今戸橋

浅草の山谷堀公園を散歩した。ここには山谷堀に架かっていた今戸橋の欄干が遺されてある。橋は昭和の記念碑、というのも竣工したのが一九二六年 (大正十五年) 、山谷堀が埋め立てられたために役割を終えたのが一九八七年(昭和六十二年)だったからまさしく昭和を生きた橋である。

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下の写真の道路はなんの変哲もないものだが、かつての山谷堀を埋め立てた道で、水が流れていた時代はここを吉原へと猪牙舟が通った。

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一九一一年(明治四十四年)に発表された永井荷風『すみだ川』では俳諧師の松風庵蘿月が「向河岸へつくと、急に思出して近所の菓子屋を探して土産を買ひ、今戸橋を渡つて真直ぐな道をば自分ばかりは足元の確なつもりで、実は大分ふらふらしながら歩いて行つた」と今戸橋を渡る。

明治の東京に残る江戸情緒を描いた『すみだ川』、俳諧師が渡った橋は山谷堀公園にあるものではなく井上安治の「今戸橋雪」にみえている木の橋である。そこは荷風によると「名物の今戸焼を売る店の其処此処に見られる外には、何処も同じような場末の横町の、低くつゞいた人家の軒下には話しながら涼んで居る人の浴衣の白さが、薄暗い軒燈の光に際立つばかり。あたりは一体にひつそりして何処かで犬の吠える声と赤子のなく声が聞える」町だった。

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人力車のまだないころ、吉原へは四手駕籠か山谷堀を猪牙舟で向かった。駕籠かきのホイホイという掛け声や船頭の艪が軋る音が聞こえたという。今戸橋の下は「今戸橋上より下を人通る」の賑いだったが、悪所行きの船だったから「親不孝舟」といったと伝えられている。『すみだ川』にある今戸橋は遠い昔となり、次に架けられた橋も廃されて三十余年が過ぎた。

東海林太郎のヒット曲に「すみだ川」があり、 作詞佐藤惣之助、作曲山田栄一田中絹代が台詞を担当していて、歌詞には今戸の地名もよまれている。

リリースされたのは一九三七年 (昭和十二年)、荷風の小説を素材にしたいわゆる文芸歌謡のはじめは「銀杏返しに黒繻子かけて泣いて別れたすみだ川」と歌われる。

ネットにある「二木紘三のうた物語」によると銀杏返しの髪型に、黒繻子すなわち黒いサテンをかけるのは大正から昭和初めごろの流行だったから、小説と歌謡曲とは時代的にズレがあることになる。

荷風がオペラ館の楽屋で踊子から『すみだ川』を流行歌にしたレコードが出ていると聞いたのは一九四0年の暮れだった。

「踊子の一人余の小説すみだ川の一節を取りて流行唄にせしものレコード屋に在りといふ。国際劇場前のレコード屋なりと云ふに程近きければ幕間の休みを見て共に往きて之を購ふ。表面はすみだ川裏面は森先生の高瀬舟なり。何人の為せしものなるや。其悪戯驚くべきなり。」(『断腸亭日乗』昭和十五年十二月二十七日)