ご近所で文学散歩

十一月二十日現在、大統領選挙でジョー・バイデン候補が勝利したにもかかわらずドナルド・トランプ氏は選挙で不正があったと主張して敗北を認めていないため政権移行は順調に進まず安全保障や新型コロナ対策などをめぐり支障が指摘されている。

仮にわたしがジョー・バイデン氏の立場にあったなら、トランプ氏に、税金を払っているかどうか分からない者はまずそこから証明してものをいえとか、いつまでも負け犬の遠吠えを繰り返すなとかいってみたくなるのだがバイデン氏は国民の癒しと和解を専一の立場を堅持しているのだろう。

戦争が政治の延長であるならば政治家は戦争はしなくても戦争に即応できる人物でなければならない。わたしはトランプ氏を支持する者ではない。ただしバイデン氏がどれほどの指導力の持ち主なのかは未知数で、さっそくWHOに復帰するといっているがせめて台湾のオブザーバー参加は条件にしてほしいと願っている。

権力を握るために殺し合いをするのはよくないとして選挙がとって代わった。民主主義国家の誕生で、権力抗争を選挙という票を獲得するスポーツとしたことはまことにけっこうなことだった。しかし今回のアメリカ大統領選挙についてはスポーツから内乱へ逆戻りする危惧さえ感じてしまう。大統領みずからがスポーツのルールを尊重しない異常事態である。

選挙の重要はいうまでもないが一種のスポーツとして割り切ることも必要で、選挙カーからあるいは集会の壇上から命がけで国家国民のために働くと叫ぶのはけっこうだが、ほんとに命をかけていては民主主義の元も子もなくなってしまう。

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自宅に近い根津神社は広々として樹木の多い素敵な空間で、つつじの名所でもある。散歩に、また生活道として利用させていただき心から感謝している。

社殿は宝永三年(一七0六年)甲府藩主徳川家宣(のち将軍)が献納した屋敷地に造営されており、権構造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作と評価されている。

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正門では平田東助の筆になる「根津神社」の文字が刻まれた大きな石柱が迎えてくれる。平田東助(1849-1925)は明治、大正期の官僚、政治家で、農商務大臣、内務大臣、内大臣を歴任、山縣有朋の側近としても知られている。

ただ永井荷風のファンとしてはいささか具合の悪い人で、荷風が 一九0九年 (明治四十二年)に刊行しようとした『ふらんす物語』は内務大臣平田東助の名をもって「右出版物ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムルヲ以テ出版法第十九条二依リ明治四十二年三月二十七日発売頒布禁止及刻版並印本差押ノ処分ヲ為シタリ」とされたから石柱には発禁の文学史のメモリアルが重なってしまう。

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表門からゆっくりあるいて裏門へ行くと道路を隔てて日本医大病院があり、その傍らにある薮下通りという名のある小道をあがると団子坂上に着く。 薮下通りについて荷風は『日和下駄』に「私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思つてゐる」と書いていて、樹と竹藪におおわれて昼なお暗い光景はいまはないけれどかつての姿を心に浮かべながらあるいていると気分はもう文学散歩である。

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 坂上森鴎外の私邸観潮楼があったところでいまは文京区立森鴎外記念館が建つ。荷風によると鴎外にはじめて会ったのは明治三十四五年のころ、伊井蓉峰が尾崎紅葉の「夏子袖」と鴎外の「玉匣両浦島」(たまくしげふたりうらしま)を演じ、それを観劇に行っていた荷風小栗風葉が鴎外に紹介したのが初対面だった。

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荷風が父の意向で渡米したのが一九0三年の九月、ついでフランスへ渡り、帰国したのは一九0八年七月だった。そして一九一0年鴎外とパリで荷風と知り合った上田敏荷風慶應義塾大学文学科の主任教授に推薦した。

荷風にとり二人は「わが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしはかの即興詩人月草かげ草の如き森先生が著書とまた最近海外文学文芸論の如き上田先生が著述の感化に外ならざればなり」(「書かでもの記」)といった存在だった。

もとより慶應の教授に推薦してくれた感激は大きかった。そして「(鴎外)博士と私との交渉は、私を慶應の教授に推薦して下されてから、特別な関係が生じてきた。それが動機で、私は故人の上田敏博士と共に、いくたびとなく博士の門を訪れ」るようになった。(「鴎外博士のこと」)

荷風の指導、編集のもと「三田文学」は一九一0年五月に創刊された。同号所載の「三田文学の発刊」には「非常に風の吹出した或日の午後観潮楼の一室に春寒の火桶を囲んで自分は我が崇拝する鴎外先生と親しく談話する機会を得た事を喜んだ」といったシーンもあり、観潮楼跡の記念館の前に立つと火桶を囲む鴎外、荷風を思って文学散歩は絶好調だ。

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十二月八日、政府は新型コロナウイルス感染拡大に伴い北海道への自衛隊の看護師(看護官)らの災害派遣を決めた。大阪府にも派遣する方針である。

北海道の事情はよく知らないが、大阪のばあい全国初のコロナ専門病院となった大阪市立十三(じゅうそう)市民病院が、医師や看護師の相次ぐ退職でコロナ患者を計画通り受け入れられないというから医療体制の逼迫の度合は深刻だ。おまけに十八の診療科のある総合病院がコロナ専門病院となった結果、四月十六日以降外来診療や救急診療、手術を順次休止させ、約二百人いた入院患者全員を転退院させた。

