フランス的ケチ 再論

フランスでは金利で生活する人をランチエ、退職年金で生活する人をルトレテと呼ぶ。つまり仕事をしないで老後の生活を送る人びとを、生活費の出どころによって分類している。老後の生活への細やかな視線とフランス人の隠居ごのみをうかがわせる言葉である。

河盛好蔵「ランチエとルトレテ」に引用されているユマニスムの作家デュアメルの一文には「十九世紀の最後の十年は若干の町はランチエとレトルトでいっぱいだった」とある。一八八四年に生まれ、一九六六年に亡くなった作家の実見した光景としてよいだろう。

十九世紀末から第一次世界大戦までのフランスはベル・エポック、古きよき時代と呼ばれた時代で、人びとは若いときせっせと働いてお金をため、退職してからは金利や年金で悠々自適の生活を求めたのだった。

いまはどうか。日本の金利と年金をめぐる状況から推し量るにランチエやルトレテになるのはかつてよりずいぶん困難になっているだろう。世知辛い世のなかである。

ついでながら、いくつかの国語辞典でランチエとルトレテを引いてみたがいずれも立項されていなかった。むかしもいまも日常生活で用いる外来語ではないから当然ではある。英和辞典にもふたつの単語に対応する英語はなく、日本や英米に比べるとフランス人は隠居がお好き、といえそうだ。少くともひとむかし前までは。

隠居がお好きかどうかの根本には人それぞれの生き方がある。これについてうえの「ランチエとルトレテ」には、金利や退職年金で生活するためには決断を必要とする、これだけあれば一生困らないという金を蓄めるのは不可能であり、それよりも、自分はこれだけの生活費があればやってゆける、いややってみせるという決意がなければランチエにもルトレテにも踏み出すことはできない、とある。

この決断、踏み切りのよさにフランス人は長けているというのが河盛好蔵先生の見立てで「もう少しお金を蓄めてからとぐずぐずしているうちに、折角の楽しむべき老年をふいにしてしまうようなことを彼らはしない、その代り、彼らは限られた生活費で生活する技術にきわめて長けている」と述べている。

独立自尊、悠々自適はそれなりの覚悟が必要で、そのためにつましく生きるのは何ほどのこともない。フランス人はケチなどとからかいを受けながらも、かれらはランチエやルトレテになるための決断力と生活の技術を身につけていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

手芸と料理のじょうずな力士

Amazon Prime Video魅惑のモロクロラインナップで「死の十字路」(一九五六年日活)を鑑賞した。原作は江戸川乱歩、この作者がこのようなスリラー作品を書いているのを知らず、ほかにおなじ系統のものがあれば併せて読んでみたいと思った。

夫は商事会社の社長、妻は新興宗教に凝り固まった財産家。夫は秘書を愛人としていて、不倫の現場に妻が訪れたところで諍いが生じ、夫は誤って妻を殺してしまう。

夫は妻の死体を遺棄しようと車でダムに向かうが、そのとちゅう、とある十字路で事故を起こしてしまい、警察署で事故処理をしているあいだに車にはもうひとつ死体が乗せられていた。

どうです。パトリシア・ハイスミスヒッチコックのファンなら堪えられないでしょう。とりわけ前半は優れもの。死体遺棄の全体が浮かび上がる後半は偶然に頼るご都合がマイナス点となるけれど、そこがまた往年の週替わり、プログラムピクチュアの味覚である。

         □

週刊新潮」九月八日号に、日大危機管理学部先崎彰容(せんざきあきなか)教授の安倍元首相国葬についてのコメントがあった。

国葬の是非はその人物個人への好悪ではなく、遺した実績で測られるべき。その観点から見れば、安倍元総理は憲政史上最長の政権を維持し、外交において数々の実績を遺した。国葬で見送ることは決しておかしなことではない」

国葬賛成派は最長政権と外交について言い立てるが、内政面の具体には触れない。触れると「桜を見る会」をめぐる百回を超す事実と異なる国会答弁や財務省による公文書改竄で職員が自殺した問題が絡んでくるからだろう。国葬に処せられても民主主義への誠実を欠いた事実は消えない。

台湾との友好や、欧米と協調し全体主義を排する点で、わたしは安倍氏に共感するけれど、プーチンとの会談を通じ北方領土問題を解決しようとしたのは判断ミスだったと思う。台湾、朝鮮半島、「満洲国」など領土問題の処理は敗戦によるもので、自主的返還ではなかった。自国もできなかったことをプーチンに求めても結果は明らかだろう。

          □     

九月十一日。チケットをゲットしながら所用で行けなくなった友人からチケットを頂戴し、NHKホールでのNHK交響楽団の演奏会に行った。 

指揮は新たにN響首席指揮者に就任したファビオ・ルイージ交響楽団に加えて四人の歌手と新国立劇場合唱団によるヴェルディ「レクイエム」。合唱付のコンサートははじめてで、まことによい機会となった。

f:id:nmh470530:20221004141708j:image

コンサートホールで聞く素晴らしいオーケストラと歌手と合唱。歳末には恒例でフルトヴェングラー指揮、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団の「第九合唱付」のCDを聞くけれど、ことしの年末はN響の第九をなまで聞いてみたいな。

チケットをプレゼントしてくれた友人にあらためて感謝し、代々木公園の並木道をあるくのが心地よかった。

f:id:nmh470530:20221004141731j:image

          □

九月十七日。明治四十四年三月にオープンした帝国劇場のプログラムに載ったキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」にならい、昨日は歌舞伎座で観劇、今日は国技館で大相撲観戦。

二代目中村吉右衛門心不全で亡くなったのは昨年二0二一年十一月二十八日。今回の歌舞伎座播磨屋の一周忌追善公演である。

f:id:nmh470530:20221004142159j:image

大相撲は正面二階の枡席、ここでビールを飲みながら観戦するのはわたしの至福のとき

          □

十月十六日の東京レガシーハーフマラソン2022に出走を予定していて、そろそろ距離を延ばそうと16㎞を走った。心肺がハーハーゼーゼー状態になると長距離レースは断念しなければならないが、いまのところその状態にはない。もっとも若いときのように他人様との闘いどころではなく、いまは自分との闘いで精一杯である。

ひとりで走るのはせいぜい20㎞、それ以上はレースを含め、お仲間と走るのを何よりとしている。学校体育では身体能力を馬鹿にされ、嗤われた自分ができるのは雑念を排し愚直に走るだけである。そうと知りながら、古稀をすぎてなおタイムや順位を気にしているのは人間ができていない表れだろう。

