市ヶ谷界隈

『つゆのあとさき』は芸者や娼妓をもっぱらに描いてきた永井荷風が対象をカフェーの女給にシフトした作品で、はじめ一九三一年(昭和六年)十月号の「中央公論」に掲載され、同年単行本が刊行された。女給の生態とともに当時の東京の風俗模様やモダンなアイテムが描かれていて、昭和初期の風俗史を知るための一書となっている。

先ごろ何度目かの通読のあと作品ゆかりの市ヶ谷を訪ねた。といってもわが家からはあるいて行けるところなので、やや長めの散歩にすぎない。

主人公の君江は親の勧める縁談を嫌い、元芸者の友人を頼って家出し、私娼となったあといまは銀座のカフェー、ドンフアンに勤めている。二十歳の彼女が間借りするのは「市ヶ谷本村町◯◯番地、亀崎ちか方」、うれしいことに本村町という町名はいまも健在で、防衛省市ヶ谷庁舎や駿台予備学校市谷校舎がある。

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市谷本村町の隣が市谷八幡町。名前からおわかりのように市谷亀岡八幡宮があり、ここも作品の舞台となっている。というのも、君江のパトロンを気取る流行作家の清岡進が、境内のベンチで君江がカフェーの客で、元高級官僚だが疑獄事件で失職した松崎という好色な老人に身を寄せるのをみて嫉妬の炎を燃やし、陰にまわって彼女に嫌がらせを繰り返すようになる。神社での若い女給と老人との色模様をのぞき見する三十六歳の男という構図がさまざまな出来事の引き金となったわけだ。

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そうした事情はつゆ知らない君江は不安で手相身に占ってもらったりする。

手相占いがどんなものだったか、君江が占い師を紹介したもらった小松という男に告げる場面がある。

「でもねえ、小松さん。当分今の通りで別条ないんですとさ。覚えているのはそれつきりよ。いろんな事を言はれたけれど『何が何だかわからないのヨ』なのよ」云々。

「何が何だかわからないのヨ」は「東京行進曲」で知られる佐藤千夜子が歌った「愛して頂戴」の一節で、レコードは一九二九年(昭和四年)にリリースされている。

「ひと目見たとき好きになったのよ 何が何だかわからないのよ 日暮れになると涙が出るのよ 知らず知らずに泣けてくるのよ……」(作詞西條八十、作曲中山晋平

荷風の世相風俗への目配りは怠りなく、当時の流行歌をしっかり作品に取り入れている。ついでながら荷風自身が口ずさんだのは微醺のときの「裏町人生」だけだったそうだ。

そういえば銀座街頭の手相見ってみかけなくなった。二十一世紀にはいってもいたような気がするんだけど、はっきりしない。

なお『つゆのあとさき』は一九五六年に松竹で中村登監督により映画化されていて、長年みたい、みたいと切望しているにもかかわらずかすりもしない。

余談ながら市ヶ谷を散歩したあと外堀通り飯田橋のほうへあるいているとちょっぴり寂しげ、というか愁いを含んだ趣のある坂があり、標柱に「庚嶺坂」(ゆれいざか)とあった。おそらく江戸の坂、東京の坂に関心ある向きにはよく知られている坂だろう。

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あちらこちら足を向けるうちに気のひかれるスポットに行き合わせるのはうれしく、街あるきの楽しみである。

標柱にはまた、江戸初期、このあたりには多くの梅の木があったため、二代将軍徳川秀忠が中国の梅の名所の名、 庚嶺をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あり別名として「行人坂」「唯念坂」「幽霊坂」「ゆう玄坂」「若宮坂」がしるされていた。この坂についてネットで調べていると「東京坂道ゆるラン」というブログがあり、上記のほかにも「祐念坂」「新坂」の名があり、坂の別名コンテストがあれば上位入賞まちがいなしですとありました。