鷲津毅堂の碑とお墓

永井荷風の母方の祖父鷲津毅堂の碑と墓へ行ってきました。

まずは隅田川にかかる白鬚橋を渡り、石碑が建つ白髭神社へ。

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毅堂鷲津宣光(1825-1882)は尾張藩儒者で、維新後は明治政府に仕え、登米県権知事、司法判事、司法少書記などの要職を歴任、東京学士会々員に列するなどし一八八二年(明治十五年)には司法権大書記官に就いたが同年十月五日五十八歳で歿した。荷風の父禾原永井久一郎は毅堂の弟子、母恒は毅堂の次女である。

白鬚神社の碑の表面の損傷は著しい。もっとも刻印がしっかりしていてもわたしの学力で理解するのは厳しく、さいわい毅堂の生涯と徳については 傍の立札で知れる。

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毅堂が亡くなった翌年、のちの荷風永井壮吉に弟ができた。後年、鷲津家の養子となり、日本基督教会の牧師を務めた貞二郎で、その誕生を機に、荷風下谷竹町の鷲津家に預けられ、祖母美代にかわいがられてこの家から東京女子師範学校附属幼稚園に通園した。

碑に話を戻すと、幼いころ荷風は両親や祖母と向島にお花見に行った際、祖父の碑について、あれは弟子たちがその徳を讃えて建てたものだと説明を受けた。そのときは、ほんとのお墓が谷中の天王寺にありながら、どうしてここへもおなじようなものを建てたのかとよく事情がわからず「唯だ、えらい人はお墓をいくつも持つているもののやうに思つたのである」と「下谷の家」に書いている。 

なお本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による。

荷風のいう「ほんとのお墓」はわが家に近い谷中霊園にあり、「司法権大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」となかなかいかめしい。弟貞二郎、祖母美代、母恒ともにキリスト教徒だったから鷲津家の墓には十字架が刻されている。

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わたしが子供のころ、小鳩くるみという童謡歌手、タレントがいて、先年まで目白学院大学の教授職にあった。本名鷲津名都江、毅堂の弟鷲津蓉裳の曾孫に当たる。

鷲津家の墓地のすぐ近くに廣津家の墓地があり、廣津柳浪、廣津和郎の墓がある。若き荷風広津柳浪に弟子入りしていたから、これもなにかのご縁であろう。

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谷中霊園ではふるさと土佐の生んだ自由民権運動の指導者馬場辰猪とその弟で文芸評論家、英文学者の馬場胡蝶のお墓にも手を合わせてきました。

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