多田蔵人編『荷風追想』を読む

五十九篇の追懐文を収めた多田蔵人編『荷風追想』(岩波文庫)のなかからはじめに鴎外の息子森於兎が「永井荷風さんと父」に書きとめたエピソードを紹介してみよう。

於兎の祖母つまり鷗外の母が心安い上田敏に「永井さんはどんな人?」とたずねたところ「一番ハイカラな紳士と下町のいきな若旦那といっしょにしたような人です」との答が返ってきた。

上田敏による荷風の一筆書きポートレートを念頭に置いて小島政二郎「なつかしい顔」を読んでみるとそこに、一九0八年荷風がフランスから帰朝した当時の服装は大きな黒のボヘミヤンタイ、黒のコバートコート、黒のソフトのハイカラな姿、そして森鴎外上田敏の推輓で慶應義塾の教授職にあったころは和服姿で結城紬の縞物に無地の羽織、結城の袴、細みのキセルを用いていて清元や歌沢の稽古に通っていたとあり、小島は「そのうちに、麻布市兵衛町に木造の洋館を建てて住むようになってから、荷風はまた洋服に返って行った。今度はごく普通の、しゃれたところのちっともない背広を着ていた。もう五十近くになっていたのだから」と結んでいて、ハイカラと下町のいきな若旦那とをいっしょにしたような人が服装を通して語られている。

多数の文章を収めているからこんなふうに項目を立てて組み合わせてみるとさまざまな荷風の姿がみえてくる。

川端康成「遠く仰いで来た大詩人」には「(昭和三十四年)四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした」とある。

おなじく死骸をみた人に室生犀星がいて「有楽町の或る映画館のニュースで、荷風さんの仰臥された遺体を見て、眼は細く年より若く見えるその白いお顔を私は黯然とながめた。これが同業先輩の死顔かと、そして斯様なニュースに死顔を晒していることが激怒と悲哀とを混ぜて、私に迫った」と書いている。(「金ぴかの一日」)

荷風の死去に際し、川端康成は新聞で「うつぶせの死骸」を、室生犀星は映画館のニュースで「仰臥された遺体」をみている。どちらも事実とすれば、うつぶせになった遺体を仰向きにして写真を撮った、もしくは撮らせた人がいたわけだ。またテレビのニュースでは関根歌が「死の部屋の乱雑貧陋」のなかにチーズクラッカーが散らばっているのをみている。

その関根歌の「日蔭の女の五年間」は荷風の愛妾だった人ならではの回想記だ。荷風が麹町の芸者寿々龍こと関根歌を身請けしたのは一九二七年(昭和二年)、翌年麹町に待合「いく代」をもたせている。そのころの夜のひとときをお歌さんは語る。

「夜の時間を、先生は昔ばなしを私にきかせてくださるのでした。アメリカやフランスに行かれた時のこと、交渉のあった女のひとのおのろけ話で夜をふかしました。また芸者や女給さんたちの色っぽい噂話がたいへんお好きでした」

荷風はときにお歌さんに「お前の浮気話もきかせておくれよ」といってはあれこれ聞きたがったという。『断腸亭日乗』には、お歌さんと阿部定日本橋の芸者屋でいっしょにいたことがあるとしるされている。夜のつれづれにお定さんが荷風に語ったのだろう。

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森銑三「永井さんと私」に、なにかの折り『大菩薩峠』の話になって「単行本でお読みになったのですか」と聞くと「いいえ、私の行く家で、都新聞を取っていたものですから、それで読むことにしていました」と荷風は答えた。待合「いく代」を「私の行く家」というのが妙におかしい。

関根歌は荷風といちばん長くつきあいのあった女性で、戦後もときどき荷風宅を訪ねてい「麻布の谷の下あたりから聞こえてくるお琴の音をききながら、先生と一緒に歩いたことは、とくになつかしく思い出されます」としみじみと述べている。

終りに荷風と親しかったもうひとりの女性、阿部寿々子の「荷風先生はやさしい人だった」にふれておこう。

関根歌の回想が荷風のファンにはよく知られているのにたいし「荷風先生はやさしい人だった」はあまり知られていないのではないか。わたしは筆者、内容ともにはじめてでうれしい一文だった。

阿部寿々子はロック座、日劇小劇場、新宿フランス座で踊っていたと注記があるからストリッパーだったのだろう。生没年未詳。浅草では朝霧幾世を名乗っていた。おそらく他の劇場でも。

永井荷風先生に私がはじめてお目にかかったのは、日劇ダンシングチームの研究生をやめて、浅草ロック座の踊り子になったころですから、昭和二十三年のことです」。「荷風先生はやさしい人だった」の書き出しで、初出は『若い女性』一九五九年七月号。

彼女が荷風先生はどうして自分を可愛がってくれるだろうと思っていると、ある人が、別れた奥さん(藤蔭静枝)と似てるからよといったという。

昭和二十五年五月十一日の荷風日記。「晴。正午ロック座に至る。拙作『渡鳥』初日なればなり。(中略)終演後女優等とボンソワールに食事してかへる」。

「渡鳥」すなわち「渡り鳥いつ帰る」がロック座で上演されたとき朝霧幾世はここで踊っていた。おそらくボンソワールで食事したなかに彼女もいただろう。

昭和二十七年に荷風文化勲章を受章したとき幾世は新宿のフランス座で踊っていた。そしてもう一度ロック座へ戻ったが、昭和二十九年五月ごろ心臓を悪くした彼女は踊り子をやめた。

「先生、私、もうやめるのよ」

「そうかい、やめるのか」「このごろの浅草も、だんだんおもしろくなくなったなあ……」

舞台を引いた彼女に荷風は記念として四枚の色紙をあたえた。

最後に別れた晩、荷風は幾世を地下鉄でお茶の水駅まで送り「からだを大事にしろよ、さよなら」といってそのままホームを歩いていった。それから先ふたりの出会いはなかった。

朝霧幾世、荷風が関根歌にもたせていた待合は「いく代」、歌は芸者寿々龍を名乗っていて、朝霧幾世の本名は阿部寿々子、霊妙といいたくなる名前のご縁である。