ありがたいことに劣った身体能力の割に体力、スタミナはあったから、いまもレースに出場できている。こんな身体に産んでくれた父母に感謝するばかりだ。

          □

徳富蘆花大逆事件について論じた「謀叛論」を読んだ。ここで蘆花 は、幸徳秋水はじめ被告人には反省悔悟の機会を与えるべきで、死刑は不当と論じ、「物の役に立つべき面々は皆他界の人になって、廟堂にずらりと頭を駢(なら)べている連中には唯一人の帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく、あたら君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切なる機会を見す見す看過し」た輔弼の臣の至らなさを嘆いている。さらには、せめて明治初年の山岡鉄舟木戸孝允がいれば状況は変わっていたかもしれない、それに「もし皇太子殿下が皇后陛下の御実子であったなら、陛下はお考があったかもしれぬ。皇后陛下は実に聡明恐れ入った御方である」とのちの大正天皇に言及している。

やんごとない方面についての発言は戦後になって公表されたものではなく大逆事件被告十二名が処刑された一週間後、蘆花が招かれて一高の演壇にたったときの草稿である。こういうのを読むと戦前の言論のあり方のイメージが変わる。

          □

森茉莉『卵料理』よりパセリのオムレツ。「これはフランスのオムレット・オ・フィーヌ・ゼルブの日本流で、フランスのは香い草入りオムレツといって、いろいろな匂いのいい葉類を入れて焼くのである。ただパセリを青い汁が出るほど細かく刻んで卵にまぜて焼くだけである」。これなら自分でもできそう。

「まず、木綿豆腐を一丁、冷蔵庫でよく冷やしておく。葱(タマネギではない)を刻んで、晒しておく。トウフを取り出して皿に置き、その上にネギをたくさん載せ、塩とゴマ油をかけて、手早く混ぜる。トウフの形が崩れないようにするのと、ゴマ油の数滴、なによりのコツは塩だけの味加減である」吉行淳之介『贋食物誌』より。

著者がある中国のコックから教えてもらった豆腐料理だそうだ。

自分でなんとかなりそうなお酒のつまみをつくるのが好き。「心に通ずる道は胃を通っている」というイギリスのことわざがある。プロの料理人の奥深い料理も、下々のそれなりの料理もおなじく胃を通って心に通じているのが人生である。

慶安の頃、大酒として知られた地黄坊樽次は「南無三宝あまたの樽を呑干て身は空樽にかへるふるさと」と辞世をよんだ。食を通して家族や友人たちと心を通わせ、お酒で羽化登仙し、やがてふるさとへ帰る。素敵な人生。

          □

「家にゐて女房のヒステリイ面に浮世をはかなみ、或は新聞雑誌の訪問記者に襲はれて折角掃除した火鉢を敷島の吸殻だらけにされるより、暇があつたら歩くにしくはない。歩け歩けと思つて、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである」

「独酌、独吟、独棲、何でも世は源水が独楽の如く独りで勝手にくるくる廻るにかぎり申候。(中略)なまじ子供なぞつくり候へば行末小説家になりはせぬかとついつい青年の自由をも圧迫致したくなるものに候間寧ろ独身にて子供につぎ込むべき学資養育費貯蓄し置かば老後の一身は養育院に行かずとも済み可申候」

前者は永井荷風「日和下駄」、後者は同「大窪だより」の一節で、並べてみると荷風と散歩と家庭の図式が見えてくる。

荷風は市中を散歩する際は嘉永版の江戸切図を携行していた。蝙蝠傘を杖に日和下駄を履き、江戸切図を懐中にしていたのは石版刷りの東京地図を嫌ったのではなく、歩きながら昔の地図と引き比べていけばおのずと江戸の昔と東京の今とが比較対照できるからだった。

そのうえで文明批評家としての荷風は誰が、何が東京の変貌をもたらしたのかの問題を追及した。「江戸伝来の趣味性は、九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』と一致することが出来ず」(「深川の唄」)といったふうに。

西行芭蕉は旅人だが、対して荷風は散歩者である。種田山頭火は旅人ではあるが散歩者、歩く人のイメージも強い。

「私が欣求してやまないのは、悠々として迫らない心である、渾然として自他を絶した境である。その根源は信念であり、その表現が句である、歩いて、歩いて、そこまで歩かなければならないのである」。 

山頭火の日記の一節は精神的なあゆみと足の運びを一体としていて荷風の歩きとは趣が異なるが、ここにもひとつの歩きがある。

          □

 九月二十五日。大相撲秋場所、元気一杯の三十七歳十ヵ月、玉鷲関の優勝を讃えたあと、図書館で雑誌をあれこれ読んでいると「クロワッサン」十月十日号に、玉鷲関と編み物作家横山起也さんとの対談があった。紹介によれば玉鷲関は手芸愛好家で、見事な刺繍やマスコット作りのほか、料理上手でも知られている。

なかで玉鷲関は趣味は手芸としたうえで「手芸をしているときは集中していて、時間を忘れてしまいます。手芸をしているあいだは自分で時間をコントロールできる。とても幸せな時間です」と語り、横山氏は「無心でいられることで、リカバリーできるものがあります」と応じていた。優勝に手芸がひと役買ったかな。

なお三十七歳十ヵ月での優勝は一九五八年に年六場所制となって以降の最年長記録となる。

料理にも関心を懐いている玉鷲関は、現代の食の状況について「今の人たちは『食べるために生き』ていますね。『生きるために食べる』のではなくて」と述べている。食と生が逆になってしまっているのである。力士生命を長く保つためにも食について考察と実践を重ねているとみた。

         □

二人のフランス文学者の著作集を架蔵している。『河盛好蔵 私の随想選』全七巻(新潮社)と『渡辺一夫著作集』全十四巻(筑摩書房)。後者は学術論文を含むから全巻通読はとても無理だが難しい著作のなかに『フランス・ルネサンス断章』所収の文章があったりして、時々、飛び飛びに渡り歩いている。

河盛好蔵 私の随想選』は先年フランスとベルギーを旅行した直後、たまたま早稲田の古書店でみて旅の記念に購入し、このほどようやく第七巻『私の茶話』を読んだ。著者の単行本は読んだことはあるが、こうして集成された随想集を読むのはうれしい。フランス文学、日本文学の専門的な論文を読むのは難しいができる限り全巻通読をめざしたい。