そうしたなか「本来の専門分野の患者を診られないのがつらい」「負担が重すぎる」として十一月末までに医師十人、看護師・看護助手二十二人が退職し、医療スタッフからはコロナ専門病院の返上を求める声も上がっている。自衛隊への看護師派遣依頼にはこうしたいきさつがある。

大阪市立十三市民病院をコロナ専門病院とする最終決定は松井一郎大阪市長によるものだが、報道からは医療現場と意思疎通を欠いた姿も浮かぶ。

Twitterでは池田清彦氏が「大阪、コロナ新施設出来るも看護師いない。GoToキャンペーンのお金を看護師の危険手当てに回せばいいのにね。安い給料でもみんなの為に頑張る人は、偉い人ではなくて、ただのお人好しです。相応の金をくれなければ、働かない、という人こそ正しい人です。大金貰っても働かない政治家もいますけどね」と当を得たつぶやきを寄せていた。

わたしにもただのお人好しを買って出た後悔があるが、わたしのばあいは知恵の無さも加わっていたからかえってはた迷惑だっただろう。

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新型コロナ感染症のいま、ひとときの楽しみのためにわざわざ旅行しようとは思わない。ところが政府はGoToトラベルが新コロの陽性者を増加させた証拠はないという。

ならば感染者の多い地域へ旅行するのは止しても、そこに住む人が自己責任で旅行するのはなんら問題はないはずだが、自粛せよの声もある。

わたしが野党の議員だったら、GoToトラベルを中止せよとか訴える前に、GoToトラベルが感染者数を増やしていないのであれば、どうして危険度を知事に判断せよとか、キャンセル料は国負担で大阪市、札幌市からの旅行の自粛を協議したりするのか、放っておけばよいではないかと質問してみたい。

GoToトラベルと感染者の増加とは関係ないといいながら、菅首相小池都知事との会談で、東京都の重症化リスクの高い六十五歳以上の高齢者と基礎疾患がある人にGoToトラベルの利用を自粛するよう呼びかけたいとの要請に応じた。ならばGoToは高齢者にはよくないと修正するべきではないか。 

GoToトラベルは推進するいっぽうで大阪市と札幌市は一時停止とし、東京に限って六十五歳は利用するなといい、他の道府県の高齢者への言及はない。もう何がなんだかわからず、GoToトラベルと新型コロナ感染症との関係についての認識がぶれまくっているとしか思えない。これを「弥縫策」というのである。縫い合わせ、取り繕って欠点を隠し、一時的に間に合わせとすることで、対義語を見ると「抜本的な策」「根治」とあった。弥縫を重ねて根治に行き着けばよいけどね。

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十二月十二日。ヴァーチャルマラソンで10km を走った。七十歳になって初レースの成績は56:47、347/789。六十代最後のレースが56:20、287/769だから挽回しなくてはいけない。加齢とともにタイムは落ちて「意地の筋金、度胸のよさも、いつか落ち目の三度笠」なんて口ずさみ、苦笑いするが、これもまた楽しい。

この日、ジョン・ル・カレ氏(本名デービッド・コーンウェル)がイギリス南西部コーンウォール地方の病院で肺炎により死去した。 八十九歳だった。「寒い国から帰ってきたスパイ」そして「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」にはじまるジョージ・スマイリー三部作に大興奮したのがつい昨日のよう。スパイ小説の醍醐味を教えてくれた作家にあらためて感謝を捧げる。

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GoToトラベルの年末年始の一時停止を発表するのにペーパーを読みあげていた菅首相にネット上では不満と批判の声が多く寄せられている。官僚の作文ではなく自身の言葉で語ってほしいとの願いもあった。

また「ニューズウイーク」誌日本版の記事のリードには「新型コロナ危機のなか珍しく情に訴えたメルケルは、ウイルスというファクトから目を背けることはできないと言い、菅は『こんにちは、ガースーです』と言った」とあった。

菅首相が読んでいた原稿が官僚の作成したものか首相自身が書いたものかはわからないがあまり顔も上げず抑揚もつけず淡淡と読んでいる姿を目にすると判断は前者に傾きやすい。

在職中何度か婚礼で祝辞を述べたことがある。会場の雰囲気や仲人のご挨拶を踏まえて当意即妙に語るのはどんくさいわたしにはとても無理なので、あらかじめ原稿を書き、当日はそれを取り出して読んだ。 自分としては心を込めて書いたつもりである。 記憶して臨もうという気はなかった。

それやこれやで原稿を読む首相を批判するつもりはない。問題は語られた内容に人間としての誠実、政治家としての見識があるかどうかで、ネット上に批判を寄せた人々にはそこのところが心に響かなかったのだろう。

そんなことを考えていたらGoTo一時停止を決めたあと首相は、五人以上の飲食は避けるよう国民に求めながら、銀座のステーキ店で二階幹事長ら七人で会食したというニュースがあった。

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十年近く前に買ったブルーツース内蔵のラジカセ状のスピーカーシステムを廃して写真の小型スピーカーに換えた。気分一新また驚いたことに、ハーイ、今日のニュースを知らせてちょうだいと声をかけるとニュースが流れてくる。

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古稀を迎えたのを機に『荷風全集』の再読をはじめた。荷風は、文学者になろうと思ったら大学なぞに入る必要はなく、鴎外全集と辞書の言海とを毎日時間をきめて三四年繰返して読めばよい述べたが、文学者とは関係ないわたしの傍に言海はなく、辞書代わりのスマートフォンと小さなスピーカーがあるばかりだ。

