アリゾナ、大黒家、荷風私邸

晩年の永井荷風日課のようにしていた浅草への出遊が最後となったのは亡くなった昭和三十四年(一九五九年)の三月一日だった。

断腸亭日乗』には「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。」とある。日記は亡くなった前日の四月二十九日まで書かれたが、三月二日から先は「正午浅草」に代わって「病臥」と「大黒屋」の文字が多くなった。

歩行困難をきたした病魔とは別に三月一日にはある事件が起こったという証言がある。

荷風先生は、日課のように浅草へ出かけられた。三月の初め、雷門の近くのレストラン、アリゾナで食事を済まして帰られる時、店の出口のぬかるみに足を滑らせて強く尻餅をつかれたそうである」

晩年の荷風に深く親炙した相磯凌霜「永井荷風の日記を読む」にある話で、相磯はこれをアリゾナのマダムの口から聞いたというが、三月三日の日にその件を永井荷風の家で尋ねたところ「痩我慢の強い先生はアリゾナの一件をひた隠しにして」「痛むのは、神経痛のせいですよ」といったという。病魔と事件、荷風のファンにとってはいずれも気になるところで、ちなみに『断腸亭日乗』三月三日には「晴。病臥。午前相磯氏小山氏及東都書房店員来話。」とある。

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「病臥」とともに食事とくに昼食は自宅から徒歩一分の京成線八幡駅の横にある大黒家(荷風は大黒屋と表記している)でとることが多くなった。

「三月七日。雨。後に陰。病臥。午後大黒屋に一酌す。」

「三月十一日。晴。正午大黒屋食事」

「三月十二日。晴。島中高梨二氏来話。病臥。大黒屋晩食。」

「三月十三日。晴。正午大黒屋」

「三月十四日。 晴。正午大黒屋。相磯氏来話」

「三月十六日。正午大黒屋。」

「三月十七日。雨又陰。正午大黒屋」

「三月十八日。 晴。正午大黒屋食事。」

「三月十九日。晴。 正午大黒屋。」

「三月二十日。晴。 正午大黒屋。」

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日記にある「大黒屋」の記載の最後は「四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯」であるが、下の証言にあるように亡くなる前日の四月二十九日にも来店しており、日記にしるされてない日にもここで食事、それももっぱらカツ丼を食べていたのだった。

「亡くなる前日は夕方に来られましたが、ぜえぜえと息づかいが荒かったので、『大丈夫ですか?』と声をかけたほどでした。でも、カツ丼は残さず召し上がりましたよ」

二0一七年三月二十五日、朝日新聞荷風の散歩道」にある大黒家のおかみさん、増山孝子さん(当時82)の証言である。

翌四月三十日、通いの手伝い婦が自宅で血を吐いて倒れている荷風の遺体をみつけた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断され、吐血のなかにはカツ丼の飯粒が混ざっていた。

当時は文豪の悲惨な孤独死と否定的な報道が多かったが、いまは羨ましい死に方と思う方が多いだろう。身体は衰弱していたが、死去の前夜もカツ丼をしっかり食べ、苦しむ時間もわずかだったから理想的な在宅ひとり死だと思う。『在宅ひとり死のススメ』の著者上野千鶴子先生もおそらくおなじ意見だろう。

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荷風のような死はつい昨日までは「孤独死」といわれていた。いまは上野先生のようにオススメをする方もいる在宅ひとり死である。その過程では、老い、孤独、貧困のレッテルを貼られていた単身高齢者が「おひとりさま」と呼ばれるようになった事情がある。また離婚や死別で単身者となった人たちの人生にも「シングル・アゲイン」として積極的な意味付けがされるようになった。二度の離婚歴のある荷風は「おひとりさま」「シングル・アゲイン」の大先達だった。

アリゾナ、大黒家、荷風私邸の三枚の写真は二十世紀の末、たぶん一九九八年に撮ったもので、そのころ私邸には荷風の御養子永井永光氏が住んでおられたが、氏は二0一二年四月二十五日七十九歳を一期として息を引き取った。アリゾナは営業を続けているが大黒家は二0一七年の三月末に店を閉じた。