先日、東京古書会館の古書市で買った丸岡明『港の風景』（三月書房）に「永井荷風」と題したエッセイが収められている。丸岡は三田出身の作家で、小説では「静かな影絵」や「街の灯」がよく知られていた。
「永井荷風」の初出は昭和三十四年五月号の「三田文学」誌上である。荷風が亡くなったのは昭和三十四年（一九五九）四月三十日、つまり丸岡のエッセイは荷風が逝った直後に書かれたもので、秋庭太郎『考証永井荷風』にも紹介がある。
そのなかに、むかし芝口にあった金兵衛のことに触れたところがある。昭和八年頃から戦中にかけて荷風がよく出かけた店であり、『断腸亭日乗』の読者には「一膳飯屋金兵衛」としてつとにおなじみだろう。丸岡によると「二階に小さな部屋が、ひと間かふた間あり、階下は鍵型になった土間にテーブルと小椅子の並んだ店だった」。
この店については、歌舞伎役者七代目澤村宗十郎の四男で、丸岡とおなじく慶應義塾大学文学部を経て文藝春秋に入社、昭和四十八年に同社四代目の社長になった澤村三木男がその著『東京のおんな』に「永井荷風先生行きつけの、新橋駅裏の金兵衛にも、大勢連れてよく行った。入口は小さいこの小料理屋は、奥にいくつかの小間があって、みかけより部屋が沢山あった。夜中までやっているので、十二時過ぎると銀座の女給と連れのお客で、喧噪を極めていた」と書きとめている。
話を丸岡明に戻すと、かれは昭和十四五年頃によく金兵衛へ来ており、おかみさんから永井荷風が毎晩のように来ていると聞いたという。小さい店なのでいたならばすぐ眼にとまっただろう。さきほどまでおいででしたとおかみさんから聞いたこともあったが、とうとう荷風を見かけたことはなかった。尊敬する先輩と偶然落ち合うようなことは好まない気質であり、残念だと思うよりも、たすかったと思う気持のほうが強かったと述べている。
画家の高畠達四郎が、荷風の生前に一度会ってみたいと何度か思ったが、いやな顔をされるかも知れないし、うるさがられ、邪魔もの扱いされるのもまっぴらだと考えているうちについに会う機会はなかったと書いている。丸岡にもなにほどかそうした気持があったのかもしれない。
荷風の三周忌を期して刊行された『回想の永井荷風』（霞ヶ関書房）という本がある。種田政明を代表とする「荷風先生を偲ぶ会」による編纂である。
書名にあるように荷風と接した人たちによる回想が多いのはいうまでもないが、荷風と会っていない人による荷風追想文、いわゆる「会わざるの記」も散見される。さきほどの高畠達四郎の一文もそうで、荷風のばあいは巷間伝えられるその性格や他人との接し方が会うのをためらわせたのである。
自宅を訪れた人に荷風は「いま先生は外出しています」とみずからいって追い返したというエピソードはうわさばなしとしてだけでなく、『断腸亭日乗』にも記述がある。
「むさぼり読んだ」というほど荷風に惹かれていた吉川兼光（民社党の衆議院議員だった）は、ある日、菅野に住む荷風宅をたずね「ごめんなさい」と声をかけたところ内からは声がなく、隣家から障子ごしに「先生はたったいま出かけたところですよ」との返事があった。訊けば、たぶん八幡駅前のうどん屋だろうとのこと。このとき吉川は荷風自身から「いまいない」といわれる目に遭わなかっただけよかったとホッとしたと述懐する。その後、もう一度たずねてみようと思いながら、そのたびに気おくれがして決心がにぶった、とも書いている。
文芸評論家の野田宇太郎は意を決してひとりひそかに萱野の永井邸の前に立ったのだったが、そこで一気に玄関をあけてとはいかなかった。夕暮近く、もじもじしているうちに正面の戸ががらりと音を立てて開いたそのとき野田はとっさに身をひるがえしてうしろの電柱のかげに身を隠した。まったく他愛のない子供みたいな自分の行動だとわかっていても「相手が荷風さんといふと私はいまでも自分が子供のようになつてしまふ」と述べている。
荷風は小説に随筆に日記にと自身を巧みに語った作家である。ただしそれがどこまでが演出で、どこまでが生身の作者なのかは不明であり、両者の境界は読者それぞれで異なる。友人知人との会食や踊り子たちとの歓談では、自分から誘った者にはおごっても、それ以外はすべて自分のぶんしか払わなかった。ケチといわれた反面で森鴎外の碑文建立には大金を投じた。吝嗇と見るか、経済合理主義者と評するかで人物像はちがってくる。
永井壮吉は荷風を演じたのである。何か荷風のまねごとをしてみたいと思っても、そこのところでためらいを覚える。遠くにありて思うぶんには安心だけれど、自身の感じた荷風を、じっさいに接して確認してみたいと願うのも人情であり、しかしそうなると自分のいだく人物像が裏切られるかもしれない覚悟も必要になる。荷風という人は作品の魅力だけでは済ませられない作家である。
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