「燃ゆる女の肖像」

鏑木清方小村雪岱木村荘八和田誠安西水丸など画家、イラストレーターには文筆家を兼ねる方が多い。描く対象への観察を重ねるうちに観察力が磨かれ、それが文章にも活かされるからでしょう。「燃ゆる女の肖像」の画家マリアンヌ(ノエミ・メルラン)もモデルとなるエロイーズの人物像を女中のソフィーから聞き出し、画室では癖や感情と表情との関係を探るなど観察力を発揮していました。

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十八世紀末、マリアンヌはブルターニュの伯爵夫人(バレリア・ゴリノ)から娘エロイーズの見合いのための肖像画を依頼され、ブルターニュの外れにある島に建つ屋敷を訪れます。

エロイーズ(アデル・エネル)は結婚を嫌がっていてマリアンヌははじめ画家であることを隠して近づかなければならないほどでした。やがて肖像画が描かれるようになると、マリアンヌはモデルであるエロイーズがしっかりした観察力の持ち主で、マリアンヌを精しく見ていると知ります。描く、描かれるの違いはあるけれど互いに観察することで二人の絆は強まってゆきます。

結婚を厭うエロイーズは結婚のための肖像画も厭っている、その彼女が積極的にモデルになる意思を示します。 それをもたらしたのは結婚を受け容れたのではなく、画家の眼に寄せる気持の変化でした。

妊娠した未婚の女中のソフィー(ルアナ・バイラミ)が闇商売の女に頼んで中絶をしてもらうシーンで、目を逸らそうとするマリアンヌにエロイーズはしっかり見ておくべきだとスケッチを描かせます。これを契機として二人の関係は「観察」から「見つめ合う関係」へと昇華し、キスを交わし一夜を共にします。

宗教と道徳の規範の強い時代の数日間の密かな物語は新作なのに古典的名作のたたずまいを見せています。

その後、絵を教えるマリアンヌは生徒たちに二回だけエロイーズの姿を見たことを明らかにします。子供といっしょのエロイーズの肖像画に接したときともう一回はコンサートの劇場でエロイーズはマリアンヌから少し離れた席に座って、涙ぐんでいました。演奏されているのはヴィヴァルディ「四季」の第二楽章「夏」、あの島でマリアンヌがチェンバロでその一節を弾いた楽曲でした。

劇場でエロイーズはマリアンヌが自分を見ている、その観察眼に気付いていた、その涙は「見つめ合う関係」の思い出と女どうしの愛の断念だったと想像しました。

(十二月八日TOHOシネマズシャンテ)

 

狂気と無知と痴愚を問う~渡辺一夫『ヒューマニズム考』

碩学が生涯かけて学んだことのエッセンスを、素人、初学者に説いた本には素晴らしい著作が多い。わかりやすく、分量も少ないからよみやすい。昨年(二0一九年)十一月講談社文芸文庫で復刊された渡辺一夫ヒューマニズム考 人間であること』もそれに該当する一冊である。

まずはヒューマニズム(著者は本文ではフランス語のユマニスムを用いている)とは何かを押さえておこう。古代ローマの時代、議論が瑣末にわたり意見交換の目的が忘れられた状態に陥ったとき、心ある人々は「それはメルクゥリウス(マーキュリー、知恵の神)となんの関係があるのか」と問いかけ、戒めたという。

キリスト教世界では学問の中心に神学が置かれた。そしてここでも瑣末な議論や議論のための議論といった傾向が生じた。研究が積み重ねられ、細かく綿密になるにつれて形式論理をもてあそび、真実を求めるよりも論敵を打ち負かすのが目的とされる、こうした神の名による痴愚、狂気、また科学研究の成果を無視した無知を憂えた人々は「それはキリストとなんの関係があるのか」と問い、神の意思を体現した人間らしい世界を求めようとした。

これはやがてキリスト教世界を超えて「それは人間であることとなんの関係があるのか」というかたちで受け継がれた。ユマニスムはこうした問いかけを発する態度にほかならない。

ヨーロッパの歴史でユマニスムが大きな影響をもたらしたのがルネサンス宗教改革の時代だった。神の名を冠した硬直した考え方、その裏での教会権力の堕落、天動説に対して地動説という異論を認めないことに端的に示された絶対主義的思考、ヨーロッパ中心の世界に対するアメリカ大陸の出現とそこ住む人々に対する差別と蔑視などが「それはキリストとなんの関係があるのか」「それは人間であることとなんの関係があるのか」と本格的に問われはじめたのだった。

