摂生と不摂生

八月二十日新型コロナの四回目の接種をした。場所は文京区シビックセンターの展望ラウンジのある二十五階で、接種はいやだがラウンジからの眺めはよい付加価値である。

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接種後十五分は事後観察があり、それが済むとエレベーターで一階へ下りた。とちゅう同世代とおぼしき女性から「これで安心よね」と話しかけられて「そうですね」と応えたけれど、心のなかでは接種によるトラブルがないよう願っていた。

新型コロナ接種で、これでひと安心と思える人と、接種のトラブルがわが身に及ばなければよいがと不安を感じる人。ここのところがオプチミストとペシミストの分岐点で、現在のわたしは明らかに後者に属している。以前は豪放磊落、細かいことは気にしないといった心情も多分にあったのだが、あれはメッキだったかもしれない。

男の厄年は二十五、四十二、六十、女は十九、三十三、三十七、とくに男の四十二、女の三十三は大厄といわれている。ちょうど大厄のころ人事異動で業務内容が大きく変わり、ここらあたりからペシミズムに覆われるようになった。出先にいると職場から携帯に電話があり、クレームや問題出来の不安を覚えたりしてたらどうしても悲観論に傾きやすくなる。

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英語学習用テキストで『シャーロック・ホームズの冒険』と『シャーロック・ホームズの思い出』を読んだ。シリーズ短篇集は『シャーロック・ホームズの帰還』へと続くが、学習テキストOXFORD BOOKWORMSからの一時引越しだったので、そろそろそちらへ帰還しなければならない。

OXFORD BOOKWORMSは六段階のうち五段階にいる。さて帰還して何を読むか。目次順だとトーマス・ハーディFar from the Madding Crowd、それに続いてストーリーを知っていて読みやすそうなThe Merchant of Venice、長年気になっているキャサリンマンスフィールドの短篇集、映画「いつか晴れた日に」の原作ジェイン・オースティンSense and Sensibilityなどがある。

半世紀ぶりの英語は読むだけで聴く話すは関係ない点でお気楽である。ほんとは聴く話す力もないとしっかりした読解はできないとはわかっているけれど。

ところが英語を専攻した知人がOXFORD BOOKWORMSで大量の英文を読み終えたあかつきには聴く話すほうもそれなりに向上しているだろうといってくれた。リップサービスとわかっていても嬉しい。

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「物を記憶(おぼ)えるといふ事が技術なら、物を忘れるといふ事も一種の技術である。人間といふものは、打捨(うつちや)つておくと、入用のない、下らない事を多く記憶(おぼ)えたがつて、その代りまた物事を忘れたがるものなのだ」

薄田泣菫「帽と勲章」『茶話』)。

歳をとって記憶力の衰えは自覚している。ところが泣菫のいう「入用のない、下らない事」や主に若いとき重ねたいわゆる生き恥は忘れるどころか、ときに甦ったりするからやっかいだ。もともと前向きでないところに、加齢とともに昔を振り返る機会が増え、そのついでにいやな思い出が呼び戻される。忘れる技術って大事だな。

「私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れて、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない」と書いたモンテーニュ自身、さりながら人生はそれほど都合のよいものではないと自覚していた。

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Amazon prime Videoで「誘惑」を観た。監督中平康。一九五七年日活作品。「太陽の季節」は前年に公開されているが石原裕次郎はまだ脇役だった。「誘惑」でも二谷英明宍戸錠がサラリーマンのチョイ役で出演している。 つまり日活アクション路線隆盛の直前に撮られた群像ラブコメディである。

女優陣は左幸子渡辺美佐子芦川いづみ中原早苗などいまから振り返ると贅沢、豪華、さらには東郷青児岡本太郎が本人役でゲスト出演している。銀座の小さな通りの洋品店、昔画家志望だった主人(千田是也)が思い立って二階を画廊に改造、そこに美術界のビッグネームや若手の美術家たちが集う。

左幸子で思い出した。大学生だった一九七0年前後、大学の大教室で羽仁五郎の講演があり、そのころ大ベストセラーだった『都市の論理』の著者は、開口一番こんな工場みたいな教室でよく勉強できるもんだと一発かましたり、きみたちもやがて結婚するだろう、男だったら左幸子のような女性がよいと、そのころ、息子羽仁進の妻だった女優を讃えていた。