「だれ一人自分の金を他人にばらまくものはいないけれど、だれもが自分の時間と命を他人にばらまいている。この二つくらいわれわれが気前よく浪費するものもないが、この二つの吝嗇だけはわれわれにとって有益であり、褒めてやっていいことなのである」。

このモンテーニュの勧めを受け止め、金の吝嗇にも心がけて荷風全集を読もう。

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「薔薇ノ木ニ/薔薇ノ花咲ク。/ナニゴトノ不思議ナケレド。」(北原白秋「白金之独楽」より)

そしてわたしはクリスマスが近いので何事の不思議なくアガサ・クリスティポアロのクリスマス』を読んでいる。ルビンシュタインの弾くショパン夜想曲集を聴きながら。本はもっぱら喫茶店で読んでいたのにいまは自宅で、外出自粛モマタ楽シ。

「わたしの仕事ならびに技術は、生きることだ。で、そのわたしの考え方、経験、習慣にもとづいて、生きること」だ。(モンテーニュ『エセー』)

「今一日のことを考へて見ても、明日のことが心配にならないこともないが、相当に運動して、相当に食慾を得て、飯をうまく食つて、懇意な友達と一緒に音楽でも聴いて、そして安眠が出来れば、相当の心配はあつても、どうやらかうやら自分は幸福であつたと其日を感ずることが出来る」(永井荷風「現実で満足だ」)

在職中は心急かれながらあれやこれやの本に手を出していた。退職して十年、あれもこれもは読めないとしみじみ断念を味わい、いつしかうえのモンテーニュ荷風の言葉が心に沁みるようになった。昔のように早く読み上げようとは思わない、そのぶんショパンを聴きながらクリスティを読むことに幸福を感じている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャズで彩る叙情精神~『スタン・ゲッツ 音楽に生きる』

ドナルド・L・マギン『スタン・ゲッツ 音楽に生きる』(村上春樹訳、新潮社)。B 5版五百七十頁余、しかも上下二段組で細かい活字がぴっしりと並んでいて、けっこうなボリュームにたじろぎながら読みはじめた。とことがどうだろう原書の魅力と村上春樹の翻訳の相乗効果でスピーディーに読め、たちまち読了、スタン・ゲッツを聴きながら彼の伝記を読む至福の体験となった。

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スイングジャズの世界で根拠地となるミュージシャンをひとり選ぶとすれば、わたしはベニー・グッドマンだ。ハッピーでノリがよく、多彩な共演陣がいてあれこれ手を伸ばしているうちに世界が広がる。ビックバンドを聴くのは稀になったけれど、スモールコンボは愛聴していて、とりわけチャーリー・クリスチャンの参加したコンボの演奏はお気に入りだ。

スイングジャズのベニー・グッドマンのごとき存在をモダンジャズに求めるとなるとスタン・ゲッツだ。素敵な演奏はもちろんだが、はじめルイ・アームストロングの盟友ジャック・ティガーデンのバンドに所属し、そうしてスタン・ケントン、ベニー・グッドマンのオーケストラに所属してキャリアを積み、モダンジャズの一翼を担ったあゆみはジャズの歴史、とりわけモダンジャズとその革新の流れそのものといってよい。だから『スタン・ゲッツ 音楽に生きる』はひとりのミュージシャンの評伝であるとともにジャズの歩んできた道を示してくれている。まあ、そんな大上段なこといわなくても散りばめられたエピソードが本書の魅力を語ってくれるだろう。

そのひとつ。

一九六九年春、ジュディ・ガーランドはロンドンのナイトクラブで酷い失敗をやらかした。酒とドラッグで頭はぼんやりして歌詞が思い出せず客席からスティック・パンや吸殻を投げつけられた。何日かしてスタン・ゲッツの出演するロンドンのクラブにやって来た彼女をスタンは紹介してステージに上げ、ジュディはストゥールに腰掛け二曲を歌った。スタンに静かなオブリガードをつけてもらったジュディの歌は素敵だった。彼女の一行とスタンたちミュージシャンはクラブの経営者ロニー・スコットの招きで中華料理店へ行ったがそのときジュディはジンとライム一リットルを飲んだ。

二か月後の六月二十二日ジュディ・ガーランドはロンドンの自室で死んでいるのが発見された。四十七歳、バルビツールの過剰摂取だった。彼女がエンターティナーの力量を最後に発揮したのはスタン・ゲッツとの共演だったかもしれない。こうしてわたしたちは「オズの魔法使い」に導かれ、稀代のミュージカル女優の最期に立ち会うことになる。

スタン・ゲッツは自身の音楽活動について、灰色の世界に色づけをしていると語っていた。スタンフォード大学でジャズ・ワークショップを創始し、スタンの友人で、彼を大学へ招いたジム・ネイデルが「スタン、僕らが何をやっているか、君にはわかるかな。僕らはこのろくでもない世界を色づけしているんだ」と語った。

スタンはそのときは「そうか」と口にしただけだったが、やがて当のジム・ネイデルに「いいかい、ネイト、いちばん重要なことはね、ぼくらがこの世界にこの手で色づけをしているということなんだよ」と語るようになっていた。

