかは、自己の内なる世界を見る、すなわち「かえりみる」と大きく関係している。

戦災で自宅と蔵書を失った国文学者の岩本素白は戦後の一時期、友人の石井鶴三の旧宅に住んでいた。親しく、尊敬しあう仲だった。「話を言葉だけで聞く人は、言葉を誤る事がありますが、顔から聞く時は先ず誤る事がありません」という言葉は素白にふれたものではないけれど、彫刻家、画家がこの国文学者をどんなふうに見て、評価していたかがうかがわれる。

こうして「見る」は人間と世界の認識に通じる。おそらく英語圏にあっても look、watch、 see、 stare、 view、 glanceをめぐるエッセイは多数あるような気がする。いずれ中川一政や石井鶴三たちの文業と併せて読んでみたい。

ところで視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の五感にもうひとつを加えて六感とすべきだと主張した人がいる。『美味礼讃』の著者ブリア=サヴァランで、そのひとつとは性的な感覚=生殖感覚で、同書において「肉体的恋愛に関わる性的な感覚にも、独立したひとつの感覚としての地位を与えることにしよう」と述べている。有意志で生殖感覚を覚えるのはもちろんだが、無意志でもこの感覚は思わぬときに忍びより、ときに猛威を振るう。その際、文法的に進行形はどうなるのだろう。