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『デイヴィッド・コパフィールド』を読み、懸案の『風と共に去りぬ』か『アンナ・カレーニナ』に進もうかと思ったが、いま続けて大長篇を読むパワーがあるとは思われず、おなじく長年気になっていた『チェーホフ作品集』を手にした。いくつかは読んでいるがまとめて読むのははじめてだ。

英語学習テキストOXFORD BOOKWORMSではキャサリンマンスフィールド短篇集を読んでいて、彼女はチェーホフの影響を強く受けた作家だから両者を並行して読むのはかぶりすぎている気がしないでもないが、これもめぐりあわせなのだろう。わが読書漂流は何処へ行くのだろう。

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安倍元首相の葬儀を国葬とするという岸田内閣の決定に対する逆風がけっこう大きい。あれほど選挙に強かったのを思えばわたしには意外である。

元首相が凶弾に倒れたのは痛ましい出来事だった。史上最も長く首相を務めた方を国葬に、という感情は理解できないではないが、他方この人には民主主義に対する誠実や公正さという点で多大の疑問があった。

桜を見る会」をめぐる疑惑では事実と異なる国会答弁が少なくとも百十八回、議会を軽視した不誠実極まる態度である。くわえて森友問題では、財務省による公文書改竄まで起き、職員が自殺に追い込まれた。性被害をもたらした疑惑で逮捕寸前の人物に対し、当時の警視庁刑事部長(のちに警察庁長官安倍氏の事件で引責辞任)が逮捕状執行の取り消しを命じた醜聞もあった。元首相は関係していなかったかもしれないが、事実の究明を怠ったことは否定できない。

わたしは台湾との友好や、欧米と協調し全体主義的な考え方を排する点では共感していた。しかし日本の民主主義には不都合なことの多い人でもあった。

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「ただ放心状態で飲んでいる。その状態がいちばん疲れなくて、それには一人がいちばんいい。そしてほろっとして、あと黙々と寝入ってしまえば目的は達せられるので、酒でもビールでもウイスキーでも、何ならショーチューでもちっともかまわない」。

山田風太郎「ひとり酒」より。一人酒の極意である。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」若山牧水

ところでこの文、昭和のいつごろ書かれたのだろう。「酒でもビールでもウイスキーでも、何ならショーチューでもちっともかまわない」に時代を感じる。それほど「ショーチュー」は酒類の最下層、被差別的存在であり、金がなくて酒、ビール、ウイスキーが飲めない者がやむなく酔うためだけに飲むものだった。

傍証として種田山頭火の昭和五年十月十五日の日記を引いておこう。

「焼酎は銭に於ても、また酔ふことに於ても経済だ、同時に何といふうまくないことだらう、焼酎が好きなどといふのは(中略)間違なく変質者だ、私は呼吸せずにしか焼酎は飲めない、清酒は味へるけれど、焼酎は呷る外ない」

もうひとつ、野坂昭之は「わが焼酎時代」に「当時の焼酎ほど残酷な酒を、ぼくは知らない。五杯も飲めば放歌高吟、ならまだいいが、すぐ嘔吐する」と書いている。文中の「当時」は昭和二十六年である。

四十代のはじめだったか、少人数の酒席で某先輩が焼酎を頼み、それがわたしに注がれた。「何ならショーチューでも」のイメージがあり、そのままにしてあると先輩から「おまえ、その歳になって焼酎も飲めないのか」とたしなめられた。いまわたしの晩酌に焼酎は欠かせない。品格、洗練において大変化した焼酎を讃えよう。

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英語学習教材OXFORD BOOKWORMSに収めるキャサリンマンスフィールドの短篇集The Garden Party and Other Stories、続いてThe Merchant of Veniceを読んだ。

前者について編者はいう、短篇集は何枚かの写真に似ている、人々の人生のある瞬間をとらえ、記憶として定着させる、と。

The Garden Party and Other Stories所収九篇は以下、Feuille d’ Album、The Doll’s House、The Garden Party、Pictures、The Little Governess、Her First Ball 、The Woman at the store、Millie、The Lady’s maid、

このうち「園遊会」「初めての舞踏会」「小間使い」が『マンスフィールド・パーク短編集』(安藤一郎訳、新潮文庫)にある。訳者のいう「豊かな感受性と技巧の冴え」でいえば「園遊会」が推しだ。

