『荷風と戦争』~『断腸亭日乗』にみた戦時の昭和史

二0二0年三月に刊行された『荷風と戦争』(国書出版会)の著者百足光生(ももたり みつお)氏は永井荷風の日記を「昭和史の資料」として読むとしたうえで、昭和十五年から昭和二十年三月九日の偏奇館焼亡にいたる間の記事を丹念に読み解き、貴重な註釈、解説をくわえた。

本書は副題を「断腸亭日乗に残された戦時下の東京」としているが、「『断腸亭日乗』にみた戦時の昭和史」もしくは「戦時期『断腸亭日乗』私註」としたほうがより内容にふさわしかっただろう。もっとも川本三郎氏の名著『荷風と東京』の副題が「『断腸亭日乗』私註』」だったことに鑑みると、わたしが刊行者だったとしても後者の副題は避けたであろう。ともあれ本書の記述は日記の本文を抜き書き、そこに註釈を加えるというスタイルで一貫していて、昔から学問の世界で古典の註釈の重要性はいうまでもなく、学問の基礎的また王道の手法であった。

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たとえば。

昭和十七年一月六日の日記に荷風は「軍人執政の世となりてミソギといふもの俄かにはやり初めしなり」と書き、寒中の水浴がそれほど精神修養に効果があるのであれば夏に暖炉にあたって熱湯を飲むもおなじであり、思いつきでする男どものミソギや女給や女事務員が座禅を組んだりするのは格好をつけただけの世におもねる姿に過ぎないとした。

荷風ならずとも発してみたい皮肉に満足して本を閉じても十分としてよいのだが、嬉しいことに本書の読者は当時流行していたミソギについての耳よりな話をさらに詳しく知ることになる。

それによると昭和十五年近衛文麿が中心となり創立した大政翼賛会がミソギの講習会を行なっていたのである。はじまりは昭和十六年八月二日、箱根の湯本にある日本精神道場での講習会で、このときは小磯国昭大将、飯村穣総力戦研究所所長、皆川治弘東京市教育局局長、作家の中村武羅夫横光利一、滝井孝作などが参加していた。荷風がこんな催しに参加していた作家たちのことを知っていたとすれば、憐むべく笑うべしと思ったにちがいない。

おなじく十九年十二月四日の日記に「町の辻々空地の塀などに座布団の綿を出せとの貼札ありて下手な画までかき添えたり」とあり、寒い季節に綿の供出が呼びかけられている。どうしてかといえば「人民の綿を取上げ火薬をつくり」するためだという。人情を知らぬやり方と荷風はしるしているが、綿と火薬についてはそれ以上の説明はない。綿と火薬で理解できる人はよいが、そうでない読者は調べるかわたしのように読み飛ばすしかない。そのわたしに『荷風と戦争』が懇切に教えてくれる。

「十一月二十七日、東京都が火薬の原料になるとして古綿の回収に乗り出した。綿から生成されるニトロセルロース無煙火薬として、小火器の発射薬に使用される。そこでまず座布団の供出を始めたわけだ」と。こうして寒さに向かう季節に綿を供出させて発射薬を作らなければならないほど追い詰められた日本の姿が具体にみえてくる。

本書が扱った時期の昭和十八年、荷風は『柳北談叢』という書に序を寄せている。幕臣で維新のあとはジャーナリストに転じた成島柳北の外孫大島隆一が、祖父柳北の遺文、逸事などを集成した書への序は当時作品の発表が極めて困難だった荷風のわずかに公表した文章のひとつだった。

そのなかに「今日吾等後生の輩、柳北の名を聞き、柳北の文を読むや、時世は遥に隔絶し人心亦既に同じからず。往々文義を解するに苦しむことなしとせず。余常に之を憾みとなせり」と書き、社会や人心、言葉の変化とともに柳北の文章が理解しにくくなりつつあるなかで、その理解を助けてくれる書の刊行を意義深いものとした。

いま荷風の序にある柳北を荷風に置き換えると、「吾等後生の輩」つまり現代の読者と荷風との関係となる。そして『柳北談叢』にあたるのが『荷風と戦争』であり、『断腸亭日乗』を通して昭和史を知る大きな一助となる本書の刊行をよろこびたい。