本書はエラスムスマルティン=ルター、フランソワ=ラブレー、ジャン=カルヴァン、セバスチャン=カステリヨン、ミシェル=ド=モンテーニュなどを通してユマニスムがフランスのルネサンス期の文学史、精神史のなかでどのようなかたちで現れ、推移したかをたどり、そのことの現代における意味を追求した著作である。

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ここではジャン=カルヴァンの事例を見てみよう。

カルヴァンはユマニストとしてローマカトリック教会を批判し、自身の活動をスタートさせた。だが一五四0年ごろにジュネーヴでの新教会が設立の緒ににつき、自身の理想とする祭政一致都市国家を建設しようとするなかで、かつて自分がカトリック教会からこうむった迫害を、今度は自分が他者に加えるようになる。

旧教徒からの狂信的な攻撃が彼をそこへ追い込んだという事情はあったが、結果として狂信に狂信で対抗したために多くの犠牲者を生んだ。そのひとりカステリヨンは聖書の解釈をめぐりカルヴァンと対立し、またその不寛容を批判し、異端処刑を否定したためジュネーヴを追われ、その後もカルヴァン派から苦しめられた。

古代ローマ時代の南イタリアの詩人ホラティウスに「徳そのものを飽くことなく追い求めると、賢者も狂人と呼ばれ、正しい人も不公平な人と呼ばれることになりかねない」という言葉がある。理想という目的のために手段を問わなくなったカルヴァンはそうした人であっただろう。渡辺一夫は「ユマニストとして出発し、しかも、その情熱的な信念にかりたてられたまま、ユマニストであることをやめてしまった」と評している。

カルヴァンより二十数歳年下のモンテーニュは「必要以上に賢くなるなかれ。ほどよく賢くなれ」「わたしは、穏やかで、中庸をわきまえた性格の人々が好きなのだ。節度なく善をめざすことは、わたしの心を傷つけはしないものの、唖然としてしまう」と述べ「節度なく善をめざす」ことがときに狂信や異常、不寛容につながるものと認識していた。

ことは洋の東西を問わず、中国にも「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と子供を埋めてしまった郭巨の故事がある。狂気の沙汰で「徳そのものを飽くことなく追い求めると、賢者も狂人と呼ばれ」るようになる中華版親孝行愚譚である。

いうまでもなくカルヴァンの悲劇は二十世紀のスターリニズム毛沢東思想に通じる。それだけ人間は歴史に学ぶ能力に劣るのだろう。だからこそ「それは人間であることとなんの関係があるのか」の問いかけは重要であり、繰り返し語られなかればならないことになるのだが、今日の無差別テロひとつとっても絶対主義的思考や不寛容による犠牲はあまりに大きい。

それを承知のうえで著者はいう。

「ユマニスムは、歴史をつくることを目的とはしていません。むしろ、歴史の流れに見られる『痴愚』や『狂気』を指摘して、悲惨な事態をなるべく少なくし、同じ愚挙を繰り返さないようにすることを願うだけでしょう。」

「ユマニスムの無力、その挫折を語ることは容易ですし、その例と思われるものをあげることは、これまたわけもないことです。しかし、『それはメルクゥリウスとなんの関係があるのか。』の精神が『それはキリストとなんの関係があるのか。』『それは人間であることとなんの関係があるのか。』といい改められて、近代・現代にも生き続けているのです。」と。

なお本書ははじめ一九七三年講談社現代新書の一冊として刊行された。このときすでに渡辺一夫には『フランスルネサンス断章』(いま『フランスルネサンスの人々』として岩波文庫)という名著があった。『断章』と『ヒューマニズム考』とは重なる部分は多いが、前者の叙述が人物論だったのに対し、後者は歴史的叙述が採用されていて、併せて読むことで理解は深められるだろう。

江戸の百均

浮世風呂』『浮世床』などの滑稽本で知られる式亭三馬に文化七年から翌八年五月までの日記を兼ねた『式亭雑記』という随筆があり、冒頭に、なんでも三十八文という店のはなしがある。

「去年の歳暮より此春へかけて、三十八文見せといふ商人大いに行はれり。小間物類品々をほし店に並べ置き、価をば三十八文に定めて商ふこと也」。

小間物など店に並べてある品はどれも三十八文というのはいまの百均とおなじで、辻々に立つ商人の呼びかけも書きとめられている。

「何でもかでもより取つて三十八文、あぶりこでも金網でも三十八文、炮烙に茶ほうじ添へて三十八文、銀のかんざしに小枕附けて三十八文、はじからはじまでより取つて三十八文、京伝でも三馬でも、より取つて三十八文云々」