わたしはフランス文学の日本語訳の金字塔、渡辺一夫訳『ガルガンチュワとパンタグリュエル』に挫折した。再チャレンジはないだろう。他方、河盛好蔵の訳書は監訳『フランス革命下の一市民の日記』、共訳『歓楽と犯罪のモンマルトル』、『落日のモンマルトル』(前著の続編で河盛の名前は記載されていないが、ひと連なりの作品)そして単著『藤村のパリ』が書架に並ぶ。いよいよ読みごろか。

その河盛好蔵先生のコラム「新しい大臣たち」に、フランスでは内閣が代ると新大臣が過去十年ほどのあいだに公の場所で発表した言葉を新聞が発表することになっている、とあった。執筆は一九五八年だからいまはどうか知らない。日本の新聞にも大臣紹介でチラとエピソードが紹介されるが、それとは別だろう。

大臣たちの過去十年にわたる発言を並べることで、その大臣がどのような思想の持主であるか、終始一貫しておなじ政見を持っているか、それとも変節常なき人間であるかを理解することができる、まことに当を得たやり方であって、インチキ政治家の登場をある程度まで防ぐことができる、と河盛先生はいう。

安倍元首相の事件以来、世界平和統一家庭連合、旧略称統一教会と政治家との関係が取り沙汰されている。故人ならびに第二次岸田内閣の大臣たち、各政党の大幹部に絞ってでよいから、過去十年にわたる統一教会との関係と関連発言をまとめてみたら如何だろう。下手な論評より、その人物を雄弁に語ってくれるはずだ。

         □

プーチン大統領は九月二十一日、ウクライナ侵攻をめぐり予備役の「部分的な動員令」を発動、そのあとセルゲイ・ショイグ国防相が軍務経験のある予備役30万人を召集、ロシアの予備役2500万人の1%にあたると説明した。

種々の報道によるとじっさいは30万人よりはるかに多数で、なかには100万人とする記事もあった。

それから一週間、いまロシアでは市民生活への影響の大きさから一部に徴兵反対の動きが起きている。全体主義国家、悪の帝国におけるこの動きをわたしは予想していなかった。筋金入りの反プーチン派は別に、徴兵反対に動いた人たちのなかにはウクライナ国民が殺されようがどうなろうが関係ないと思っていた人もいたはずで、みずからに影響が及ぶとなるとそうもゆかなくなったのだろう。また一部の連中はウクライナ国民がどれほど悲惨な体験をしようと自身に影響が及ばないあいだはプーチンを英雄視していただろう。

そこであらためて思う、他人の痛みにはいくらでも耐えられる。いくらきれいごとを並べ、ヒューマニズムを訴えてもたかが知れている。わたしも、ことにあたる国連の職員だって。

岸田首相が熱心に国連改革を訴えている。いまロシアにペナルティを課せられない国際組織なんて存在意義を疑うのは当然で、改革はまっとうな議論だ。そういえばわが国には国際連盟を脱退した輝かしい歴史がある。この際、ショック療法で国連脱退というのはどうだろう。国連はもっともっと批判を受けなければならない。批判のないところに改革はない。プーチンがそうであるように。

         □

朝はNHKBS1の世界のトップニュースを見て世界情勢を知るようにしていたが、ロシアの侵略がはじまって以来ウクライナの人々が気の毒で見ていられなくなり、ラジオをもっぱらとした。戦局が少し好転したので久しぶりにテレビに戻ると「映画で見る世界のいま」のコーナーで藤原帰一先生が「デリシュ!」を紹介していて、さっそく日比谷のTOHOシネマズシャンテで鑑賞。よい作品を教えていただきました。

 

 

 

 

 

 

「魅せられて」

エリザベス二世が、九月八日スコットランド、バルモラル城で崩御され、十九日ウィンザー城内の聖ジョージ礼拝堂に埋葬された。

一九五二年二月六日の就位から二0二二年九月八日までの在位七十年を辿ってみたいと思っていたところ、誌名は忘れたがある週刊誌にフィクションのおすすめとして「クィーン」「エリザベス 女王陛下の微笑み」「ザ・クラウン」「ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出」が挙げられていて、さっそくNetflixのシリーズ「ザ・クラウン」の視聴に及んだ。

ネットには多くの方がこのドラマに寄せて「見るならいま」「彼女がイギリス国民に捧げた生涯を少しでも知りたくて見始めました」「崩御を機に本格的に視聴開始」といったコメントを投稿している。それも王室内部の出来事をドラマ化できる環境があってのこと。たとえば就位前のエリザベスに夫のフィリップ・マウントバッテンが「ぼくはきみの傍で笑顔を振りまくのが仕事じゃない」と語る。こんな赤裸々なやりとりがほんとにあったかどうかは知らないけれど、劇化できるのは貴重で、日本の皇太子妃殿下が「わたしはあなたの傍で笑顔を振りまくのが仕事じゃないわ」と口にするドラマはよくもわるくも考えられない。ついでながら「ザ・クラウン」は年齢制限+16、理由は暴力、性描写、言葉づかいとあり、このような皇室ドラマはわが国では不可能というほかない。

それはともかく劇中、エリザベスの妹マーガレットがBewitched(魅せられて)の略称で知られる曲をピアノの弾き語りで歌うのに付いて、最晩年のジョージ六世も歌っているシーンがある。フィクション、ノンフィクションを問わず、またイギリス王室に限らずロイヤルファミリーがジャズのスタンダードナンバーを歌っている場面はわたしの記憶にはない。しかも王女が歌うBewitchedは、当時の彼女の状況を考えるとけっこう意味深な選曲である。

マーガレット王女はこのとき二十二か三、ジョージ六世の侍従武官で「空の英雄」と呼ばれたピーター・タウンゼントと恋仲になっていたから、弾き語りしながら王女は十六歳年上の妻ある男(のち離婚)を思いながら歌っていたと誰しも想像するだろう。そして父のジョージ六世は第二王女と自身の侍従武官の、昔ふうにいえば不義密通を、まったく知らないままのんきにラヴソングを歌っていたのだった。

ふたりの関係がマスメディアに暴露されたきっかけはエリザベス女王戴冠式での仲むつましい姿で、政府首脳と王族たちはすぐさま、ジョージ六世の兄のエドワード八世が、離婚歴のある平民のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するためわずか三百二十五日で退位した、その二の舞を演じさせまいと厳しい姿勢をとった。

