子規の梅、荷風の梅

自宅に近い根津神社梅の花が咲いている。社殿にむかい左に白梅、右に紅梅、それぞれ一木が植わる。
群木いっせいに花開き、空をおおうほどにたなびく桜の光景の壮観とは異なり梅は一木一輪に可憐な美しさがある。梅林のひろい眺めよりも一木一輪の姿に惹かれる人は多く、永井荷風も「葛飾土産」で梅の「いわゆる竹外の一枝斜なる姿を喜び見る」と書いている。

梅につづく桜の花のさかりは「冬至より百五十日とも、時正の後、七日ともいへど、立春より七十五日、おほやう違わず」(『徒然草』第百六十一段)である。
吉田兼好が、冬至から百五十日、あるいは昼夜の長さが等しい時正の日の七日後ともいうが、まず立春から七十五日が桜の花のさかりとしてよいと書いたのは何月のことだったか。春爛漫の桜花を前にして書いたのか、それとも秋の紅葉に春の桜を思ったのか、あるいは春が待たれる冬の季節だったか。
こんなことが気になるのは、正岡子規の真夏に梅を思う一文が頭にあるからにほかならない。
結核の床に臥せっていた子規の随筆「病床六尺」は一九0二年(明治三十五年)五月五日から九月十七日にかけて新聞「日本」に連載され、百回を数えたのは八月二十日だった。

〈○「病牀六尺」が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが余にとつては十年も過ぎたやうな感じがするのである。ほかの人にはないことであらうが、余のする事はこの頃では少し時間を要するものを思ひつくと、これがいつまでつづくであらうかといふ事が初めから気になる。些細な話であるが、「病牀六尺」を書いて、それを新聞社へ毎日送るのに状袋に入れて送るその状袋の上書をかくのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字で刷つてもらふた。そのこれを頼む時でさへ病人としては余り先きの長い事をやるといふて笑はれはすまいかと窃かに心配して居つた位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した状袋を三百枚刷つてくれた。三百枚といふ大数には驚いた。毎日一枚宛書くとして十カ月分の状袋である。十カ月先きのことはどうなるか甚だ覚束ないものであるのにと窃かに心配して居つた。それが思ひのほか五、六月頃よりは容体もよくなつて、遂に百枚の状袋を費したといふ事は余にとつてはむしろ意外のことで、この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。しかしあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。〉

子規の命日はこれを書いたほぼひと月後の九月十九日だから梅の花を見ることはなかったが、ここで子規はなぜ梅の花を思ったのだろう。桜とすれば「立春より七十五日、おほやう違わず」で二百日より先になるからから切りが悪いといった事情からではあるまい。
おそらくここには子規が抱いていた梅のイメージが作用している。
『江戸名所花暦』には梅屋敷、亀戸天満宮境内御嶽の社など梅の名所の紹介とともに俊頼朝臣の「心あらばとはまし物を梅が香に誰が里より匂ひきつらん」が引かれていて、ほのかな人恋しさを秘めた梅の香が詠まれている。『古今集』読み人知らず「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも」には残り香に誰が袖の触れた跡をとどめている。梅の花、梅の香には清楚な気品の高さとともに、そっと人に寄り添いなつかしさを届けてくれる情趣がある。菅原道真が「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と春の匂いを遠く太宰府に届けてくれるよう託したのも梅なればこそだった。
病床の子規が梅の花とのめぐりあいを思ったのにもそうした梅の姿が意識されていたような気がする。
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一九四七年(昭和二十二年)に書かれた永井荷風戦後の名編「葛飾土産」は「菅野に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾の綻びるのを待っているのだ」とはじまる。
「敗荷落日」で石川淳は戦後の荷風をろくなものを書かなかったと難じたが「葛飾土産」だけは「戦後はただこの一篇、さすがに風雅なほ亡びず、高興もつともよろこぶべし」とした。
菅野の人家の庭、農家の垣に咲く梅の花荷風にむかしの向島を思い出させた。また『断腸亭日乗』昭和二十三年三月十八日には「晴。春風依然として暖ならず松籟鬼哭の如し。昼餉の後真間川の流に沿ひ歩みて手古奈堂の畔に至る。後方の岡に聳る石段を登れば弘法寺の山門なり。本堂の傍に老梅三四株ありて花雪の如し。別に亀井院といふ寺あり」と寺院の梅が書きとめてられている。
これらの梅は予期せぬよろこびをもたらしたが、それとともに荷風はかつての東京人の梅見がさかんだったのを振り返り、いま広くおこなわれないさびしさはぬぐえなかった。
『江戸名所花暦』は梅の名所のひとつに蒲田村(荏原郡加万太)を挙げ、十万庵敬順『遊歴雑記初編』には「鎌田(蒲田)の梅見」としてあぜ道をあちらこちらと見てあるく姿や花の下で風呂敷に座り飲食をたのしむ光景が書かれている。
ところが荷風によると「明治の末、わたくしが西洋から帰つて来た頃には梅花は既に世人の興を牽くべき力がなかつた。向嶋の百花園などへ行つても梅は大方枯れていた。向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあつた梅園も皆閉され、その中には瓦斯タンクになつていた処もあつた。樹木にも定つた年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあつた梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処はなかつた。梅花を見て春の来たのを喜ぶ習慣は年と共に都会の人から失われていたのである」。
かつての梅見がどうして廃れたか。荷風はとりわけ梅の花を見て興を催すには漢文と和歌俳句の素養が必要だと強調する。梅見が廃れたのもかつての日本人にくらべて和漢についての教養が乏しくなっていることと、祖国に生ずる草木に対してかつてのように興味を持たなくなっている点にあるという。現代の日本人のありように対する文明批評である。
花を見てときに和歌や俳句が思い出されイメージが喚起されるのはよくあることでべつに花に限ったものではない。しかしとくに梅がいわれるのは、その花や香が秘めるほのかな人恋しさやなつかしさが関係しているのだろうか。
ともあれ菅野の梅は荷風のよろこびだった。そのうれしい心持を説明するのにいまさら其角嵐雪でもあるまいと荷風はいうけれど、不学なわたしはせめてこの機会にその句を勉強しておかなければならない。 
梅が香や隣は荻生惣右衛門 其角
梅一輪一輪ほどのあたたかさ 嵐雪