江戸時代後期にも、いまのダイソーやキャンドウなどとおなじ形態の商いのあったことが知られる。

なお「京伝でも三馬でも」は冗句として加えたものではなく、この声を聞いた三馬は店に立ち寄り「三年此方古板になりし絵草子合巻の事」だったと確認している。

お隣の中国に目をやると北宋の首都開封の市民生活を詳細に描いた風俗志『東京夢華録』に、調度食器飾りつけ請負の「茶酒司」、料理請負の「厨司」、料理配達、招待状発送、宴席サービス、余興手配の「白席人」といった職業が見えている。

「ご利用会場にお料理、テーブルクロス、お皿、その他必要な備品をすべてお持ちし、パーティー会場をセッティングいたします」というのはCBSケータリングのコマーシャルで、十二世紀はじめの中国におなじサービスがあったとことがわかる。

宋代のケータリング・サービスや江戸時代の百均の原型となるともっと古くにさかのぼるかもしれない。

技術の進歩はいちじるしいけれど、過去から持ち越してきたものは多く、それに人間の生活には時代は異なっても安全や平穏な運行のための原理や作法があり、受け継がれることがらは多く、それに廃れていたり、忘れられていたことがらが思い出されたり、よみがえったりもする。三十八文店や北宋の「茶酒司」はその一例である。

百均やケータリングという商いの形態が繰り返されたり、復活したりするのはよいけれど、やっかいな繰り返しに地震や火災などの忘却がある。天災は忘れたころにやって来るのである。

「元暦二年のころ、大地震があり、ひどくゆれた。それはただならぬもので、山は崩れて、川を埋め、海は傾斜して、海水が陸地を浸した」は『方丈記』を現代語訳にした一節だが、鴨長明はその後日談として「そのときは、人皆、ものごとの空しいことをいって、少しは心のにごりも薄らぐかと思われたが、月日が重なり年数が経てば言葉に出して地震のことなど口にする人さえいなくなってしまった」と書かなければならなかった。

百均、ケータリングといった商売の才覚はなかなかのものだが、地震、火災の教訓を忘れず留めておくのはいつの世であっても人間は苦手のようである。

 

四十年にわたる大河スパイ小説〜『CIA ザ・カンパニー』

ロバート・リテルは気になるスパイ小説の書き手だが、読んだのは『ルウィンターの亡命』だけで、しかも長いあいだご無沙汰だったところ、自粛生活の余得で『CIAザ・カンパニー』(渋谷比佐子監・訳、2009年柏艪社)を読む機会を得た。上下二段組、六百頁になんなんとする上巻、そして下巻もおなじくらいの大部の小説を読了できるか不安はあったが、エスピオナージュのファンとして気合を入れて読みはじめた。

一九五0年代にCIAにスカウトされた若者たちのその後のあゆみをとおして描いた大河スパイ小説で、時代は、冷戦、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争そして九0年代半ばプーチンの台頭あたりまでおよぶ。

入局した新人たちに上司は「諸君の中にも、スパイ小説の愛読者は少なくないと思う。CIAに対する諸君の印象がそういう小説から来ているとすれば、誤解も甚だしいと言わねばならない。現実の諜報界は、諸君が小説から感じとるほど冒険に満ちた華やかなものではなく、危険度はさらに高いのだ」。

こんなふうにスタートは地味目でぼちぼち読んでいたところハンガリー動乱のころからグイグイと進んだ。

一九五六年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配にたいする民衆による全国規模の蜂起、本書ではこのハンガリー動乱にCIAのエージェント、エビーが反乱に起ち上がった人々とともに闘う。かれは重大時には米国が介入すると信じ、そのことを反体制派に説き、勇気づける。実際には介入はなかったけれど蜂起側にそうした期待を抱かせるような雰囲気をアメリカは匂わせていたのだろう。

史実はともかく、この小説に即していえば、ハンガリー動乱ソ連に圧殺されたあとエビーが「共産主義を撲滅する、なんて調子のいい言葉に引っかかったお人好しのハンガリー人」に乾杯といえば上司のアングルトンが「敵意のある物言いだなー」と応じていて、CIA内部にハンガリーへの介入派と反対派があったとされる。

ハンガリーで多くの犠牲者をみたエビーはベトナムの状況をまえに「CIAは相も変わらず友好的な国民を戦場に送り込み、何人生き残るかと、アメリカという要塞から高みの見物を決め込んでいる」と思っていたところアメリカはベトナムに介入した。

もしかしてベトナム戦争への介入はハンガリー動乱をやり過ごしたことのつぐないという一面があったのだろうか。だとしてもアメリカの国際情勢の分析はお粗末で、総じてこの国が介入して首脳に担ぎ上げた連中にはろくなのがいない。あるエージェントはいう「問題は構造的だー上に伝えられる情報は、彼らの誤った認識を修正するものではなく、むしろそれを補強するものでしかない」と。

