「井戸の茶碗」と「寝床」によせて

ちょいとめでたいことがあったので、晩酌をしながらひさしぶりに古今亭志ん朝さんの「井戸の茶碗」を聴いた。ふと思いついて手許の電子辞書で「井戸の茶碗」を引いたところ、さほど期待してなかったのに「井戸茶碗」が「広辞苑」と「マイペディア」「日本史大事典」に立項されていた。

たとえば「広辞苑」には「朝鮮産の抹茶茶碗の一種で、日本には室町末〜桃山期に入った。古来茶人に尊重され、最高のものとされる。名称の起源は地名説、将来者名説などがある。いど。」とあり、「井戸の茶碗」には出自にまつわるモデルがあったと知れた。こんなことをいまごろ知るようでは落語ファンとはいえない。

ご承知のように「井戸の茶碗」は裏長屋に住む浪人千代田卜斎、細川家家臣で江戸勤番の若い武士高木佐久左衛門、「正直清兵衛」と呼ばれたくず屋の清兵衛を主な登場人物として、これら三人の曲がったことが大嫌いな人たちが繰り広げる爽やかでおめでたい噺であり、茶碗とおなじくかれらにもモデルがあり、もとになったエピソードがあったのかもしれない。

古典落語を地でゆく話といえば薄田泣菫『茶話』に収める「涙と汗の音曲」にこんな話題があった。

洋画家の満谷国四郎(みつたにくにしろう1874-1936)は謡曲に夢中になり、アトリエで裸体画のデッサンを描く際にも小声で謡い出すまでになった。この人がおなじ画家仲間の児島虎次郎(1881-1929)を訪ねたとき、謡曲の押売りを警戒した児島は、奥で子供を寝かしてあるからというのを口実にようやく難を逃れた。

また京都で月に一度、琵琶法師の藤村性禅(ふじむらせいぜん1853-1911)を中心に、琵琶の伴奏で平家物語を語る平曲の好きな者の集まりが行われていた。もとより大規模な催しではなく、聴き手はいつも十人そこそこだったが、はじめの一、二段を聴くといつのまにかこそこそ逃げ出して、藤村検校の平家琵琶のときには聴き手がいなくなっていたいことも一再ならずあり、これではいけないと、最後まで聴いてくれた人には名入りの短冊とか茶菓子を景品に贈ることにしたが、それでも最後まで残る人はすくなかった。おそらく師の藤村性禅のほかは旦那芸クラスだったのだろう。

芸の押し売りはまことに難儀で、落語の寝床では、長屋の家主でもある大家の旦那が義太夫に凝って、毎度聴くに堪えない素人芸を披露して店の者や長屋連中を困らせていた。他人事ではない。このブログだって賑やかしにもならない老爺のなぐさみにほかならない。

徒然草』百五十一段は「ある人のいはく、歳五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし」(五十歳になっても上手になれないような芸事はさっさとやめるべきだ。懸命になって学ぼうとしても先行き時間はない)、そして老人のやることは下手でも笑うわけにはゆかず、それをよいことに大勢のなかにまじってひとりよがりの芸を披露するのは不都合であり見苦しいとつづく。

しかし『徒然草』の教訓が活かされないところに「寝床」という噺が生まれたわけで、世のなか何がさいわいするかわからない。「下手があるので上手が知れる」のであれば下手もあってよいのかもしれない。兼好法師は芸事を習ってみたいなんて気を起こさないのがいちばんよいといっているが、このブログも含めなかなか難しい。

せっかく『茶話』を話題にしたから、わたしの好きな逸話を紹介しておきたい。

「むかし今津に米屋世右衛門といふ男が居た。富豪(かねもち)の家に生れたが、学問が好きで、色々の書物を貪り読んだ。珍しい働き手で、酒男(さかおとこ)と一緒に倉に入つてせつせと稼いだから身代は太る一方だつたが、太るだけの物は道修繕、橋普請に費やして少しも惜しまなかつた。亡くなつた時には方々の人がやつて来て声を立てて泣いた。なかに一人知恵の足りない婆さんが交じつてゐて、おろおろ声で『これ程学問してさへこんな好いお方だつたから、もしか学問などしなかつたらどんなにか立派な人だつたらうに。』と言つたさうだ。/婆めなかなか皮肉な事を言ひおるわい。」。

元ネタは伴蒿蹊『近世畸人伝』にある。婆さんの目に米屋世右衛門の学問は旦那芸に映っていたのかもしれない。

 

附記

『茶話』はむかし富山房百科文庫で読んだが手放してしまった。ところが先日電子本の書目を眺めていると『薄田泣菫茶話全集』があり懐かしくてもう一度購入した。初出通り歴史的仮名遣いで、校閲もよくなされていると思った。

著作権の切れた作品をネット上に公開してくれている青空文庫のおかげでずいぶんお安く、下流年金生活者として感謝のほかなかった。

以下不粋なことながら、青空文庫の事業は本来なら国の読書推進事業の一環として位置づけられなければならない。学術会議のメンバーに難癖つけるひまがあるなら、こうした事業をまずは推進すべきである。