断捨離

若いときからずいぶん本を買ったがこの数年で多くを処分した。『斎藤茂吉全集』『久保田万太郎全集』ほか数人の方々の全集、著作集や『千夜一夜物語』『カサノヴァ回想録』など、それに二十世紀文学の金字塔とあこがれ、いつか読破したいと願っていたジェイムズ・ジョイスユリシーズ』とマルセル・プルースト失われた時を求めて』も半分も読み進めずに断念し、売り払った。

あれも読みたい、これも読みたいといった意識がようやく遠のき、それほどは読めないし、自身の理解力を超える本を架蔵するのは愚かしいと遅まきながら気づいた。それに映像、音楽のストリーミングの普及が時期的に重なり、本、CD、DVDを減らしたおかげでずいぶんすっきりした部屋になった。

断捨離とは「ある不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的」(Wikipedia)だそうだから、いまのわたしの部屋はまさしく断捨離の成果である。

そして、いま現在残っている本、CD、DVDを眺めていると断捨離とはいたずらにものを減らすことではなく、減らしながらなくてはならぬものを発見する行為だと実感する。

山頭火の日記に「捨てても捨てても捨てきれないもの、忘れようとしても忘れることの出来ないもの、ーそこに人間的なものがある、といへないこともあるまい、人間山頭火!」(昭和八年七月二十七日)とあり、ここに断捨離の真髄があると思う。

「捨てても捨てても捨てきれないもの」をみつける試みができるのは、過分に買い物をしたためだから凡人の人生勉強の成果としよう。賢人とはこうした勉強を必要としない人なのかもしれない。

 

近ごろよく昔のことを思い出す。うれしかったこと、たのしかったことだけで十分なのに、いやだったことや思い出したくないことなども蘇ってくる。もともとノスタルジーの心情を強くもつ者が高齢になると一層ノスタルジックになり、それに、この先の墳墓という名の終着駅を考えるより、いままで通過してきた行路を振り返ってみたい思いが強くなる、するとおのずと思い出したくないこともくっついてくる。高齢者の精神現象学の一例といったところだろう。

「ー昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。/ーけれど其の望みは敗れて空にと消えました」(ヴェルレエヌ、永井荷風訳)。

叶えられなかった夢や若いときの甘酸っぱい体験もできれば忘れたいのだが、そこまでは望むまい。しかし、どんくさい、日本のわたしの赤っ恥や失った面目の記憶は空にと消えてほしい。ところが、これは厄介で、本とちがい売り払いもできない。

生き恥をさらしたうえに死にざまを見られるのは真っ平御免、葬儀は無宗教家族葬に限ると遺言はしてあるけれど、それで生き恥をふっ切れるものではない。昨日を思はず、明日を考えず、今日は今日を生きるという境地に達するのはなかなかだ。

まあ、凡人の人生は悔恨の連続と思えば何ほどのことはないと自分を慰めるほかなく、そうなると酒に悔恨が附随しそうなものなのにさいわい飲んでいると晴れやかな気分一色で、自分に酒は涙でも溜息でもない。

老いの道でたのしく、おいしい料理を喰らい、酒を飲んでいるうちに度忘れ、物忘れが重なり、記憶も薄れてくると過去の望ましくない残影もどこかに忘れてくる、そうした心の断捨離に期待している。