南ベトナムの大統領に担いだゴ・ディン・ジエムについてベトナムを視察したジョンソン副大統領は「国民から乖離しており、しかもジエム大統領本人以上に好ましくない人物に取り巻かれている」とケネディ大統領に報告したが遅きに失したのは否めず、逆側からいえばアメリカという虎の威を借りてのし上がろうとする連中はそれだけで問題を抱えているということになる。

やがてベルリンの壁は崩れ、ソ連は崩壊する。そのときCIAのエージェントだった男は、ソ連は「構想の隠喩(メタファー)さ。ボードに描いているうちは良さそうに見えても、実際は欠陥だらけだった。その欠陥だらけの隠喩は、欠陥だらけの国家以上に消滅させるのが難しかった。でもわれわれがついにそれを打ちのめしたんだ」と語っていたが、そういえるほどアメリカがボードに描いた自由、平等、民主主義は立派だったのだろうか。

ついでながら本書に詩人ジョン・ミルトンの「ただ立って待つだけの人間も奉仕しているのだ」という言葉が引用されていた。いまは「ただ家にいるだけの人間も感染拡大防止に奉仕している」。そのおかげもあって『CIA ザ・カンパニー』を読み終えた。

発熱!

十年ぶりくらいかな、DVDで「フットライト・パレード」(一九三三年)をみた。監督は名作「四十二番街」とおなじロイド・ベーコン

ギャング映画のスターだったジェームズ・キャグニーがボードビル時代に培ったダンスを提げて主演したミュージカルというのが貴重であり、主題歌の「上海リル」はわが国では古くはディック・ミネ、川畑文子、新しくは吉田日出子が(といっても四十年ほどまえ)歌ってヒットした。

ミュージカル・コメディーの演出家キャグニーは 映画がトーキーの時代となったのをみて映画とレビューを併せて上映、上演する方式を思いつき、レビューの作・構成・演出に邁進する。そこまでがバックステージの描写で、このあとフィナーレ、圧巻の舞台が待つ。フィナーレでの注目は水中ショーで、バズビー・バークレーお得意の万華鏡シーンがたっぷりと味わえる。「ザッツ・エンターティメント」でもおなじみのエスター・ウィリアム主演の水中レビュー映画の原点はここにあったのだった。

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人生最後のたのしみは口腹つまり飲み食いにあると思っていて年齢を重ねるとともにそちらの方面がますます気になっている。先日も NHKBSで放送のあった「おしゃれ泥棒」(一九六六年)をみていると、パリのホテルでピーター・オトゥールオードリー・ヘプバーンがスコッチを注文して、ボーイが持って来る、みるとスコッチのはいったグラスが受け皿にのっている。紅茶、コーヒーとともにパリの高級ホテルではウイスキーを受け皿にのせて出していたのだろうか。

もうひとつ『断腸亭日乗』昭和十七年(一九四二年)二月十日の記事に「物買ひにと夜浅草に行く。瓶詰牛肉大和煮と称して鯨肉を売る店多し」とあった。百足光生『荷風と戦争』によるとこの年、味噌、醤油など多くの物資の配給制度が実施されていて、それだけ店頭は逼迫し、品切が多くなり牛肉が鯨肉に化けたりするようになっていた。

荷風日記からおよそ八十年、いまは牛肉よりも鯨肉を口にするのがはるかにむつかしい。昭和二十五年(一九五0年)生まれのわたしは子供のころよく母が「きょうはおかねがないからクジラ」といっていたのをおぼえていて、またクジラかなんて心のなかで文句を垂れていたが、振り返ると畏れ多いことではあった。

「あはれ不思議なる世とはなれり」。

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永井荷風「雪の日」に男女のカップルへの視線でたどる世相の変化を述べた箇所がある。「わたくし達二人、二十一二の男に十六七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさに、おのづから身を摺り寄せながら行くにも係らず、ただの一度も巡査に見咎められたことはなかつた。今日、その事を思返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑と羨怨の目が今日ほど鋭くひかり輝いていなかつたのである」。

世間のカップルにたいする視線を史料で論じるのはむつかしく、ここは明治のほうがゆるやかで、大正以後は厳しかったという作者の実感を尊重しておかなければならない。

「雪の日」が書かれたのは昭和十八年十二月三日、翌年二月の俳句雑誌「不易」に発表された。戦時中、作品の発表が困難だった荷風の公表された数少ない作品のひとつで、二十代はじめのころを回想しながら「猜疑と羨怨の目」にスパイスを利かせている。

令和のいまSNSでの誹謗中傷が社会問題となっている。 SNSで多くの人が気持を、意見を自由に語れるようになったのは素晴らしいことだが、反面で匿名による誹謗中傷が激しくなっていて、 荷風のいう大正以後の若い男女にたいする巡査のまなざしにあった疑いやねたみはいま SNS 上で大きく成長を遂げて鋭く、陰険となり、寛容の心は蒸発気味にある。難癖に熱中する酔狂の大量輩出である。

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話題の水泳選手はわが子の送り迎えには国産車を、不倫というお楽しみには外車を使っていたそうだ。セコイ男、家族が泣くぞ。それともすでに、泣こうとて泪も出ない秋の暮れ、か?