王女があえて離婚歴のある十六歳年上の大佐と結婚するならば王位継承権も王族としての年金受給権も剥奪すると告げ、英国国教会も結婚を認めないと決定した。エリザベス女王は妹の結婚に同情的だったが、その力をもってしても王女と大佐は別れざるをえなかった。ただしこの話はここでのテーマではないから話題をBewitchedに戻そう。

このナンバーの正式の曲名はBewitched,Bothered,And Bewildered(魅せられ、悩まされ、戸惑っている)。

作曲はたくさんのスタンダードナンバーを残したリチャード・ロジャース、作詞はロジャースと組んで数々の名品を書いたローレンツ・ハート、初演は一九四一年にミュージカル「パル・ジョーイ」で歌われた。これが一九五七年に映画化され、日本では翌年「夜の豹」なる題名で封切られたのは、邦題をめぐる不可解な話である。

フランク・シナトラキム・ノヴァクリタ・ヘイワースなどの出演する映画はお気楽に楽しめる。しかし、マーガレット王女はお気楽どころではなく「魅せられ、悩まされ、戸惑っている」。曲名は彼女の心の内をそのままに表現しているようだ。そして恋の切ない気持を歌ったバラードはこんなふうに結ばれる。

 

I’ll sing to him 

 each spring to him

And long for the day when I’ll cling to him.

Bewitched,

 bothered and bewildered-am I

彼のために歌うわ

春がやって来るたびに

そして彼に抱きつく日を待ち続けるの

魅せられ、悩まされ、戸惑っている、わたし

 

現実は「彼に抱きつく日」は王女にめぐって来なかった。

わたしのいちばんのお気に入りはエラ・フィッツジェラルド、名唱です。

 

 

 

 

 

 

 

 

「デリシュ!」

デリシュ、フランス語でおいしいを意味することばです。

フランス革命がすぐそこまで迫っていた時代、料理人が作る料理は王侯貴族の味わうものであって、民衆とはまったく無縁、そもそも庶民は味覚の能力を欠いているとされていました。シェフによる料理は選ばれた人のためのもの、おのずとかれらが仕えるのは宮廷と貴族に限られていました。

そんななか、シャンフォール公爵(バンジャマン・ラベルネ)が抱える凄腕のシェフ、マンスロン(グレゴリー・ガドゥボワ)が料理にジャガイモを用いたことから宴席でトラブルとなり、クビになってしまいます。当時ジャガイモは南米から持ち込まれた奇妙で醜い、いわば被差別的なもので、それをあえて用いたのは食の冒険だったのです。

マンスロンにとって公爵は自身の料理のよき理解者であり、その的確な賛辞と批評はプライドの拠り所となっていました。いっぽう公爵の批判には招待客の面子を立てなければならず、図らずもマンスロンを手厳しく咎めた面がありました。だから宴席でマンスロンが謝罪をすれば公爵のお抱えでいられたのですが、料理というモノに込めた職人のウデを納得ゆかないかたちでなじられ、プロ根性を傷つけられたマンスロンは、ルソーの思想や革命の潮流に心を寄せる息子とともに公爵のもとを去ります。

f:id:nmh470530:20220930140540j:image

やむなく失意の日々を実家で過ごしているマンスロンのところへ、何かわけありの中年女性ルイーズ(イザベル・カレ)が弟子入りしたいとやって来ます。

マンスロンははじめ断りますが、やがて高級娼婦あるいは高貴な身分の女性とおぼしい女性に食材の選び方から教えてゆきます。そして新しい時代を待望する息子は、もう誰かに仕えるのはやめて、みんなに食べてもらおうと父に訴えます。

こうして少しばかり失意から抜け出したマンスロンは旅籠形式の屋内と前庭にテーブルを並べ、卓毎に料理の提供をはじめます。

王侯貴族の独占物である料理が民衆のほうへと流出しはじめ、料理を提供する場所=レストランが生まれ、上流階級にのみ仕えていたシェフが社会全体の認知する存在となります。また女性の能力は劣っていてプロの料理人にはなれないという壁にほんのわずか風穴が空いたのでした。

こうした物語がフランスの田園の四季を舞台に描かれます。ときに緑が萌え、黄紅葉が輝き、雪が覆う、うっとりするほど素晴らしいカメラワークです。料理のシーンの素晴らしさは言うまでもありません。すなわちスクリーンに映るすべてが美しい、料理と社会と自然の交わる名品!

気になったことをひとつ。新しく生まれたレストランのテーブルは屋内とともに前庭にも並べられていましたから、前庭のテーブルはカフェテラスに連なっているのかもしれません。

わたしにははじめてのエリック・べナール監督作品。これから要注目です。

(九月二十九日 TOHOシネマズシャンテ)

摂生と不摂生

八月二十日新型コロナの四回目の接種をした。場所は文京区シビックセンターの展望ラウンジのある二十五階で、接種はいやだがラウンジからの眺めはよい付加価値である。

f:id:nmh470530:20220905141939j:image

接種後十五分は事後観察があり、それが済むとエレベーターで一階へ下りた。とちゅう同世代とおぼしき女性から「これで安心よね」と話しかけられて「そうですね」と応えたけれど、心のなかでは接種によるトラブルがないよう願っていた。

新型コロナ接種で、これでひと安心と思える人と、接種のトラブルがわが身に及ばなければよいがと不安を感じる人。ここのところがオプチミストとペシミストの分岐点で、現在のわたしは明らかに後者に属している。以前は豪放磊落、細かいことは気にしないといった心情も多分にあったのだが、あれはメッキだったかもしれない。

男の厄年は二十五、四十二、六十、女は十九、三十三、三十七、とくに男の四十二、女の三十三は大厄といわれている。ちょうど大厄のころ人事異動で業務内容が大きく変わり、ここらあたりからペシミズムに覆われるようになった。出先にいると職場から携帯に電話があり、クレームや問題出来の不安を覚えたりしてたらどうしても悲観論に傾きやすくなる。

          □

英語学習用テキストで『シャーロック・ホームズの冒険』と『シャーロック・ホームズの思い出』を読んだ。シリーズ短篇集は『シャーロック・ホームズの帰還』へと続くが、学習テキストOXFORD BOOKWORMSからの一時引越しだったので、そろそろそちらへ帰還しなければならない。

OXFORD BOOKWORMSは六段階のうち五段階にいる。さて帰還して何を読むか。目次順だとトーマス・ハーディFar from the Madding Crowd、それに続いてストーリーを知っていて読みやすそうなThe Merchant of Venice、長年気になっているキャサリンマンスフィールドの短篇集、映画「いつか晴れた日に」の原作ジェイン・オースティンSense and Sensibilityなどがある。

