『文人荷風抄』

高橋英夫文人荷風抄』(岩波書店2013年)は「文人の曝書」「フランス語の弟子」「晩年の交遊」の三章からなる。
著者は文人の属性のひとつとして曝書すなわち本の虫干しを挙げ、親の曝書は子供にとって言語世界に触れるだいじな機会であり、大きくいえば本の虫干しは書物や知識、ものの考え方や礼法の世代間の受け渡しという意味を持っていたと説く。永井壯吉のちの荷風にとってもそれは父久一郎の精神に触れる貴重な時間だった。
幼いときから慣れ親しんだ曝書について荷風は『濹東綺譚』に「残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬の午後庭の落葉を焚く事とは、わたくしが独居の生涯の最も娯しみとしてゐる処である」と書いている。本を運び、広げ、時間と状態を見て収納する。そうしながらこんな本を買ったままにしてあったのかと読みふけったりもする。こうして「文人、読書家、愛書家、学究にとって少なからぬ辛苦の日程であるにもかかわらず、辛苦を超えて快楽と発見と認識の深化のみなもとをなしてきた」のが曝書である。
著者は荷風に「曝書家」なる名称を呈しているほどに『断腸亭日乗』には曝書の記事が頻出している。ならばそれが荷風の作品に影響しないはずはない。曝書をキィワードとしてみると『濹東綺譚』の昭和十一年は曝書と読書と執筆がきわめてスムースに連続していた。それが翌年になると三者の連続は「曝書に見られる文人性」と「老いと死に帰着してゆく零落」が幾重にも交錯して異なる様相を示すようになったと著者は見る。こうしたなか荷風が企図した吉原を舞台とする小説『冬扇記』の執筆は断念に追い込まれてしまう。ここには曝書の影を見据えたスリリングな分析がある。

本書はこれまでほとんど知られていなかった「曝書家」としての貌を明らかにした。そうなると阿部雪子という「この夏の初曝書をかね蔵書の目録をつくらむとて其事をたのみ置きたる女」がいたという『断腸亭日乗』昭和十八年九月六日の記事は読み飛ばすことはできない。
断腸亭日乗』にはじめて阿部雪子の名前が見えるのは昭和十八年二月十四日であり、以後昭和三十一年四月二十二日の記載にいたるまで年により回数に多少はあっても日記にその名は見えつづけている。
彼女は戦時中の灯火管制のもとで荷風からフランス語の手ほどきを受けている。そうしながら大掃除の手伝いをし、また曝書とそれに付随する作業をもしていたようだ。
阿部雪子の名前は知っていても、荷風とどのような関係にあったのか不明のまま隔靴掻痒の感をもつ『断腸亭日乗』の読者は多かったのではないか。わたしもその一人だ。日記に登場する女性の多くは性愛の対象だが阿部雪子のばあいは趣を異にする不可思議な存在だった。その存在はちょっぴり気になりながらも等閑に付していた。
彼女はどういう事情から荷風の家に出入りするようになったのか、荷風との関係はどのようなものだったのか、フランス語を学ぶインテリ女性はいわゆる玄人ではなく、荷風の女性遍歴の一人ではない、ならば通いのお手伝い、家政婦かといえばそうでもない、水商売ではないとすれば何を生活の糧としていたのかといった疑問、謎が著者の探索と種々の推理、想像を通じて解明されてゆく。それは良質なミステリーを読むに似た興奮である。
荷風にとっての雪子を、著者は「繊細微妙な感じのもの、言い表すのが難しいが、色情とはかかわらない女性的領域、女性的たたずまいというものが存在し、それが人生の表裏を知りつくした男の眼、耳、心に、えもいえず快いものと受けとめられた」のではないかと述べている。荷風がその年齢になってはじめて発見した「不思議さ」は『断腸亭日乗』の読者が阿部雪子に感じる不可解でもあった。
ここで口はばったいのを承知でいえば本章には文系の大学生や院生がレポート、論文を書く際の骨法が惜しげもなく示されている。主題は何であれものごとを解明してゆく方法論として大いに参考となるのを疑わない。

「フランス語の弟子」が荷風に不思議さをともなう彩りを添えたとすれば、相磯凌霜は「晩年の交遊」に滋味ゆたかな人間交際をもたらした。
交遊のはじまりは昭和十七年秋十月、荷風数え年で六十四歳、相磯は十四歳下だった。ただし前史があり、荷風慶應の教授をやめたあと築地に引っ越し、近くにある清元梅吉の稽古場に通っていて、二人はここでいっしょになることがあった。会話らしい会話はなく、相磯にすれば著名な作家を見かけた程度のものだった。

相磯凌霜『荷風余話』(岩波書店2010年)の編者小出昌洋によれば、明治二十六年七月生まれの相磯は中学卒業後アメリカへ遊学し、帰国して銀座にあった商事会社に勤務し、そのころ商売上のつきあいから清元の稽古場へ出入りしていた。
それから二十数年ののち昭和十七年十月十六日の一夜、荷風なじみの新橋の金兵衛で相磯と荷風は歓談した。取り持ったのは相磯がたずさえていた江戸の古書だった。「切迫してきた世情と物資の欠乏の中で、浮世ばなれのした大人の交わり」のはじまりであり、親密な関係は終世つづいた。もっとも荷風と年齢の開きが大きい相磯を著者は友人に近いが単なる友人ではなく、側近らしくもあるが単なる側近ではない、この独特な立ち位置にいて荷風のために尽力したのが相磯で「こうした独自性は鉄工所経営者にして文人愛好者という彼の多面性ともどこか呼応していた」と述べている。
文人の交友相手、古書蒐集の同好の士である相磯はまた荷風には煩雑な俗事や事務を処理する側近、秘書であり、さらに戦後の一時期、荷風に執筆の場を提供するなどした後援者でもあった。
荷風は「孤独」を本質的な妨げにしない人だった。しかしそれは人間交際において誰かとともにする清福の時間を求めていなかったという意味ではない。その時間を「師」荷風にもたらしたのが「凌霜という文人の流れを汲んだ弟子」と「阿部雪子というはかなげなフランス語の弟子」という二人の「弟子」だった。 相磯は、荷風のお通夜から本葬にかけて、銀座のある酒場の女性が、先生の愛人でしたと言わんばかりの素振りでマスコミに対応する姿に対照させて「偏奇館時代から秘かに通い続けていた某女が、お通夜にもお葬式にもひっそりと誰とも口をきかないで、つつましくお焼香だけをして帰っていった床しい後姿に、私は思わず眼頭を熱くしてしまった」と書いている。
「弟子」たちに相互の付合いはなかったようだが、相磯は阿部雪子について荷風から聞き及んでいただろう。文中「某女」とのみしるした相磯のゆかしさと阿部雪子のゆかしい後姿とはここで人知れず共鳴していたにちがいない。