「この世界に残されて」

映画が終わったとき、腰を上げたくない、上げられない、いま少しこの世界に残されていたい気持になりました。
そのあと喫茶店で珈琲を前に、未熟でも何かひとこと寄せたい、けれどハンガリーの現代史を背景とする複雑な愛のありようを言葉でかたちとして表すのはわたしには無理だとも思っていました。
でも言葉を寄せるのを諦めるのはあまりにもったいない作品なのです。書くのに苦労するくらいなら、感銘を噛み締めていればよいとわかっていても、ひとこと言いたい症候群のわたしはそうもできず、苦笑せざるをえませんでした。
一九四八年、ハンガリー。十六歳のクララが保護者のおばに連れられて婦人科の医院に、初潮がずいぶん遅いと診てもらいに来ます。診察したのは四十二歳のアルドという医師でした。
まもなくクララはアルドを訪ね、初潮があったと報告、そうして彼女はアルドの家で暮らすようになります。といってもおばと義絶したわけではありません。(ここのところはハンガリーの生活習慣が作用しているのかもしれません)
アルドは友人に「彼女を引き取ったんだ」と語りながらも、クララが同級生の男の子とデートするとなると嫉妬心が湧いてきます。家族愛に男女の愛が微妙に絡んでいて、少女を引き取った保護者と彼女への恋とは相反するものなのですが、断念と期待とはどうしようもなく交錯します。

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二人が心を寄せ合ったのにはともにホロコーストにより家族を壊されたという事情がありました。クララは両親を、アルドは妻子を喪っていて、家族愛と男女の愛の空間は痛みと癒しの場でもありました。
こうしたなか、アルドはある女性と交際をはじめ、これを機にクララはアルドの家を離れます。それは別離ではなく、初潮の遅かった少女が大人に向かう跳躍台と映りました。
こうしてナチズムという右の全体主義に代わりスターリニズムという左の全体主義が襲って来ている時代を二人は生きます。
二人が出会った五年後、アルドもやって来てクララの結婚のささやかな祝いが開かれようとするときスターリンの訃報が伝えられます。
映画はここで終わるのですが、観客はおのずと三年後のソ連の権威と支配にたいする民衆の抵抗運動、ハンガリー動乱とクララとアルドまた祝いの席にいる人々の行方を意識せざるをえません。
それはともかくここまでの戦後をクララとアルドは生きました。そこでわたしが意識したのは戦前の愛を引きずったまま戦後を生きられなかった男と女を描いた成瀬巳喜男監督の名作「浮雲」で、「この世界に残されて」と「浮雲」は「生きた/生きられなかった」という点では反対側に位置していますが、戦争がもたらした喪失感を抱きながら生きる人たちという点では共通するものがあります。
そういえばむかし映画館ではじめて「浮雲」を観たときも、腰を上げたくない、上げられないほどの衝撃を覚えました。
(ニ0一九年十二月二十八日シネスイッチ銀座