半世紀ぶりの英語は読むだけで聴く話すは関係ない点でお気楽である。ほんとは聴く話す力もないとしっかりした読解はできないとはわかっているけれど。

ところが英語を専攻した知人がOXFORD BOOKWORMSで大量の英文を読み終えたあかつきには聴く話すほうもそれなりに向上しているだろうといってくれた。リップサービスとわかっていても嬉しい。

          □

「物を記憶(おぼ)えるといふ事が技術なら、物を忘れるといふ事も一種の技術である。人間といふものは、打捨(うつちや)つておくと、入用のない、下らない事を多く記憶(おぼ)えたがつて、その代りまた物事を忘れたがるものなのだ」

薄田泣菫「帽と勲章」『茶話』)。

歳をとって記憶力の衰えは自覚している。ところが泣菫のいう「入用のない、下らない事」や主に若いとき重ねたいわゆる生き恥は忘れるどころか、ときに甦ったりするからやっかいだ。もともと前向きでないところに、加齢とともに昔を振り返る機会が増え、そのついでにいやな思い出が呼び戻される。忘れる技術って大事だな。

「私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れて、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない」と書いたモンテーニュ自身、さりながら人生はそれほど都合のよいものではないと自覚していた。

          □

Amazon prime Videoで「誘惑」を観た。監督中平康。一九五七年日活作品。「太陽の季節」は前年に公開されているが石原裕次郎はまだ脇役だった。「誘惑」でも二谷英明宍戸錠がサラリーマンのチョイ役で出演している。 つまり日活アクション路線隆盛の直前に撮られた群像ラブコメディである。

女優陣は左幸子渡辺美佐子芦川いづみ中原早苗などいまから振り返ると贅沢、豪華、さらには東郷青児岡本太郎が本人役でゲスト出演している。銀座の小さな通りの洋品店、昔画家志望だった主人(千田是也)が思い立って二階を画廊に改造、そこに美術界のビッグネームや若手の美術家たちが集う。

左幸子で思い出した。大学生だった一九七0年前後、大学の大教室で羽仁五郎の講演があり、そのころ大ベストセラーだった『都市の論理』の著者は、開口一番こんな工場みたいな教室でよく勉強できるもんだと一発かましたり、きみたちもやがて結婚するだろう、男だったら左幸子のような女性がよいと、そのころ、息子羽仁進の妻だった女優を讃えていた。

          □

『デイヴィッド・コパフィールド』を読み、懸案の『風と共に去りぬ』か『アンナ・カレーニナ』に進もうかと思ったが、いま続けて大長篇を読むパワーがあるとは思われず、おなじく長年気になっていた『チェーホフ作品集』を手にした。いくつかは読んでいるがまとめて読むのははじめてだ。

英語学習テキストOXFORD BOOKWORMSではキャサリンマンスフィールド短篇集を読んでいて、彼女はチェーホフの影響を強く受けた作家だから両者を並行して読むのはかぶりすぎている気がしないでもないが、これもめぐりあわせなのだろう。わが読書漂流は何処へ行くのだろう。

          □

安倍元首相の葬儀を国葬とするという岸田内閣の決定に対する逆風がけっこう大きい。あれほど選挙に強かったのを思えばわたしには意外である。

元首相が凶弾に倒れたのは痛ましい出来事だった。史上最も長く首相を務めた方を国葬に、という感情は理解できないではないが、他方この人には民主主義に対する誠実や公正さという点で多大の疑問があった。

桜を見る会」をめぐる疑惑では事実と異なる国会答弁が少なくとも百十八回、議会を軽視した不誠実極まる態度である。くわえて森友問題では、財務省による公文書改竄まで起き、職員が自殺に追い込まれた。性被害をもたらした疑惑で逮捕寸前の人物に対し、当時の警視庁刑事部長(のちに警察庁長官安倍氏の事件で引責辞任)が逮捕状執行の取り消しを命じた醜聞もあった。元首相は関係していなかったかもしれないが、事実の究明を怠ったことは否定できない。

わたしは台湾との友好や、欧米と協調し全体主義的な考え方を排する点では共感していた。しかし日本の民主主義には不都合なことの多い人でもあった。

          □

「ただ放心状態で飲んでいる。その状態がいちばん疲れなくて、それには一人がいちばんいい。そしてほろっとして、あと黙々と寝入ってしまえば目的は達せられるので、酒でもビールでもウイスキーでも、何ならショーチューでもちっともかまわない」。

山田風太郎「ひとり酒」より。一人酒の極意である。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」若山牧水

ところでこの文、昭和のいつごろ書かれたのだろう。「酒でもビールでもウイスキーでも、何ならショーチューでもちっともかまわない」に時代を感じる。それほど「ショーチュー」は酒類の最下層、被差別的存在であり、金がなくて酒、ビール、ウイスキーが飲めない者がやむなく酔うためだけに飲むものだった。

傍証として種田山頭火の昭和五年十月十五日の日記を引いておこう。

「焼酎は銭に於ても、また酔ふことに於ても経済だ、同時に何といふうまくないことだらう、焼酎が好きなどといふのは(中略)間違なく変質者だ、私は呼吸せずにしか焼酎は飲めない、清酒は味へるけれど、焼酎は呷る外ない」

もうひとつ、野坂昭之は「わが焼酎時代」に「当時の焼酎ほど残酷な酒を、ぼくは知らない。五杯も飲めば放歌高吟、ならまだいいが、すぐ嘔吐する」と書いている。文中の「当時」は昭和二十六年である。

四十代のはじめだったか、少人数の酒席で某先輩が焼酎を頼み、それがわたしに注がれた。「何ならショーチューでも」のイメージがあり、そのままにしてあると先輩から「おまえ、その歳になって焼酎も飲めないのか」とたしなめられた。いまわたしの晩酌に焼酎は欠かせない。品格、洗練において大変化した焼酎を讃えよう。

          □

英語学習教材OXFORD BOOKWORMSに収めるキャサリンマンスフィールドの短篇集The Garden Party and Other Stories、続いてThe Merchant of Veniceを読んだ。

前者について編者はいう、短篇集は何枚かの写真に似ている、人々の人生のある瞬間をとらえ、記憶として定着させる、と。

The Garden Party and Other Stories所収九篇は以下、Feuille d’ Album、The Doll’s House、The Garden Party、Pictures、The Little Governess、Her First Ball 、The Woman at the store、Millie、The Lady’s maid、

