向島で

自宅の根津から上野、浅草、そうして向島を散歩して永井荷風ゆかりのところを訪ねた。

この界隈へ来るとまずは長命寺にある成島柳北(1837-1884)の碑にごあいさつしなければならない。なにしろ荷風が尊敬してやまなかった人で、「隠居のこごと」には「成島柳北の紀行随筆の類は余が青年の頃より今に至るも読んで猶飽かざるものなり。柳北は世人の知られるが如く旧幕府の儒臣なり。瓦解の後明治政府に仕ふるを好まず。明治五年浅草本願寺の法主に随つて欧州に漫遊し帰朝後朝野新聞に聘せられ才筆一世を風靡せり。明治十七年十一月晦日四十八歳を以て濹上の邸に逝きぬ。向島長命寺に半身像を浮彫にしたる石碑ありき。十年前に余の見たりし時既に其鼻のかけてありし程なれば今はいかがなりしや」とある。

下谷叢話』によると成島の家はもと同朋衆であったが、八代将軍吉宗の評価を受けた成島錦江が 将軍に学問を講ずる奥儒者に挙げられ、以後世襲の職とした。錦江は荻生徂徠の門人で才学義侠に富む有為の人物だったという。

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碑は柳北が歿した翌年明治十八年(1885年)に建てられている。いきさつは知らないけれど荷風が大正のはじめに訪れたときすでに鼻の部分が欠けていた。

作家小沢信男

向島長命寺成島柳北の碑あり 花吹雪むかしの人は顔長く」の句がある。

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柳北の墓は雑司ヶ谷霊園荷風の墓の近くにあり、わたしは荷風の墓参に行ったときは柳北、またおなじく近くにある東儀鉄笛の墓にも手を合わせるようにしている。荷風の尊敬した人と母校の校歌の作曲者だからおろそかにはできません。

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柳北は維新のあと、その見識と学識により政府から出仕を請われたが拒否して在野を貫いた。いわば勝海舟と反対の生き方をした人で、薩長嫌いの荷風は明治政府の高官たちを薩摩や長州から来た「足軽風情」といい、反対に柳北をはじめとする幕府の遺臣としての生き方を貫いた人々に心を寄せ「余が幕府の遺臣たる栗本鋤雲、浅野梅堂、成島柳北、林鶴梁等諸名家の文を読みて感激する所以のものは独り文辞の高雅雄頸なるのみにあらず、そが不遇の生涯は時勢を背景となして余がロマンチツクの空想を刺戟すること頗る過激なるものを以てなり」と「正宗白鳥氏に答るの書」に述べている。

なお柳北碑の近くには木の実ナナさんの詩碑がある。彼女はこの近く、東向島の出身です。

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「明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は尠くない」(「向島」)として荷風は依田学海、成島柳北、其角堂永機、饗庭篁村幸田露伴淡島寒月たちの名をあげている。このうち井原西鶴を再評価した人として、また幸田露伴尾崎紅葉たちと交友のあった文人、江戸文化とりわけ玩具の研究、蒐集にあたった人として知られる淡島寒月の旧邸すなわち梵雲庵のあったところにいま美家古という料亭がある。もとの梵雲庵は関東大震災で全焼したため、おなじ年の十二月に再建された庵を料亭に直したものである。

梵雲庵には三千余りの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが震災で家屋とともにすべて焼失した。寒月は関東大震災について「夢路を辿る遭難流転記」に「大正十二年九月一日正午大震、梵雲居狭室の玩具左転右転、落華の風に舞ふが如し」「午後四時頃梵雲庵火災にかかり、多年蒐集のおもちや類及び書籍全部、筆蔵全冊筆記画類一切を取出さずして消失す」と述べ「松杉も黒くすすけし焼野原 秋のあはれを誰にかたらん」一首をよんでいる。

その人物像については幸田露伴が「一生を通して、氏は余りあるの聡明を有していながら、それを濫用せず、おとなしく身を保って、そして人の事にも余り立入らぬ代りに、人にも厄介を掛けず、人をも煩わさず、来れば拒まず、去れば追わずという調子で、至極穏やかに、名利を求めず、ただ趣味に生きて、楽しく長命した人であった」(「淡島寒月氏」)と評している。『梵雲庵雑話』の著者の素敵なポートレートである。

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『梵雲庵雑話』(岩波文庫)にある「寒月年表」によると寒月が父で画家の椿岳の旧庵、向島須崎町七十四番地に森下町から移転したのが明治二十六年十一月、三十五歳のときだった。歿したのは大正十五年二月二十三日。

辞世の二首が人となりをよく示している。

「我れと生き我れと死するも我がことよ その我がままの六十八年」

「針の山の景しきも見たし極楽の 蓮のうへにも乗りたくもあり」

 

以下は淡島寒月の娘のこと。

渥美清が六十八歳で亡くなったのは一九九六年八月四日で、二000年になって小学校の同級生や浅草時代の仲間、山田洋次監督ら映画のスタッフたちゆかりの人々が渥美清について語った読売新聞社会部『拝啓 渥美清様』が中央公論新社から刊行された。

この単行本が中公文庫の一冊となった際、「週刊文春」で「文庫本を狙え!」を連載していた坪内祐三は、この文庫本を立ち読みしていて、渥美清の小学校時の記述に木内キヤウ(「きょう」。のち参議院議員)の名前を見て「何だって、渥美清は木内キヤウの教え子だったのか、と驚きながら頁をさらに読み進めて行った」。

その名前でピンとくる坪内祐三、凄いな。

木内キヤウは板橋区の志村第一尋常小学校校長、全国初の女性校長だった。渥美清は一九三四年に板橋尋常小学校に入学したが、三六年に転居したことで志村第一尋常小学校に転入、ここで木内校長に出会った。

彼女は弁当を持って来られなかった児童に身銭で玄米飯を配り、なかの一人が田所康雄、のちの渥美清だった。おなじく木村校長は「男の中で育った女、女の中で育った男であってこそ、人間として健全」として低中学年に共学クラスを設けそこにも田所がいた。

坪内祐三は「私がなぜこれほど木内キヤウという固有名詞に激しく反応してしまうのかといえば、それは彼女が、あの明治を代表する最高の自由人淡島寒月の娘だからである」「淡島寒月→木内キヤウ→渥美清。ここには一つの確かな精神のバトンリレーがある」と述べている。よいことを教えていただきました。

Wikipediaより。

木内 キヤウ(きうち キョウ、1884年明治17年)2月14日 - 1964年(昭和39年)11月7日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員。旧姓・淡島、筆名・木内月上。日本初の女性小学校長と言われた。