かつて勤務していた高校の同僚に、被差別部落での集会や家庭訪問には国産の軽自動車に、その他では外車に乗っていた男性教師がいてこいつもセコイ奴だったな。

あるときこの教師が、わたしの担任する学級の生徒の何人かに誰がみてもおかしな評価をつけてきた。百点満点の試験の点数からみて5段階評価の3か4は明らかなのに1の赤点が付いていた生徒が何人かいた。授業態度やレポートなど提出物の面でもなんの問題もない。説明を求めるのももどかしく、そ奴のいる部屋へ怒鳴り込んだところ言を左右にして明確な理由を示さず、なんだかんだと突っ張っていたが最後は成績を改めさせた。

「あんまり理屈にもならぬ理屈を言っていると、同和地区へ行くときは外車から国産軽に代えているのを部落解放の方面に提起してやろうか、こらあ」なんて若かったわたしは感情を抑えきれず声を荒げたのだったが、爾来目的別に車を使い分ける奴は問題のある人物というのがわが独断である。

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十月十六日金曜日の夕刻、散歩しているととつぜん悪寒を覚え、その日は体温計の電池が切れていたので翌日電池を代えて計ると38度4分あった。この六七年のあいだ発熱はなく、前期高齢者となってはじめてのことである。東京では連日百人、二百人といった数の方が新型コロナウィルスに感染していて、さらにインフルエンザの流行も心配されているこの時期の発熱はショックが大きい。

月曜日を待って内科、外科、皮膚科等を設置している中規模の病院へ行った。一般の待合室には入れず、病院の入口前で発熱外来の旨を電話で伝えると、その場で検温を指示され、そうして電話で女性看護師さんの問診を受けた。

「金曜日に熱があり、土曜日に熱を計ると38度4分あり、今朝は37度7分になっていました」というと看護師さんが「金曜日は何度だったんですか」と訊ねるので「その日は電池が切れていて計れませんでした。はじめて計ったのは土曜日でした」と答えたところ「金曜日に熱があるってどうしてわかったんですか」と質問された。「金曜日は具体にはわかりません。体温計で発熱を確認したのは土曜日でした」と答えてようやく発熱問答を終え、あとは病歴や咳、鼻水、味覚の有無などの質問があった。

それにしても発熱をめぐるツッコミは厳しかった。でもわたしは相手のひとことをゆるがせにせず秋霜烈日の態度でしっかりした対応をする、看護師さんに限らずこうしたタイプの女性には好感を持っている。ただし、男性看護師におなじ質問をされると「体温計はなくても肉体感覚で発熱の有無はわかりますよ」と瞬時に思っただろう。女性看護師だったからそんなことよりも魅力が先に立った。ジェンダー思想としては問題だろうな、たぶん。

問診が終わると発熱外来室へ入るよう指示され、少しして入室した医師に診察していただいた。ふつうの風邪だとしても高齢者だから念のためPCR検査をしておきましょうとかいわれるかもしれないと思っていたのが話題にもならず、支払いを済ませ、処方箋をいただき薬局で購入して帰宅した。

十七日、ジャズ・トランペッター近藤等則氏が亡くなった。享年七十一。命日となった日にも自身のYouTube公式チャンネルに動画を投稿していたそうだから、まさしく急逝だった。フリージャズ系の方なので聴く機会は少なかったが、おなじ世代のミュージシャンとして気になる存在ではあった。ご冥福お祈りします。同世代の方の訃報は震度が大きい。

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 過日映画館の入場口で瞬間検温すると職員が首を傾げるので質問すると、お客さまの体温が検温範囲の下限より下にあるらしくて計れませんといわれてこちらも首を傾げた。

基礎体温の低さもあずかっているのか37度を超えることはあまりなく、三十代から四十代のあいだのいずれかの十年間発熱はなかったと記憶している。あったかもしれないが自覚はなかった。