さていよいよFar from the Madding Crowdに取りかかろう。

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色川武大が「大喰いでなければ」というエッセイに、大病をして厳しい体重管理を課せられたことがあり、けっこう努力はしたがうまくことは運ばず、そこで考えを改めて「早死を防止するために痩せるのに、痩せようとして死に瀕するのではなんにもならない」と思うようになったと書いていた。こういうの好きだな。

古今亭志ん生がまくらで、摂生して自動車事故で死ぬ人と、不摂生しながら生き残る人とでは、事故で亡くなる人の方が不摂生だと語っている。

痩せようとして死に瀕するのと摂生して自動車事故に遭うのはわたしのなかでは重なっている。

わたしにも在職中の健康診断でいわゆるスポーツ心臓を指摘された経験がある。医師からは、健康のために走るのであればウォーキングに変えるよう勧められたが、健康のために走っているのではないのでと断り、ならばどうすればよいですかと質問すると、準備運動をもっと強化するようにとの答だった。それからの実践がよかったのか、翌年から指摘はなくなった。

心肺や膝への負担を考えると走るより歩くのが健康によいのだろう。しかし長距離を走る爽快感や達成感はウォーキングでは味わい難い。それぞれの向き不向きもある。長距離走という不摂生をして生き残るのは過分の望みなのかな。

もうひとつ古今亭志ん生にまつわる話を。

そば屋が天丼やカレーライスなどを供するようになったのは、戦中戦後の食糧難時代にはじまったという説がある。浅草、並木の藪の店主だった堀田平七郎が『私のそばや五十年』に書いている。そば、うどんが代用食とみなされ、そば、うどんを食事に代えたことから天丼やカレーがそば屋に侵入したわけだ。この指摘にもとづけば、戦争はそばやのあり方を変えた。鮨屋も同様なのかもしれない。

古今亭志ん生宅に息子の志ん朝が訪ねた折り、息子が鮨を喰うのを見て志ん生が、どうしてそんなにたくさん鮨を喰うんだと問うたところ、息子はだって腹が減ってるからと答えた。すると親父はそれなら食事してから来いと叱った。

志ん生にとって、鮨は趣味の食べ物であり、飯の代わりに食べるのは邪道なのである。そこのところの感覚は志ん朝にはわからない。

戦中戦後の食糧難時代に、そばとおなじく鮨も代用食化したとおぼしい。

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久瀬光彦の著書を借りて「マイ・ラスト・ソング - あなたは最後に何を聴きたいか」と問うてみる。わたしのラスト・ソングは「鈴懸の径」で決まり、ラスマエはいまのところ「水色のワルツ」としている。前者は灰田勝彦のオリジナルに加え多くのカヴァー、それに鈴木章治のジャズ・ヴァージョンと聴いているとたちまち時間が過ぎる。(写真は立教大学にある「鈴懸の径」の石碑)

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「水色のワルツ」はオリジナルの二葉あき子は別格にしてカヴァー・ヴァージョンのお気に入りはちあきなおみ小野リサで、おふたりとも二葉あき子のクラシックの歌曲の趣ではなくアンニュイの気分を素敵に醸し出している。そこで同曲が収められている小野リサのアルバムを熟読じゃない熟聴した。

「水色のワルツ」を含む小野リサのアルバムは夏の午後の暑さ対策によい。やはり夏の音楽はボサノヴァというべきか。

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コールドケース 迷宮事件簿』全七シーズン、百五十六のエピソードをすべて見た。

暇な奴とお笑いでしょうが、自分としては片隅の隠居の力業と思いたい。いずれにしてもシリーズ全編視聴はわたしにはレアケースである。

契約切れなのだろう、Amazon prime Videoではまもなく終了しますとアナウンスがあり、ならば残り全編見ようとアクセルを踏んだ。

コールドケース 』は二00三年から二0一0年までCBSで放送されたワーナー・ブラザース制作による刑事ドラマ。古くは一九二0年代、新しくは数年前にフィラデルフィアで起きた事件のうち未解決のままになっていた事件が新証拠の発見等で再捜査され解決される。パターンはおなじだから、水戸黄門や寅さんのファンの心情と通じているだろう。ただ犯罪実録ふうのドラマだから、濃淡はともかくそれなりにアメリカの社会史が反映されていて、その点でも興味深かった。