流言録

昭和十七年の暮れのある日、甲州街道で一台のトラックと荷馬車が衝突し、トラックに積んであった荷物が路上に落ち、なかにあった四個の米俵のうちひとつが破れ白米が散乱した。

通りかかった巡査がそれを見て運転手を尋問したところ運転手は悪びれないどころか傲慢な態度で、荷物は山梨県警の警察部長様が東京へ転任するにつき運搬しているのだと応じた。米は配給を通じてしか入手できないのに四俵の米俵はヤミ米もしくはわけありのものだろうと巡査は警視庁へ連絡した。

そのため山梨県庁の知事をはじめとする役人たちが県民の配給米を盗み取った白米をたらふく食い、県民には馬の飼料用の麦を配給していたのが露見した。しかし事件はすべて秘密のうちに葬り去られ、関係した役人たちは南洋の占領地や満洲の辺境に人事異動となったが行政処分はなかった。

永井荷風断腸亭日乗』昭和十八年二月十日の「流言録」にある話で、流言だから真偽はわからないけれど、戦争という非常時を金儲けのチャンスにするエライさんがいて配給にも抜け道があることを直感で知る庶民がうわさしていたのだろう。

断腸亭日乗』には「世の中は星に錨に闇と顔馬鹿な人達立つて行列」なる落首が書き留められていて、「星」は陸軍、「錨」(いかり)は海軍をいう。配給にも抜け道、闇ルートはあっても顔役でなければ参入できず、庶民はうわさをやりとりしながら行列に列ぶほかない。

ことしは新型コロナウイルス感染禍という非常時だったから、戦時中の話から類推するに、いまこそ絶好の機会として暗躍したた要路の方々もいたにちがいない。

そういえばいわゆるアベノマスクは四社が受注し、そのうち興和伊藤忠商事、マツオカコーポレーションの三社は早々に公表されたが残りの一社の公表はなぜか遅れた。

あとで公表されたところによると福島市にある「ユースビオ」という会社で、木質バイオマス事業参入のため三年前に設立された企業であった。設立三年の無名の会社と首相官邸はどのようないきさつでつながったのか、誰が結びつきを講じたのか、東日本大震災復興事業とも絡んでいろいろとうわさが立った。さらにはGoToトラベルも自民党の大物幹部がアクセルを踏みまくっているらしい、あくまで「流言録」である。

いっぽうマスクの不足していた折りにはマスクを転売して逮捕起訴された出来事があり、こちらは実事で流言ではない。弁護はしないが 億単位で受注したうわさの企業と比べると哀れな気がする。

第二次世界大戦後、冷戦下でアメリカ軍はソ連と対抗するために一部元ナチス幹部を重用したが、ナチスのパリ占領中にその幹部の愛人となったフランス人女性は対独協力者、非国民として処罰された。愛人、二号、お妾をかばう気はないがこちらも哀れな話である。

悪事や愛人に関わりのないひとは立って行列の事態にならないよう願いながら、流言に世相を観察するほかない。