ならば、その色づけはどのようなものだっただろう。

ドナルド・L・マギンはアルバム「フォー・ミュージシャンズ・オンリー」を取りあげ、ここでのスタン・ゲッツについて「まるでユダヤ教の独唱者のように泣き叫ぶかと思えば、すぐさま変化して今度は恐ろしいほど冷笑的になり、そっと優しくロマンティックになり、またぐっとリリカルになる」と述べている。

あるいは若き日の「初秋」において彼は、若者の胸を刺すようなメランコリーを、美しく透き通るトーンで描き出し、のちには苦難をくぐり抜けてきた、成熟した男の哀しみを豊かに、逞しく表現した、まさしく情感の万華鏡だった、とも。

即席=インプロヴィゼーションで語られた激情、クール、ロマンチシズム、リリシズム。即席の魅力についてはスタン・ゲッツ自身の言葉がある。「それは言語のようなものなんだ。君はアルファベットを習う。それはスケール(音階)だ。君はセンテンスを学ぶ。それはコード(和音)だ。そして君は楽器(ホーン)を使って即席で話すようになる。即席で話せるというのは実に素敵なことだよ」。

彼は、ノリのよい楽曲も、優しくロマンティックなものも自家薬籠中のものとしたうえで素敵な色づけをほどこしたミュージシャンだった。ちなみに訳者の村上春樹は巻末のエッセイで、彼の音楽の神髄はほとんど完璧な演奏技術に支えられた「リリシズム」「叙情精神」だと強調している。またマイルズ・ディビスやセロニアス・モンクのような革命的なクリエイターではなく、生涯追求したのは「時代時代に応じて、自らの魂を内側に向けて掘り下げて深めていく個人的な音楽だった」と評している。

尻馬に乗るようだが、これらの明確な批評で、わたしが彼の音楽に親しんできた所以を自覚したのは告白しておかなければならない。

本書を読み終えて、こんな詳細な評伝を書いてもらい、日本訳では村上春樹という格好の訳者を得たスタン・ゲッツってしあわせなミュージシャンだなと思った。

先ほどそのディスクを聴きながら伝記を読む至福と書いたけれど、クスリとアルコール漬けの人だから正確にいうと至福ばかりではない。酒が入ったときの家庭内暴力は凄まじいばかりで息ぐるしいときもあった。リリシズムの裏には残忍なデーモンが棲んでいたのだった。

 

 

 

「この世界に残されて」

映画が終わったとき、腰を上げたくない、上げられない、いま少しこの世界に残されていたい気持になりました。
そのあと喫茶店で珈琲を前に、未熟でも何かひとこと寄せたい、けれどハンガリーの現代史を背景とする複雑な愛のありようを言葉でかたちとして表すのはわたしには無理だとも思っていました。
でも言葉を寄せるのを諦めるのはあまりにもったいない作品なのです。書くのに苦労するくらいなら、感銘を噛み締めていればよいとわかっていても、ひとこと言いたい症候群のわたしはそうもできず、苦笑せざるをえませんでした。
一九四八年、ハンガリー。十六歳のクララが保護者のおばに連れられて婦人科の医院に、初潮がずいぶん遅いと診てもらいに来ます。診察したのは四十二歳のアルドという医師でした。
まもなくクララはアルドを訪ね、初潮があったと報告、そうして彼女はアルドの家で暮らすようになります。といってもおばと義絶したわけではありません。(ここのところはハンガリーの生活習慣が作用しているのかもしれません)
アルドは友人に「彼女を引き取ったんだ」と語りながらも、クララが同級生の男の子とデートするとなると嫉妬心が湧いてきます。家族愛に男女の愛が微妙に絡んでいて、少女を引き取った保護者と彼女への恋とは相反するものなのですが、断念と期待とはどうしようもなく交錯します。

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二人が心を寄せ合ったのにはともにホロコーストにより家族を壊されたという事情がありました。クララは両親を、アルドは妻子を喪っていて、家族愛と男女の愛の空間は痛みと癒しの場でもありました。
こうしたなか、アルドはある女性と交際をはじめ、これを機にクララはアルドの家を離れます。それは別離ではなく、初潮の遅かった少女が大人に向かう跳躍台と映りました。
こうしてナチズムという右の全体主義に代わりスターリニズムという左の全体主義が襲って来ている時代を二人は生きます。
二人が出会った五年後、アルドもやって来てクララの結婚のささやかな祝いが開かれようとするときスターリンの訃報が伝えられます。
映画はここで終わるのですが、観客はおのずと三年後のソ連の権威と支配にたいする民衆の抵抗運動、ハンガリー動乱とクララとアルドまた祝いの席にいる人々の行方を意識せざるをえません。
それはともかくここまでの戦後をクララとアルドは生きました。そこでわたしが意識したのは戦前の愛を引きずったまま戦後を生きられなかった男と女を描いた成瀬巳喜男監督の名作「浮雲」で、「この世界に残されて」と「浮雲」は「生きた/生きられなかった」という点では反対側に位置していますが、戦争がもたらした喪失感を抱きながら生きる人たちという点では共通するものがあります。
そういえばむかし映画館ではじめて「浮雲」を観たときも、腰を上げたくない、上げられないほどの衝撃を覚えました。
(ニ0一九年十二月二十八日シネスイッチ銀座

お年賀

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

二0二一年一月一日

 

わたしの二0二0年は古稀を迎えたのと、緊急事態宣言に伴う自粛の年でした。旅と街歩きの好きな者には不安な自粛生活と思われましたが、いざ実践してみると意外にけっこうなものでした。