このうち「園遊会」「初めての舞踏会」「小間使い」が『マンスフィールド・パーク短編集』(安藤一郎訳、新潮文庫)にある。訳者のいう「豊かな感受性と技巧の冴え」でいえば「園遊会」が推しだ。

さていよいよFar from the Madding Crowdに取りかかろう。

          □

色川武大が「大喰いでなければ」というエッセイに、大病をして厳しい体重管理を課せられたことがあり、けっこう努力はしたがうまくことは運ばず、そこで考えを改めて「早死を防止するために痩せるのに、痩せようとして死に瀕するのではなんにもならない」と思うようになったと書いていた。こういうの好きだな。

古今亭志ん生がまくらで、摂生して自動車事故で死ぬ人と、不摂生しながら生き残る人とでは、事故で亡くなる人の方が不摂生だと語っている。

痩せようとして死に瀕するのと摂生して自動車事故に遭うのはわたしのなかでは重なっている。

わたしにも在職中の健康診断でいわゆるスポーツ心臓を指摘された経験がある。医師からは、健康のために走るのであればウォーキングに変えるよう勧められたが、健康のために走っているのではないのでと断り、ならばどうすればよいですかと質問すると、準備運動をもっと強化するようにとの答だった。それからの実践がよかったのか、翌年から指摘はなくなった。

心肺や膝への負担を考えると走るより歩くのが健康によいのだろう。しかし長距離を走る爽快感や達成感はウォーキングでは味わい難い。それぞれの向き不向きもある。長距離走という不摂生をして生き残るのは過分の望みなのかな。

もうひとつ古今亭志ん生にまつわる話を。

そば屋が天丼やカレーライスなどを供するようになったのは、戦中戦後の食糧難時代にはじまったという説がある。浅草、並木の藪の店主だった堀田平七郎が『私のそばや五十年』に書いている。そば、うどんが代用食とみなされ、そば、うどんを食事に代えたことから天丼やカレーがそば屋に侵入したわけだ。この指摘にもとづけば、戦争はそばやのあり方を変えた。鮨屋も同様なのかもしれない。

古今亭志ん生宅に息子の志ん朝が訪ねた折り、息子が鮨を喰うのを見て志ん生が、どうしてそんなにたくさん鮨を喰うんだと問うたところ、息子はだって腹が減ってるからと答えた。すると親父はそれなら食事してから来いと叱った。

志ん生にとって、鮨は趣味の食べ物であり、飯の代わりに食べるのは邪道なのである。そこのところの感覚は志ん朝にはわからない。

戦中戦後の食糧難時代に、そばとおなじく鮨も代用食化したとおぼしい。

          □

久瀬光彦の著書を借りて「マイ・ラスト・ソング - あなたは最後に何を聴きたいか」と問うてみる。わたしのラスト・ソングは「鈴懸の径」で決まり、ラスマエはいまのところ「水色のワルツ」としている。前者は灰田勝彦のオリジナルに加え多くのカヴァー、それに鈴木章治のジャズ・ヴァージョンと聴いているとたちまち時間が過ぎる。(写真は立教大学にある「鈴懸の径」の石碑)

f:id:nmh470530:20220905142120j:image

「水色のワルツ」はオリジナルの二葉あき子は別格にしてカヴァー・ヴァージョンのお気に入りはちあきなおみ小野リサで、おふたりとも二葉あき子のクラシックの歌曲の趣ではなくアンニュイの気分を素敵に醸し出している。そこで同曲が収められている小野リサのアルバムを熟読じゃない熟聴した。

「水色のワルツ」を含む小野リサのアルバムは夏の午後の暑さ対策によい。やはり夏の音楽はボサノヴァというべきか。

          □

コールドケース 迷宮事件簿』全七シーズン、百五十六のエピソードをすべて見た。

暇な奴とお笑いでしょうが、自分としては片隅の隠居の力業と思いたい。いずれにしてもシリーズ全編視聴はわたしにはレアケースである。

契約切れなのだろう、Amazon prime Videoではまもなく終了しますとアナウンスがあり、ならば残り全編見ようとアクセルを踏んだ。

コールドケース 』は二00三年から二0一0年までCBSで放送されたワーナー・ブラザース制作による刑事ドラマ。古くは一九二0年代、新しくは数年前にフィラデルフィアで起きた事件のうち未解決のままになっていた事件が新証拠の発見等で再捜査され解決される。パターンはおなじだから、水戸黄門や寅さんのファンの心情と通じているだろう。ただ犯罪実録ふうのドラマだから、濃淡はともかくそれなりにアメリカの社会史が反映されていて、その点でも興味深かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「梨泰院クラス」讃

英語学習テキストOXFORD BOOKWORMSでチャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』を読み、引き続き岩波文庫の訳書全五巻に進み、第一巻を読み終えた。学習用テキストのおかげで呑み込みも早く快調に進んでいる。

OXFORD BOOKWORMSでは次にトーマス・ハーディFar from the Madding Crowdが掲載されているが長篇小説の連続はきつそうで、おなじく英語学習用にリライトされた『シャーロック・ホームズの冒険』を読むこととした。コナン・ドイルのホームズ作品は原書ですべて持っているのに、学習用テキストからのスタートはトホホだな。

岡本綺堂は三歳にして、元幕臣でイギリス公使館に書記として勤務していた父から漢文素読、九歳から漢詩を学び、叔父と公使館にいた留学生から英語を学んだ。やがてシャーロック・ホームズ作品を読み、そこから『半七捕物帳』の執筆に至った。いま学習用テキストでホームズを読むわたしとしては学力不足を嘆くほかない。

          □

ドナルド・キーンはアーサー・ウェーリーによる英訳『源氏物語』で日本文学の素晴らしさを知った。日本の優れた古典文学にはそれに見合う優れた現代語訳がある、古典の勉強はそこからはじめよ、 外国語でも教えるかのようにはじめから原文にあたって文法を暗記させるのは味気ない、まずは文学としての面白さを教えるべきだ、とキーンさんは主張していた。

ドナルド・キーンの東京下町日記』にある「『世界のオザワ』を見習う」にキーンさんは「小澤(征爾)さんは、オペラをかみ砕いて子どもに食べやすくした。それを見習って、(日本の)古典も敷居の低い現代語訳で始めるべきだと強く思っている」と書いている。

