永井荷風ノート

鷲津毅堂の碑とお墓

永井荷風の母方の祖父鷲津毅堂の碑と墓へ行ってきました。 まずは隅田川にかかる白鬚橋を渡り、石碑が建つ白髭神社へ。 毅堂鷲津宣光(1825-1882)は尾張藩の儒者で、維新後は明治政府に仕え、登米県権知事、司法判事、司法少書記などの要職を歴任、東京学士…

向島で

自宅の根津から上野、浅草、そうして向島を散歩して永井荷風ゆかりのところを訪ねた。 この界隈へ来るとまずは長命寺にある成島柳北(1837-1884)の碑にごあいさつしなければならない。なにしろ荷風が尊敬してやまなかった人で、「隠居のこごと」には「成島…

『荷風と戦争』~『断腸亭日乗』にみた戦時の昭和史

二0二0年三月に刊行された『荷風と戦争』(国書出版会)の著者百足光生(ももたり みつお)氏は永井荷風の日記を「昭和史の資料」として読むとしたうえで、昭和十五年から昭和二十年三月九日の偏奇館焼亡にいたる間の記事を丹念に読み解き、貴重な註釈、解…

市ヶ谷界隈

『つゆのあとさき』は芸者や娼妓をもっぱらに描いてきた永井荷風が対象をカフェーの女給にシフトした作品で、はじめ一九三一年(昭和六年)十月号の「中央公論」に掲載され、同年単行本が刊行された。女給の生態とともに当時の東京の風俗模様やモダンなアイ…

今戸橋

浅草の山谷堀公園を散歩した。ここには山谷堀に架かっていた今戸橋の欄干が遺されてある。橋は昭和の記念碑、というのも竣工したのが一九二六年 (大正十五年) 、山谷堀が埋め立てられたために役割を終えたのが一九八七年(昭和六十二年)だったからまさし…

アリゾナ、大黒家、荷風私邸

晩年の永井荷風が日課のようにしていた浅草への出遊が最後となったのは亡くなった昭和三十四年(一九五九年)の三月一日だった。 『断腸亭日乗』には「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。」とある…

国勢調査異聞

日本ではじめて国勢調査が実施されたのは一九二0年(大正九年)十月一日だからこのほど行われた令和二年国勢調査は、第二十一回目、ちょうど百周年の調査となった。今回はとくに新型コロナウイルスの感染拡大を防止する観点から、ポスト投函やオンライン回…

会わざるの記〜もうひとつの荷風追想

永井荷風が亡くなったのは一九五九年(昭和三十四年)四月三十日、その三周忌を期して霞ヶ関書房というところから『回想の永井荷風』という本が刊行されている。 種田政明を代表とする「荷風先生を偲ぶ会」による編纂で、書名、出版時期からして荷風と接した…

多田蔵人編『荷風追想』を読む

五十九篇の追懐文を収めた多田蔵人編『荷風追想』(岩波文庫)のなかからはじめに鴎外の息子森於兎が「永井荷風さんと父」に書きとめたエピソードを紹介してみよう。 於兎の祖母つまり鷗外の母が心安い上田敏に「永井さんはどんな人?」とたずねたところ「一…

『文人荷風抄』

高橋英夫『文人荷風抄』(岩波書店2013年)は「文人の曝書」「フランス語の弟子」「晩年の交遊」の三章からなる。 著者は文人の属性のひとつとして曝書すなわち本の虫干しを挙げ、親の曝書は子供にとって言語世界に触れるだいじな機会であり、大きくいえば本…

荷風日記の二人の女優〜高清子と西条エリ子

先だって思いがけず「週刊新潮」誌上に高清子の名前を見た。 同誌に著名人が調べものについて広く問い合わせをする「掲示板」という頁があり、二0一三年七月四日号に筒井康隆氏が高清子について情報を提供してほしい旨の記事を寄せていて、「彼女の出演映画…

子規の梅、荷風の梅

自宅に近い根津神社に梅の花が咲いている。社殿にむかい左に白梅、右に紅梅、それぞれ一木が植わる。 群木いっせいに花開き、空をおおうほどにたなびく桜の光景の壮観とは異なり梅は一木一輪に可憐な美しさがある。梅林のひろい眺めよりも一木一輪の姿に惹か…

会わざるの記

先日、東京古書会館の古書市で買った丸岡明『港の風景』(三月書房)に「永井荷風」と題したエッセイが収められている。丸岡は三田出身の作家で、小説では「静かな影絵」や「街の灯」がよく知られていた。 「永井荷風」の初出は昭和三十四年五月号の「三田文…