朝はゆっくりと寝床を離れ、ジョギングをしたあとシャワーと朝食、ニュースをチェックしてから映画やテレビドラマを視聴しているとはや正午が近く、昼食のあとはパソコンで遊んだり(遊んでもらっているのかな)、午前にみた映画について調べたり、読んでいる本についてのメモを書いたり、そうしておやつの時間になると珈琲を淹れ、音楽と読書の時間を過ごしました。

夕方は上野公園に出て、不忍池の蓮やほとりの草花、樹木に移り行く季節を味わいながら散歩しているうちにこのあとの晩酌を思って、お楽しみはこれからだといった気分になります。

これが予定のない日のライフスタイルで、ゆるやかな時間っていいものです。

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断捨離

若いときからずいぶん本を買ったがこの数年で多くを処分した。『斎藤茂吉全集』『久保田万太郎全集』ほか数人の方々の全集、著作集や『千夜一夜物語』『カサノヴァ回想録』など、それに二十世紀文学の金字塔とあこがれ、いつか読破したいと願っていたジェイムズ・ジョイスユリシーズ』とマルセル・プルースト失われた時を求めて』も半分も読み進めずに断念し、売り払った。

あれも読みたい、これも読みたいといった意識がようやく遠のき、それほどは読めないし、自身の理解力を超える本を架蔵するのは愚かしいと遅まきながら気づいた。それに映像、音楽のストリーミングの普及が時期的に重なり、本、CD、DVDを減らしたおかげでずいぶんすっきりした部屋になった。

断捨離とは「ある不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的」(Wikipedia)だそうだから、いまのわたしの部屋はまさしく断捨離の成果である。

そして、いま現在残っている本、CD、DVDを眺めていると断捨離とはいたずらにものを減らすことではなく、減らしながらなくてはならぬものを発見する行為だと実感する。

山頭火の日記に「捨てても捨てても捨てきれないもの、忘れようとしても忘れることの出来ないもの、ーそこに人間的なものがある、といへないこともあるまい、人間山頭火!」(昭和八年七月二十七日)とあり、ここに断捨離の真髄があると思う。

「捨てても捨てても捨てきれないもの」をみつける試みができるのは、過分に買い物をしたためだから凡人の人生勉強の成果としよう。賢人とはこうした勉強を必要としない人なのかもしれない。

 

近ごろよく昔のことを思い出す。うれしかったこと、たのしかったことだけで十分なのに、いやだったことや思い出したくないことなども蘇ってくる。もともとノスタルジーの心情を強くもつ者が高齢になると一層ノスタルジックになり、それに、この先の墳墓という名の終着駅を考えるより、いままで通過してきた行路を振り返ってみたい思いが強くなる、するとおのずと思い出したくないこともくっついてくる。高齢者の精神現象学の一例といったところだろう。

「ー昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。/ーけれど其の望みは敗れて空にと消えました」(ヴェルレエヌ、永井荷風訳)。

叶えられなかった夢や若いときの甘酸っぱい体験もできれば忘れたいのだが、そこまでは望むまい。しかし、どんくさい、日本のわたしの赤っ恥や失った面目の記憶は空にと消えてほしい。ところが、これは厄介で、本とちがい売り払いもできない。

生き恥をさらしたうえに死にざまを見られるのは真っ平御免、葬儀は無宗教家族葬に限ると遺言はしてあるけれど、それで生き恥をふっ切れるものではない。昨日を思はず、明日を考えず、今日は今日を生きるという境地に達するのはなかなかだ。

まあ、凡人の人生は悔恨の連続と思えば何ほどのことはないと自分を慰めるほかなく、そうなると酒に悔恨が附随しそうなものなのにさいわい飲んでいると晴れやかな気分一色で、自分に酒は涙でも溜息でもない。

老いの道でたのしく、おいしい料理を喰らい、酒を飲んでいるうちに度忘れ、物忘れが重なり、記憶も薄れてくると過去の望ましくない残影もどこかに忘れてくる、そうした心の断捨離に期待している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流言録

昭和十七年の暮れのある日、甲州街道で一台のトラックと荷馬車が衝突し、トラックに積んであった荷物が路上に落ち、なかにあった四個の米俵のうちひとつが破れ白米が散乱した。

通りかかった巡査がそれを見て運転手を尋問したところ運転手は悪びれないどころか傲慢な態度で、荷物は山梨県警の警察部長様が東京へ転任するにつき運搬しているのだと応じた。米は配給を通じてしか入手できないのに四俵の米俵はヤミ米もしくはわけありのものだろうと巡査は警視庁へ連絡した。

そのため山梨県庁の知事をはじめとする役人たちが県民の配給米を盗み取った白米をたらふく食い、県民には馬の飼料用の麦を配給していたのが露見した。しかし事件はすべて秘密のうちに葬り去られ、関係した役人たちは南洋の占領地や満洲の辺境に人事異動となったが行政処分はなかった。

永井荷風断腸亭日乗』昭和十八年二月十日の「流言録」にある話で、流言だから真偽はわからないけれど、戦争という非常時を金儲けのチャンスにするエライさんがいて配給にも抜け道があることを直感で知る庶民がうわさしていたのだろう。

断腸亭日乗』には「世の中は星に錨に闇と顔馬鹿な人達立つて行列」なる落首が書き留められていて、「星」は陸軍、「錨」(いかり)は海軍をいう。配給にも抜け道、闇ルートはあっても顔役でなければ参入できず、庶民はうわさをやりとりしながら行列に列ぶほかない。