わたしは大学で中国語を学んだがいま中国への関心はほとんど失せた。胡耀邦共産党の総書記だったころ、改革開放期の文学を興奮して読んだのもいまは昔。そこでふと思いついて英語の学び直しに取りかかった。英語学習用にリライトされた『シャーロック・ホームズの冒険』にはいささか忸怩たる気持はあったけれど、キーンさんの、敷居の低いところからはじめよ、に意を強くした。

ドナルド・キーンと日本の古典についてもうひとこと。

キーンさんは若いころ『徒然草』の翻訳に熱中しているうち自分が兼好法師になったと思ったという。その英訳は自身の翻訳のなかで、いちばん好きで、よくできていると自負していた。二0一九年四月十日、キーンさんのお別れの会で喪主を務めた養子誠己(せいき)さんはあいさつで「軽井沢の別荘で父は若い頃、タイプライターに向かって『徒然草』の翻訳に熱中しておりました。そのときは六月で、やはりシトシトと雨の降る梅雨の時期だったそうです。そして、父は、まさに自分が兼好法師になったと、そんなふうに思ったそうです。その英訳は父自らが、『これは僕の翻訳の中で、一番好きで一番よくできている英訳だと思います』と自負しておりました」と述べている。

これはゲットしなくてはと探したところ Essays in Idleness ありました。生涯の愛読書『徒然草』を英語でも楽しめるなんて、これまで思ってもみなかった。

f:id:nmh470530:20220905142417j:image

          □

もし年収二十ポンドある人が十九ポンド十九シリング六ペンスで済ませて使う分には幸せにやってられるけど、二十ポンド一シリング使ってしまえば、みじめな結果になってしまうんだよ、とミスター・ミコーバーは、デイヴィッド・コパーフィールドに言った。

その舌の根の乾かないうちにミコーバーは黒ビールが飲みたいからとディヴィッドから一シリングを借り、奥さんへ支払いをよろしくと指示書類を書くと、元気いっぱいになった。このときミコーバーは債務者監獄に囚われの身で、 ディヴィッドは面会に来ていた。犯罪者ではなく債務者だからビールはよろしいという理屈なのだろう。

暑さのなかこの箇所を読んだところで黒ビールを飲まずにはいられなくなり、さっそく神保町のビアホール、ランチョンへ足を向けた。美味しかったなあ。

篠田一士が『世界文学「食」紀行』に「まあ、女のことはぼくにはわからないし、それほどの感興もよばない」「それよりも、ぼくは詩や小説を読むときには、食べ物に注目する」と書いている。及ばずながら大いに見習いたい。

          □

おなじく『ディヴィッド・コパフィールド』で、コパフィールドの伯母さんが「いいの、いいの、ビールさえあれば、極楽、極楽」と口にする。大いに共感したが、じつは伯母さんは「坦々と、温めたビールをティースプーンで飲んだり、ちぎったトーストをそれに浸して食べたりしている」のだった。

ホットビールは、ビールの本場、ドイツでも古くから親しまれてきた飲み方だそうだが、わたしに冒険心は起こらず、冬になればためしにやってみようという気にさえならない。そういえば寒い季節のドイツでホットワインを飲んだが、一度でたくさんだった。

ネットでどなたかがホットビールについて、キンキンに冷えたビールが好きな人や、ビールはのどこし!という人からすれば「温めて飲む」なんて発想は邪道に聞こえるかもしれません、けれどこちら、イギリスの寒冷地ではごく一般的な飲み方なんですよ、と書いておられた。ラガーではなくエールビールが適しているとの由。

          □

八月十日。夏が来れば思い出す。『徒然草』第五十五段「家の作りやうは、夏をむねとすべし」を。そして西陽が斜めに射すわが部屋で、文句をいってはキリがない、近くの上野公園を散歩し、不忍池のほとりでジョギングできる贅沢もあるんだからと自身を慰める。ちなみにドナルド・キーン英訳の五十五段を直訳すると「家は心に夏を思って建てるべきである」。  

第二次岸田改造内閣が発足した。どなたが入閣しようが、党の役員になろうがどうでもよく、あとは勝手に棕櫚箒で、こうして歳をとるのはよいものである。しかしながらウクライナや台湾がどうなろうとわがことにあらずという気分ではないからまだ枯れきってはいない。

「世に立つは苦しかりけり腰屛風まがりなりには折りかがめども」荷風

          □

八月十一日。「山の日」の夕方、上野公園を散歩し、とちゅう不忍池のベンチに腰掛けチェーホフ作品集のあちらこちらを開いてみた。猛暑日ながら五時半頃には陽は翳り、池の水と桜の葉裏はそよ風に揺れ、気持すこぶるよし。

「無能だというのは小説の書けない人のことではない、書いてもそのことが隠せない人のことだ」とチェーホフ。このブログを書いている人もおなじで、そうとわかっていてもまだ続けている。どれほどの無能か、あきれるばかりだ。

f:id:nmh470530:20220905142503j:image

          □

暑さが厳しい。昨夏まではビールの箱買いはせず、飲みたくなればその都度買っていたのに、もうそんなこといっていられなくなり、自宅ではあまり飲まなかったビールを毎度口にするようになった。焼酎、ウイスキーにビールが加わり、これからの人生、きみたちとともに仲良く過ごしたいと心でささやいた。暑さが結ぶ恋である。

晩酌しない日はノンアルコールビールを飲んでいてこの夏はふたつとも必需品に格上げした。暑さに対する耐性が劣化し、ビールの箱買いを戒めていた堤防が決壊し、同時に欲望が解き放たれ、一瞬ではあるが、これからの人生、酒にはじまり、セックス、品物、現ナマ、もう遠慮しないと決意した。

先日は シネマート新宿で金大中の大統領選挙運動を素材にした実録映画「キングメーカー 大統領を作った男」を観たあと、晩酌には間があったので喫茶店で休んでいるとビールが恋しくて、恋しくて……精神的には完全に依存症状態である。

          □

しばし暑さを忘れさせてくれるTVドラマはないかなと探していたところ週刊誌で韓国のテレビドラマ「梨泰院クラス」(イテウォンクラス)が日本でリメイクされるとの記事を読み、さっそく元版をNetflixで視聴をはじめいま第四話を終えた。ストーリーの展開の魅力に加えパク・ソジュン演じるパク・セロイ(朴世路)が、韓流ハードボイルドの趣きがある。二人のヒロイン、キム・ダミ、クォン・ナラも素晴らしい。二人の女優の役柄を喩えると前者は変化球型、ベンチャー企業のマネージメントに優れ、後者は直球型で、大企業のキャリアウーマン、双方のバランスも取れている。いま一人「長家」専務役のキム・ヘウンも魅力の女優だ。