ありがたいことだがマイナス面はあり、熱が出るとすこぶる弱くて37度5分くらいで生きるの死ぬのと喚いている。発熱のダメージはおそらく平均よりもきついだろう。そんなわたしが退職して二年目と三年目で都合四、五回発熱して微熱が三週間ほど続いたり、喘息が疑われたこともあった。検査の結果はジョギングのオーバーワークで、退職して時間が余っているものだから調子に乗って走っているうちにとんでもない事態となっていた。けっきょくしっかりした計画を立て、これを機に発熱騒動は止んだ。それ以来の今回の発熱である。

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食っては寝て、寝ては食うは不健康の極みと思っているが、久しぶりに発熱を経験して、食うと寝ることこそ静養のキホンのキと知った。食って寝て体力を回復して病気を克服しなければならない。

そしてこういうときこそツンドクのままにしてあった短篇小説集を読もう。そこでエラリー・クイーン『クイーン検察局』を読みはじめた。次にはJ・ラヒリ『停電の夜に』が控えている。

熱は高いときで8度と少し、低いときで7度と少し、どちらにしても悪寒で身体が震える。

病床 YouTube で若き日の大津美子のうたう「東京アンナ」を見て、聴いた。歌唱力、表現力、パンチ力それに女性の魅力いずれも素晴らしく、見るたびに一度や二度では終わらない。今回も静養するなか大いに慰められた。「東京アンナ」は子供のころ、こんなに洗練された歌謡曲があるんだと思ったナンバーのひとつだった。

そうして久しぶりにクリフォード・ブラウンマックス・ローチのグループを聴いてモダンジャズはここで完成したのではないかと唸った。(熱で唸ったんじゃないからね、念のため)。モダンジャズの極北ここにありは言い過ぎだとしてもそこに位置するジャズプレイヤーたちで、 ここまで来ればあれこれ改良進歩を狙っても超えられない完成度である。明治になって長唄や清元と西洋音楽を組み合わせる試みが行われたが総じてうまくいかなかったそうで、極北とはそういうものである。

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十月二十四日、病癒えてようやくの晩酌が嬉しい。新型コロナウィルス禍のこの時期、高齢者の発熱は心理的負担が大きい。食事していて、次に料理を口に運んだとき味覚がなくなっていればどうしよう、とか。その反動なのか、味覚にかえって敏感になっていて舌が塩分に微妙に反応したりする。一種の防衛機制なのかもしれない。

晩酌は元に戻したから次はジョギングだ。ストレッチ~筋トレ~走り、の手順のうち病後は軽いストレッチのあとウォーキングがよいか、いや、少しは筋トレも入れておかなくてはならない、好きじゃないけどなんて思いは千々に乱れている。ま、こちらはだんだんと元に戻していかなくてはいけない。

発熱は稀だがそのぶん熱に弱くダメージもきつい。若いときであれば病後のジョギングの回復手順を云々するなんて年寄りくさく、格好悪くて公言しなかっただろう。いまは年寄りくさいどころかほんとの年寄りである。未経験ゾーンなので手探りしながら進めてゆこう。

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快気祝いに「秋日和 デジタル修復版」(NHKBS)をみた。物語は「晩春」の焼き直しのようなものではあるが、美しいカラー映像、巧みなユーモアや艶笑譚などリラックスしてたのしみながら小津の名人芸が堪能できる。デジタル処理されて画像が格段に美しくなっているのがうれしい。

本作の原節子本郷三丁目の薬屋の娘だったという設定で、そこに帝大生だったとおぼしい若き日の佐分利信中村伸郎が彼女に会いたくてアンチピリンとかアンチヘブリンガンとかを買い求めに来ていた。場所は青木堂の近くと説明されている。

森鷗外と妻志げの長女だった森茉莉は、子供のころ千駄木の観潮楼に青木堂からケーキを届けてもらっていたと回想している。青木堂はおそらくいまスターバックス本郷三丁目店の立地するところにあったようだ。

どうでもよいことながら、原節子司葉子の母子がアパートに住んでいて、彼女たちは鍵をかけないのが、みるたびに気になる。母の原節子が先に帰宅して、娘の司葉子が帰ったときに施錠はしてなく、さらに娘の婚礼の夜、友人の岡田茉莉子原節子を訪ねて来たときも鍵はかかっていないのだった。

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プロ野球ことしのペナントレースパリーグソフトバンクセリーグジャイアンツの優勝で終わった。ジャイアンツの優勝で思い出したのだが、昨年読んだ堀田善衛の自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』に堀田の従兄がいて、昭和十年代に京大で左翼活動をして逮捕され、一族郎党のコネで警視庁に就職!、のち退職してプロ野球、当時の職業野球の事務方に転職する。