ことしは新型コロナウイルス感染禍という非常時だったから、戦時中の話から類推するに、いまこそ絶好の機会として暗躍したた要路の方々もいたにちがいない。

そういえばいわゆるアベノマスクは四社が受注し、そのうち興和伊藤忠商事、マツオカコーポレーションの三社は早々に公表されたが残りの一社の公表はなぜか遅れた。

あとで公表されたところによると福島市にある「ユースビオ」という会社で、木質バイオマス事業参入のため三年前に設立された企業であった。設立三年の無名の会社と首相官邸はどのようないきさつでつながったのか、誰が結びつきを講じたのか、東日本大震災復興事業とも絡んでいろいろとうわさが立った。さらにはGoToトラベルも自民党の大物幹部がアクセルを踏みまくっているらしい、あくまで「流言録」である。

いっぽうマスクの不足していた折りにはマスクを転売して逮捕起訴された出来事があり、こちらは実事で流言ではない。弁護はしないが 億単位で受注したうわさの企業と比べると哀れな気がする。

第二次世界大戦後、冷戦下でアメリカ軍はソ連と対抗するために一部元ナチス幹部を重用したが、ナチスのパリ占領中にその幹部の愛人となったフランス人女性は対独協力者、非国民として処罰された。愛人、二号、お妾をかばう気はないがこちらも哀れな話である。

悪事や愛人に関わりのないひとは立って行列の事態にならないよう願いながら、流言に世相を観察するほかない。

 

GO toトラベル下の日常

核兵器保有などを全面的に禁じる「核兵器禁止条約」を批准した国と地域が五十に達し、国際条約として、二0二一年一月に発効することになった。他方、核保有国である米、英、仏、中、露のふだんはなかなか一致することのない五カ国は反対で足並みをそろえた。既得権益という霧が立ち込めている眺めである。

核兵器禁止条約」の批准国と日本を含む非批准国の二つの立場のうち前者がどれだけ現実に機能するかは厳しいものがあるだろう。しかし核兵器廃絶という理想への道筋を選んだ批准国の意思は貴重であり、裏を返すと米、英、仏、中、露の五大国へのうんざり感は強い。

現実派が理想派を嗤うのはたやすい。しかし現実に浮遊しているだけで 理想を追求しようとしない人々にそれほどの価値があるとは思われず、理想と嗤われても「核兵器禁止条約」の精神は尊い

核兵器禁止条約」の理想に触発されたのか内政面での理想も語ってみたくなった。

きょう十月二十六日菅内閣の発足後はじめての本格的な論戦の舞台となる臨時国会が召集された。自民党社会党の時代に木村禧八郎という参議院議員がいて、「貧乏人は麦を食え」という池田勇人蔵相の答弁を引き出したこの人が質問に立つときは、答弁に備える大臣、官僚の緊張度が違ったと聞く。議場でスマホをいじっている議員諸公にはぜひ知っておいていただきたい話で、野党には鋭い質問を、政府には誠実な答弁を期待したい。

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十一月。お天気キャスターが「きょうは小春日和の暖かな一日でした」というのを聞きたい時期となった。 永井荷風は「大窪だより」に 「青空の色のうつくしさは東京にては小春日和の十月よりも初冬いつしか過ぎて菊も末になり候頃より十二月になりていよいよ濃く滴るやう見え初むるものに御座候」と書いていてこれからの青空も楽しみである。

ほぼ毎日上野界隈をジョギング、散歩する。そういえば酉の市の季節なのにポスターを見ない、と気づいた。そんなはずはないのだろうが意識がそちらのほうに向かわず、見れども見えず状態に陥っていたのかもしれない。ことしは火災の多いといわれる三の酉まであるのだが新型コロナウイルスによる入場規制があり、来られない人には特別に郵送にてお守りを授与しますとの由。

「賑はひに雨の加はり一の酉」(木内彰志)

「一の酉夜空は紺にはなやぎて」(渡邊千枝子)

さて酉の市の宵は紺にはなやぐことになりますかどうか。

確かなのは新型コロナ対策であらかじめ入場許可された人だけが神社に入るので「酉の市に到りも着かず戻りけり」(数藤五城)といった人出と賑わいはない。

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昭和十八年に玄米の配給制が実施されたとき東條首相の甥にあたる人物が「東條だけが白米を食べている」と発言して物議を醸したという話が百足光生『荷風と戦争』にあった。あの一族にもおもしろい人がいたんですねえ。東條の甥のちょっといい話に「一杯やりたい夕焼空」(山頭火)といった気分になった。

半藤一利『昭和史戦後篇』によれば東京裁判ソ連東條英機に死刑罪を求めなかった。当時ソ連には死刑がなかったために死刑求刑にはすべて反対したのだそうだ。知らなかったなあ。現実にはスターリン独裁下で多数の虐殺やシベリア送りにより実質的に大量の死刑者を出しているから死刑罪がないというのはかえって怖い。その昔、ソ連や中国には暴力団がないと喧伝されたが国家が超暴力団だったわけだ。

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アメリカ大統領選挙の開票がはじまった。統計上ではバイデン氏の優勢が報じられてきたが、数日前にNHKBS1が放送した、大統領選を控えたいま大衆食堂ダイナーを訪ねて、人々の本音=リアルボイスに耳を傾けるという「ザ・リアル・ボイス ダイナーからアメリカの本音が聞こえる2020」をみたところ、ジャーナリズムが伝える数字よりもトランプ大統領への支持は底堅いように思われた。じっさい途中開票結果にはトランプ大統領の選挙の強さが示されている。