          □

週刊文春」のいつだったかの号で作家の下重暁子氏(86)が「75歳以上が『後期高齢者』って、誰が決めたの? 私はけしからんと思っているんですけどね(笑)。数字なんかで人間をくくっちゃいけません」と語っていた。

長距離走大好きで、まもなく七十二歳となるわたしは、できれば後期高齢者まではフルマラソンの大会に出場したいと思っているけれど、それこそ「数字なんかで人間をくくっちゃ」だめなんだ。走れなくなればそのときのこと。ハーフマラソンをはじめ長距離走はいくらでもある。七十五歳からは後期高齢者、こういうのを人為的高齢者論というのだろう。

          □

「梨泰院クラス」が中間点まで来た。NetflixのTVドラマのベスト10に常時顔を出しているのも納得だ。いろんな出来事を契機として人間関係が変化する、その変化の様相がこのドラマの大きな魅力で、今後の展開は不明ながら面白さに磨きをかける仕込は十分と見た。

寺田寅彦は「病室の花」で造花について「不規則な乾燥したそして簡単な繊維の集合か、あるいは不規則な凹凸のある無晶体の塊である」としたうえで、生花については「複雑に、しかも規則正しい細胞の有期的な団体である」と述べた。真実とまがいもの。甘みにも砂糖があるいっぽうにサッカリンがある。

造花と生花。寅彦は「美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、いつでもこのような、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか」という。人間関係の揺れ、裏切り裏切られの描写は一級品の「梨泰院クラス」、生花そのものだ。

          □

七十七回目の「八月十五日」を迎えた。

「戦後、日本人は一人も戦死していない。素晴らしいことだ。不戦を誓う憲法九条のおかげであり、世界が見習うべき精神である。ところが、日本は解釈改憲で『理想の国』から『普通の国』になろうとしている」。

「私は戦争体験者として、国際問題の解決に軍事行動をとるべきではないと思っている。遺体が無造作に転がる戦場に立てば、その悲惨さ、むなしさは明らかだ。それに、日本にふさわしい平和的な国際貢献の方策はいくらでもある」

いずれもドナルド・キーン『東京下町日記』より。初出は二0一四年七月六日東京新聞。 つい先日までの日本人の平均的な考え方といってよいと思うが、いまはどうだろう。国会で改憲に積極的な政党が占める比率から考えると、それほど「理想の国」ばかり求められても困ってしまいます、がいまの国民感情なのかな?

国際問題の解決に軍事行動をとるべきではない。しかしウクライナでの「遺体が無造作に転がる戦場」報道を見るとそうとばかりいっていられない、しかも火元は国連安保理常任理事国である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)はいえない事態となっている。

          □

『デイヴィッド・コパフィールド』を読み終えた。一介の孤児がさまざまな体験を経て立身出世の人生を送るサクセス・ストーリーを骨格にさまざまな人物が散りばめられて、はじめ長いのが不安だったが難なく読めた。祝!

語り口はなじみやすく、それに人物造形と描写が見事で、ドーラ、ミスター・ミコーバー、ベッツィ伯母さん、ペゴティーとその兄のミスター・ペゴティー、ユライア・ヒープなど、わたしのような記憶力の衰えた者の脳裡にも長く印象に残りそうだ。

訳者の石塚裕子氏は解説でこの作品の魅力を「やはり、この小説の面白さの真髄は、様々な個性豊かな人物たちが、あちこちに登場してきては捲き起こす喜劇や悲劇の場面場面にある」と述べている。初出は月刊分冊で一八四九年五月から翌年十一月にかけて。読むうちにときどき同時代の日本、幕末維新期の社会を意識した。

          □

「梨泰院クラス」1シーズン、16エピソードの鑑賞を終えた。大満足、出色の韓流ドラマだ。韓国のトップの外食産業の御曹司に父を殺された息子の復讐を軸に恋愛、企業買収、内部告発トランスジェンダー等を絡ませた作劇術は見事なもので、これほどテレビドラマにはまったのは「ハウス・オブ・カード」以来だ。

ここしばらくの間に視聴した韓流ドラマは「愛の不時着」「未成年裁判」「イカゲーム」そして「梨泰院クラス」。NHKでやっている韓流歴史ドラマには全然食指が動かないが、Netflixの現代ドラマはこれからも追ってみたい。ヒット作品が日本で放送されているという事情はあるにしても、いずれもレベルは高い。

          

「アキラとあきら」

映画を観て、翌日から三日かけてTVドラマ版をNetflixで視聴しました。

映画だけではよく理解できなかったから、というのではありません、念のため。こういうオモシロ作品のあとにTV版をパスするなんてわたしにはできません。

両者の異同は別にして、どちらも「空飛ぶタイヤ」や「七つの会議」などと同様、たのしく鑑賞しました。映画の竹内涼真横浜流星、TVの向井理斎藤工、それぞれの演技はもちろん、映画版vsTV版のタッグマッチとしても見がいのあるものでした。

f:id:nmh470530:20220915152615j:image

池井戸潤氏の小説はわずかしか読んでいませんが、映像作品は気がつく限り視聴していて、これまでのところハズレはありません。今回は勧善懲悪の風味は控えめに、 ふたりの友情の味付けを濃くしています。 分断の象徴のような真逆の家庭環境で育ったアキラとあきらが運命の糸に操られるようにして東大を卒業し、おなじ大手銀行に就職し、困難な問題に立ち向かってゆく、これをメインに家族関係、職業上の人間関係、TV版では恋愛模様が描かれます。もちろんエンディングは爽やか。

池井戸作品に接するたびに、善玉と悪玉(のちに善玉に協力したり、和解する人たちを含め)のビジネスや対人関係についての考え方と行動に違いがあり過ぎる、というか悪玉のレベルがとても低くて、これでは勝負にならない、もっと拮抗した状況を期待してしまいます。いっぽうで両者の違いを際立たせるのはそこにわかりやすさと現代の講談の魅力があるのはわかってはいるのですが……。

ネットでこの映画をビジネスファンタジードラマと評した方がいて、なるほどと納得すると同時に「銀行は会社に貸すのではなく、人に貸す」というこの作品の名言もファンタジー、それとも実務の鉄則なのだろうか、仕事のうえで、会社、銀行とはご縁のなかったわたしは迷ってしまいました。企業、銀行の方はどうお考えでしょうか。

(九月一日TOHOシネマズ上野)