数奇というかへんな人生だなあと思いながら読み進むうちに、あっ、そういうことかとわかった。つまり堀田の従兄は読売新聞社の社主にしてジャイアンツの創立者、初代オーナー正力松太郎(1885−1969)を利用しながら難を避けていたんですね。

少し先に作者が「この職業野球の社長は、Y新聞の社長でもあり、この社長は巡査出身であった。そうして社長は、従兄の亡父が内務省警保局長であったときの部下であったから、ある意味では安全を保障されているに近かったかもしれなかった」云々と書いていて、警視庁とプロ野球の事務方を渡り歩いた男の事情が具体に理解できた。

そこで日本のプロ野球と警視庁は関係が深く、両者を束ねていたのが正力だったと推測した。この人がいたから堀田善衛の従兄は巧みに難を逃れながら奇妙な人生のシノギができたのだった。

 

 

 

国勢調査異聞

日本ではじめて国勢調査が実施されたのは一九二0年(大正九年)十月一日だからこのほど行われた令和二年国勢調査は、第二十一回目、ちょうど百周年の調査となった。今回はとくに新型コロナウイルスの感染拡大を防止する観点から、ポスト投函やオンライン回答が推奨されていて、わたしもスマートフォンでなんとか回答できた。

さかのぼって昭和戦前の国勢調査はいまのそれよりもずいぶんややこしいものだったらしい。永井荷風は『断腸亭日乗』昭和十五年七月四日の記事に「当月一日より戸口調査あり。町会より配布し来りし紙片に男女供身分その他の事を明記して返送するなり。これを怠るものには食料品配給の切符を下附せずと云ふ。日蔭の世渡りするものには不便この上なき世となりしなり」としるしている。

これによると国勢調査(戸口調査)への回答を怠れば食料品の配給切符が回って来ないというペナルティがあった。その際「日蔭の世渡りするもの」つまりいまでいう性風俗業従事者には職業欄にどう書けばよいかというやっかいな問題があった。

じつはこれについて荷風は以前になじみだった女性、それも二人から電話で相談を受けていた。いまアパートに住み 「相変らずの世わたり」すなわち春をひさいでいるけれど戸口調査にどう書けばよいか困っていて、表面だけでよいから先生のお妾にしていただければありがたいとの依頼だった。

荷風としては書類上のこととしてもお妾を二人も三人も抱えるとなると税務署に目をつけられる恐れがあり、彼女たちには「それよりは目下就職口をさがしてゐるやうに言ひこしらへて置くがよし」とした。

新型コロナウイルス対策の一環としての持続化給付金の支給対象に性風俗店で働く人々を含めるかどうかについての混乱があったのは記憶に新しいが、かつての国勢調査をめぐる荷風の日記にはその第一幕の様子が述べられているようである。

うえの日記が書かれた翌年昭和十六年の開戦の日、十二月八日に荷風は発表するあてのないままに小説『浮沈』を起稿した。じじつ戦時中は発表の機会はなく戦後昭和二十二年にようやく上梓された作品で、ここでも荷風は戸口調査を扱っている。おそらく前年の日記を下敷きにして作品に取り入れたのだろう。

『浮沈』の主人公さだ子に君子という友達がいて、津村という有名な画家をパトロンに喫茶店をやらせてもらっている。ところが昭和十五年の国勢調査を機に画伯と君子の愛人関係は解消となる。そのいきさつについて彼女はさだ子に「先月戸口調査や何かがあつたでせう。わたしが先生の二号になつてゐることが、警察や何かに知れると都合が悪いツて云ふやうな訳なのよ。虚言だかほんとだか知らないけれど、先生は政府の御用をするやうになつたんで、喫茶店のマスターなんかしてゐることが知れては困るツて云ふやうになつて来たの」と語る。

荷風の日記の二人の女性は、職業欄に妾としておきたいと荷風に頼んでいたが、『浮沈』では妾とするとパトロンに迷惑がかかるからと愛人関係は解消となる。ついでながら君子は別れる代償に喫茶店をもらい受け、純喫茶はやりにくいと「特種のはうへ届替え」する、つまり 「特種」という性風俗業界への逆戻りである。

こうして荷風は日記で、また小説で国勢調査が社会の底辺に生きる「日蔭の世わたりするもの」を追いつめ、じりじりと炙りだしていく様子をしっかり書きとめたのである。

荷風が小説に書いた女性たちの多くは公娼、私娼、芸妓、カフェの女給、小さな劇場の踊子たち、いわば社会のいちばん低いところで生きる人たちで、(しかし勇敢に生活と奮闘する女性たちである)彼女たちを描いたことでエッチな話ばかり書いている作家というイメージが生じた。たしかに稀代の好色家ではあったが「日蔭の世わたりするもの」への視線がどのような質のものであったかは彼女たちと国勢調査とのかかわりひとつとっても明らかであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019チュニジアの旅(其ノ三)