トランプ、バイデンのいずれが勝利するかを注視しながら感じたのは選挙をめぐるいろんな問題はあってもスリリングで、興味深いアメリカ大統領選のあり方で、これに較べれば日本の国政選挙なんて消化試合に等しい。

自民党が強すぎるのか、野党があまりにだらしないのかはともかく、確実にいえるのは消化試合では政治に関心をもつのは難しい。むかしも消化試合は行われていたけれど、自民党内の権力抗争、派閥抗争が面白い話題を提供してくれていた。いまは自民党の総裁選も消化試合の様相で、石破とか岸田とかいう人には主流派に闘いを挑む気概を感じない。

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七十歳になったのを機に二度目の『荷風全集』通読に取りかかった。年齢的に三度目はないかもしれないなんて考えると気が急いて面白くないから、気の向くまま手にした作品を読み、併せてその作品を収める巻を通読するといったやり方で、まずは岩波書店旧版『荷風全集』第十三巻にある『紅茶の後』を読んでいる。同巻にはほかに「妾宅」「大窪だより」「日和下駄」などが収められている。

そこでまずはご挨拶とモチベーションを高めるのを兼ねて久しぶりに荷風の生誕地を訪れた。東京ヒーローならぬ東京貧老のGo toトラベルで、根津の自宅から弥生坂へ出て、坂を上り本郷へ、そこから春日へと下り、富坂を上がって伝通院に立ち寄ったあと、生誕地であるかつての東京市小石川区金富町四十五番地を訪れた。現在は文京区春日二丁目。三井家や川口アパートのある閑静な地域だ。

荷風の家は維新ののち水戸の御家人や旗本の空き家敷が売りに出されていたのを父久一郎が三軒まとめて購入した広々とした地所にあり、のちの荷風、永井壮吉は一八七九年(明治十二年)十二月三日にここで生まれた。

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そのころ初夏になると時鳥の鳴くのが聞こえたという。「葷斎漫筆」にはかつてこの近くに大田南畝が住んでいたのが嬉しく、尊敬憧れの情は深まるばかりとある。

金富町の名はいまはないが文京区立金富(かなとみ)小学校の校名として残されている。なお荷風の号のひとつ金阜山人(きんぷさんじん)は金富町に由来している。育った地域と若いころを回想したいくつかの随筆のなかに「礫川徜徉記」がある。礫(つぶて)を小石川にリンクしたものでこちらも礫川(れきせん)小学校として校名となっているのがうれしい。この学校の生徒さんは漢字に強そうだなあ。

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ただし荷風が通学した小学校は黒田小学校初等科で戦後は文京区立第五中学校となったが生徒数減による学校再編成で二00九年三月に廃校となり、いまは文京区基幹相談センターが建っている。なお黒田小学校、第五中学校跡地にある石碑には卒業生として松平恒雄永井荷風黒澤明の名が刻まれていた。

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第二次世界大戦後に限っていっても日本政府が政治的に議論のある諸問題について学者の意見を総合的、俯瞰的に検討したうえで積極的に採用したり、尊重したりした印象はない。どちらかというと軽視してきたと思う。

異論異見もあっての世の中だが政府の意見とは異なる学者のそれに耳を傾ける気のない日本の政治はさらに学術会議のメンバーも統制しようとするのだからよくよく権力を用いるのがお好きな新内閣である。

先日菅内閣により任命拒否に遭った六名の先生方はいずれも文系だが、これからは軍事や原発、大規模公共工事等について政府の方針に異論を述べる恐れのある理系の先生方が任命を拒否される番だろう。それにこんな理系の先生がいては 文系とは違って 閣僚や議員諸公の腹を肥やす妨げになるからしっかりと狙い撃ちするに違いない。それやこれやで日本学術会議の改革が政治の争点となっている。

いま読んでいるユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q アサドの祈り』でカール・マーク警部補が「上に立つ人間というのは、すぐに改革をしたがる。それが彼らの弱点だ。上司ー特に公務員の指導的立場にある人間ーという生き物は、改革を叫ぶ以外に自分たちの存在意義を証明する方法がないのだ」といっていた。菅首相は任命拒否から学術会議の改革に論点をずらしていて、おそらく改革をブチ上げていれば格好がつくと考えているのだろう。

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十一月十五日、日曜日の午後、昨日行われたラグビーテストマッチニュージーランドオールブラックス)vsアルゼンチン(ロスプーマス)をJ SPORTSオンデマンド放送で観戦。大方の予想に反してアルゼンチンが勝利した。これまでアルゼンチンはニュージーランドに二十八敗一引分だったから三十戦目にして初勝利をあげた。二0一五年W杯で日本が南アフリカに勝ったときとおなじ気持をアルゼンチンのラグビーファンは味わっているだろう。初勝利に祝意を贈ろう。

この試合はオーストラリアで行われていて、これに地元オーストラリア(ワラビーズ)が加わっての三カ国対抗は全試合がこの国で行われる。新型コロナウイルスの影響でホームアンドアウェー方式はできない、それと南アフリカは参加していないなどの制約はあるが、いまテストマッチが開催できるのは羨ましい。そんなことも思いながら自宅で珈琲を飲みながらのラグビー観戦だった。

