英語のノートの余白に (9)governess

ヴィクトリア朝時代の小説を読んでいると、しばしばガヴァネス(governess)という言葉を見かける。裕福な家庭に雇われ、住込みで子供たちの教育と訓練を担当する女性のことで、子供たちの身の回りの世話をするのでなく、もっぱら教育に従事する。ふつう対象は女の子で、男の子の場合は幼少期に限られた。

シャーロック・ホームズの冒険』の一篇「橅の木屋敷の怪」(深町眞理子訳)ではホームズに相談に来た家庭教師が雇われていた家庭の主人が転勤で引っ越したために失職し、そのため「ウェストエンドにウェスタウェイといって、女性家庭教師を専門に斡旋している著名な職業紹介所があります。わたくしは週に一度ここにかよい、自分に向いた勤め口を探すことにしておりました」と語っている。

この女性について作者コナン・ドイルは「質素だがこざっぱりした服装、千鳥の卵のようなそばかすのある顔は、明るく、生きいきしているし、きびきびした物腰も、独力で人生を切りひらいてきた女性に特有のものだ」と描写している。狭い労働市場で自立をめざす女性の姿だ。

もっともそれはコナン・ドイルの見解であり、一般的には没落した家庭の子女がやむなく働かざるをえなくなりgovernessとなった、つまり憐れみと蔑みの視線を向けられていた。 リチャード・レッドグレイヴ(1804-1888年)は、当時のイギリス女性の就労事情をテーマに多く描き、衝撃を与えたイギリスの画家で、その目にはお針子も家庭教師も劣悪な環境に置かれた女性労働者として映っていた。

シャーロック・ホームズのシリーズには、lady-housekeeperといって 家庭の没落で働きはじめた女性が登場する。注釈によるとハウスキーパーはふつう〝家政婦〟と訳されるが、当時のイギリスの階級社会にあって〝 lady〟と呼ばれている。多くは良家の出身で夫をなくしたために生計を立てるべくこの職についていたのだった。だから仕えた家庭はみずからの出身階級に見合う良家で、ここに住込み、家政全般を取り仕切る、いわば男性の〝執事〟に相当する身分だった。ここにも女性の社会進出が難しいなかにあって夫をなくした女性の勤労する姿が見えている。