地中海に面した遺跡の町ケルクアンへ来た。カルタゴが海の彼方のローマと戦ったポエニ戦争は紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで三度繰り広げられ、ケルクアンは第一次ポエニ戦争カルタゴが手放さざるをえなかったところだった。

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ポエニ戦争に勝利したローマはケルクアンを徹底的に破壊したが、建物の基礎をなす石群までは手が及ばず、そのため、ここは現存する唯一のフェニキア人(カルタゴ人)の町の遺跡、古代カルタゴの最良の遺跡となり、1985年ユネスコ世界遺産に登録した。といったしだいで、なんだか世界史の授業みたいになりました。

ルクアンからバスで130㎞、チュニスに戻り、明日からは首都近郊を廻る。かつてのフランスの植民地、そうして比較的穏健なソフトイスラムの国らしくチュニスにはノートルダム寺院を模したキリスト教会が建っている。

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チュニジア北西の内陸部にあるドゥッガ遺跡は北アフリカ最大級のローマ遺跡、65ヘクタールの広さをもち、その中心にはジュピターを祀る神殿が建っている。

ローマ人は進出した先で神殿と劇場と闘技場を造った。ドゥッガに即していえば、紀元前二世紀にこの街を占領し、神殿、円形劇場、浴場等を建て、街をつくった。のちに東ローマ帝国の所領となったが、その頃には神殿が教会にとって代わっていた。

ドゥッガの遺跡、とりわけジュピター神殿が建つキャピトル神殿を見ながら、神殿から教会へというローマ史の重要な一面を思った。

 

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遺跡のあとはバルドー国立博物館へ。

外観はふつうの博物館と見えるが、ここは十三世紀のハフス朝の宮殿として建てられていて、なかの雰囲気はけっこう豪華だ。

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収蔵品は古代ローマのモザイクを主に古代ギリシアイスラム時代の遺物が展示されていて、モザイク博物館、モザイク画の聖地の異名をもっている。

モザイク画は紀元前4000年頃、メソポタミア文明の時代に始まったとされる。石や貝殻などを小さく割ってピースを作り、それを接着剤でくっつけていく。こうして組み合わせ、描かれたモザイク画の色彩は褪せることはなく、劣化には強い。

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なお、2015年3月18日、男二人がこの博物館を襲撃し、観光客を人質にとって立てこもり、その後、治安部隊が二人を殺害しおよそ四時間後に博物館を制圧した。この事件で二十二人の観光客が死亡し、うち三人は日本人だった。

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2月11日。朝、チュニスの中心部を散策した。ホテルの立地がよく、パリを思わせる地でのさわやかな散歩だった。いっぽうに砂漠とラクダのイメージのあるチュニジアだが、それとは対照的な光景だ。

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旅は六日目。きょうの夕方チュニスを発ち、ドーハ経由で成田に向かうから実質的には最終日となる。

まず訪れたのが地中海に臨むカルタゴ遺跡。三度にわたるローマとの戦争、ポエニ戦争によりフェニキア人の古代カルタゴは破壊された。紀元前146年にカルタゴが陥落した際、ローマはその復活を恐れ、草一本生えることのないよう塩を撒いたと伝えられる。

その後、紀元前1世紀ころにローマの所領となったかつてのカルタゴの跡に新しいローマの植民市が建設された。いま眼にしているのはローマ植民市の遺跡で、ローマ都市らしい円形劇場や浴場の跡が見られる。このカルタゴ遺跡ローマ帝国時代に復興された都市の跡だ。

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上はアントニヌスの大浴場。総面積は35,000平方メートル、長辺の長さが200mにもなる巨大な公衆浴場で、当時ローマ帝国で三番目の大きさ、二階建てで百もの部屋があり、温水風呂や冷水風呂、さらにはサウナまであったと伝えられている。

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今回の旅の最後の観光名所はカルタゴチュニス湾を見下ろす高台にあるシディ・ブ・サイド。白と青の二色で彩られている街で、地名は聖人アブー・サイドにちなんでいる。この地の住宅は、アラブ建築、アンダルシア建築の組み合わされたもので、鮮やかな白い壁に青い扉が特徴である。二十世紀、この地に魅せられた芸術家、文人としてWikipediaにはシャトーブリアンフロベール、ラマルティーヌ、ジイド、コレットボーボワールの名前が見えている。

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このあとチュニスの空港から帰国の途に就いた。下はチュニスの真ん中にある、チュニジア独立を記念した建てられた塔。この国のシンボルだ。

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