緊急事態宣言からあと喫茶店へ行く回数は減ったうえにGotoなんとかの贅沢はできない年金生活者としてはこのところ少しリッチにとブルーマウンテンを淹れている。

同日IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長が来日し、首相官邸菅首相と会談して、延期された東京オリンピックパラリンピックの開催実現に向け緊密に連携していくことを確認した。

会長が「東京大会を必ず実現し、成功させる」といえば、首相は「人類がウイルスに打ち勝った証しとして、東日本大震災から復興しつつある姿を世界に発信する」と語った。

首相がいうように「人類がウイルスに打ち勝った証し」として開催できればよろこばしいのだが、しかしそれは天気予報に例えれば晴れマークのときのことで、歌の文句じゃないけれど嵐も吹けば、雨も降る、そのときにどうするのかが気がかりだ。天気予報を無視するより十分見極め予想をして行動するのが賢明なのはいうまでもないが、東京五輪パラリンピックのときの嵐や雨の予報は考慮するに及ばないというのであれば 清水の舞台から飛び降りるとして太平洋戦争に突入したときとおなじ精神構造としかいいようがない。

おそらく曇りマーク、雨マークのときの対応策も話し合われたと推測するが、弱気に映るのを配慮しているのだろうか。高齢者のわたしは感染症が現状のまま開催となれば怖ろしいので、できれば大会期間中とその前後は東京を離れたいと思っている。

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「國破れて山河在り」ではじまる杜甫「春望」に「峰火三月に連なり/家書萬金に抵る」という一節がある。戦いは三か月の長きにわたり、たまに来る家族からの便りは万金にも値するほど貴重であるといった意味で、杜甫が生きた戦乱の時代にあって家族からの音信がどれほど難しく、貴重なものであったかの思いが込められている。

そしていま情報通信機器の発達により「家書萬金に抵る」状況は大きな変化を遂げたいっぽうネットでの誹謗中傷からテロ集団の兵士の調達までさまざまな不都合が生まれている。

杜甫の詩集の傍にはスマートフォンがあり、みているうちに子供のころラジオで、復員した兵士や戦災で散り散りになった人たちが行方のわからなくなった家族や友人に消息を伝えようとする尋ね人の時間という番組があったのを思い出した。戦後もしばらくは「家書」の伝達は容易でなかった。

そのころを回想して作家の小沢信男氏は『俳句世がたり』に「あのころは、じっさい世界がひろかった。海のかなたに自由博愛の国。労働者農民の祖国。または愛と芸術の都とか。空腹の日々ながら、夢にも滋養があったものか」と書いていて、淡き夢にもそれなりに期待が伴っていた敗戦の焼跡から復興の日々であったようである。

それからおよそ七十余年、「労働者農民の祖国」は早々に全体主義の化けの皮が剥がれ、そこに勝利したとはしゃいでいた「海のかなたに自由博愛の国」はアメリカ・ファーストと吠えまくった大統領のお人柄も作用してか大統領選の混乱が長びき、選挙のひとつもまともにできないのかと疑問を覚える国となっている。

「夢にも滋養があった」、夢が身体を養ってくれたという小沢信男氏の言葉と対比すれば、現代は夢にも強壮剤やサプリメントをあたえてやらなければならない時代のような気がする。

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十一月二十三日現在、新型コロナウイルス感染症の感染者は132358例、死亡者は1981名となっている。密は避けよといわれるいっぽうでGO toトラベルやGO toイートの施策により観光地の人出はずいぶん多くなっている。人が動くと感染リスクは高まるが、政府は経済を回してゆくためには GO toトラベルやGO toイートは必要だとして実施に踏み切った。

菅首相と山口公明党代表との会談で、感染拡大防止とGO toトラベル、 GO to イートの推進を適切に図っていかなければならないことで一致したと報道があった。

「適切」という抽象的な言葉について、わたしは 新型コロナウイルスの陽性者が多少増えてもやむをえない、 Go to推進のために医療従事者は現状を甘受すべきだと勝手に解釈したが意地の悪い見方だろうか。適切は便利な言葉だが具体性を欠いている。健康生命に関わることはもっと適切にいってほしいものだ。

いずれにしてもわたしに旅行や飲食のためにGO toを利用するカネはなく、ちょいと検討してみるかという気になってもネット上でどうすればよいのかわからない。金銭、情報リテラシーともに乏しいのもときによいものである。

そしてこの日、図書館に行っていると写真の旅行者集団に行きあった。いくらなんでもこの感染症禍のもとで住宅地を練り歩くなんて!

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狭い道でゆっくりすれ違うのが怖く、慌てて駆け抜けた。GO toトラベルの推進を訴え、他方で密は避けよとおなじ口で語る政治家諸公にこの光景はどんなふうに映るだろう。

スポーツ観戦にスタジアムに行く、レストランや居酒屋に入る、いずれもリスクを取ったうえでの行動であり、密を避けたい者は足を運ばなければよい。観光地もおなじく旅行者は大げさだが覚悟のうえで出かけているはずだ。しかし、近くに根津神社という人気スポットがあるとはいえ住宅地に集団で押しかけるのはそれこそ適切ではない。

感染防止と経済との両立は大切だし、旅行業界や飲食業界がたいへんなのはわかっているつもりだ。ニュースで事業者が感染予防策に努めている姿を見ると頭の下がる思いがする。しかし旅行社が集団を引率し住宅地を練り歩くのは納得できない。