発熱!

十年ぶりくらいかな、DVDで「フットライト・パレード」(一九三三年)をみた。監督は名作「四十二番街」とおなじロイド・ベーコン

ギャング映画のスターだったジェームズ・キャグニーがボードビル時代に培ったダンスを提げて主演したミュージカルというのが貴重であり、主題歌の「上海リル」はわが国では古くはディック・ミネ、川畑文子、新しくは吉田日出子が(といっても四十年ほどまえ)歌ってヒットした。

ミュージカル・コメディーの演出家キャグニーは 映画がトーキーの時代となったのをみて映画とレビューを併せて上映、上演する方式を思いつき、レビューの作・構成・演出に邁進する。そこまでがバックステージの描写で、このあとフィナーレ、圧巻の舞台が待つ。フィナーレでの注目は水中ショーで、バズビー・バークレーお得意の万華鏡シーンがたっぷりと味わえる。「ザッツ・エンターティメント」でもおなじみのエスター・ウィリアム主演の水中レビュー映画の原点はここにあったのだった。

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人生最後のたのしみは口腹つまり飲み食いにあると思っていて年齢を重ねるとともにそちらの方面がますます気になっている。先日も NHKBSで放送のあった「おしゃれ泥棒」(一九六六年)をみていると、パリのホテルでピーター・オトゥールオードリー・ヘプバーンがスコッチを注文して、ボーイが持って来る、みるとスコッチのはいったグラスが受け皿にのっている。紅茶、コーヒーとともにパリの高級ホテルではウイスキーを受け皿にのせて出していたのだろうか。

もうひとつ『断腸亭日乗』昭和十七年(一九四二年)二月十日の記事に「物買ひにと夜浅草に行く。瓶詰牛肉大和煮と称して鯨肉を売る店多し」とあった。百足光生『荷風と戦争』によるとこの年、味噌、醤油など多くの物資の配給制度が実施されていて、それだけ店頭は逼迫し、品切が多くなり牛肉が鯨肉に化けたりするようになっていた。

荷風日記からおよそ八十年、いまは牛肉よりも鯨肉を口にするのがはるかにむつかしい。昭和二十五年(一九五0年)生まれのわたしは子供のころよく母が「きょうはおかねがないからクジラ」といっていたのをおぼえていて、またクジラかなんて心のなかで文句を垂れていたが、振り返ると畏れ多いことではあった。

「あはれ不思議なる世とはなれり」。

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永井荷風「雪の日」に男女のカップルへの視線でたどる世相の変化を述べた箇所がある。「わたくし達二人、二十一二の男に十六七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさに、おのづから身を摺り寄せながら行くにも係らず、ただの一度も巡査に見咎められたことはなかつた。今日、その事を思返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑と羨怨の目が今日ほど鋭くひかり輝いていなかつたのである」。

世間のカップルにたいする視線を史料で論じるのはむつかしく、ここは明治のほうがゆるやかで、大正以後は厳しかったという作者の実感を尊重しておかなければならない。

「雪の日」が書かれたのは昭和十八年十二月三日、翌年二月の俳句雑誌「不易」に発表された。戦時中、作品の発表が困難だった荷風の公表された数少ない作品のひとつで、二十代はじめのころを回想しながら「猜疑と羨怨の目」にスパイスを利かせている。

令和のいまSNSでの誹謗中傷が社会問題となっている。 SNSで多くの人が気持を、意見を自由に語れるようになったのは素晴らしいことだが、反面で匿名による誹謗中傷が激しくなっていて、 荷風のいう大正以後の若い男女にたいする巡査のまなざしにあった疑いやねたみはいま SNS 上で大きく成長を遂げて鋭く、陰険となり、寛容の心は蒸発気味にある。難癖に熱中する酔狂の大量輩出である。

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話題の水泳選手はわが子の送り迎えには国産車を、不倫というお楽しみには外車を使っていたそうだ。セコイ男、家族が泣くぞ。それともすでに、泣こうとて泪も出ない秋の暮れ、か?

かつて勤務していた高校の同僚に、被差別部落での集会や家庭訪問には国産の軽自動車に、その他では外車に乗っていた男性教師がいてこいつもセコイ奴だったな。

あるときこの教師が、わたしの担任する学級の生徒の何人かに誰がみてもおかしな評価をつけてきた。百点満点の試験の点数からみて5段階評価の3か4は明らかなのに1の赤点が付いていた生徒が何人かいた。授業態度やレポートなど提出物の面でもなんの問題もない。説明を求めるのももどかしく、そ奴のいる部屋へ怒鳴り込んだところ言を左右にして明確な理由を示さず、なんだかんだと突っ張っていたが最後は成績を改めさせた。

「あんまり理屈にもならぬ理屈を言っていると、同和地区へ行くときは外車から国産軽に代えているのを部落解放の方面に提起してやろうか、こらあ」なんて若かったわたしは感情を抑えきれず声を荒げたのだったが、爾来目的別に車を使い分ける奴は問題のある人物というのがわが独断である。

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十月十六日金曜日の夕刻、散歩しているととつぜん悪寒を覚え、その日は体温計の電池が切れていたので翌日電池を代えて計ると38度4分あった。この六七年のあいだ発熱はなく、前期高齢者となってはじめてのことである。東京では連日百人、二百人といった数の方が新型コロナウィルスに感染していて、さらにインフルエンザの流行も心配されているこの時期の発熱はショックが大きい。

月曜日を待って内科、外科、皮膚科等を設置している中規模の病院へ行った。一般の待合室には入れず、病院の入口前で発熱外来の旨を電話で伝えると、その場で検温を指示され、そうして電話で女性看護師さんの問診を受けた。

「金曜日に熱があり、土曜日に熱を計ると38度4分あり、今朝は37度7分になっていました」というと看護師さんが「金曜日は何度だったんですか」と訊ねるので「その日は電池が切れていて計れませんでした。はじめて計ったのは土曜日でした」と答えたところ「金曜日に熱があるってどうしてわかったんですか」と質問された。「金曜日は具体にはわかりません。体温計で発熱を確認したのは土曜日でした」と答えてようやく発熱問答を終え、あとは病歴や咳、鼻水、味覚の有無などの質問があった。

それにしても発熱をめぐるツッコミは厳しかった。でもわたしは相手のひとことをゆるがせにせず秋霜烈日の態度でしっかりした対応をする、看護師さんに限らずこうしたタイプの女性には好感を持っている。ただし、男性看護師におなじ質問をされると「体温計はなくても肉体感覚で発熱の有無はわかりますよ」と瞬時に思っただろう。女性看護師だったからそんなことよりも魅力が先に立った。ジェンダー思想としては問題だろうな、たぶん。

問診が終わると発熱外来室へ入るよう指示され、少しして入室した医師に診察していただいた。ふつうの風邪だとしても高齢者だから念のためPCR検査をしておきましょうとかいわれるかもしれないと思っていたのが話題にもならず、支払いを済ませ、処方箋をいただき薬局で購入して帰宅した。

十七日、ジャズ・トランペッター近藤等則氏が亡くなった。享年七十一。命日となった日にも自身のYouTube公式チャンネルに動画を投稿していたそうだから、まさしく急逝だった。フリージャズ系の方なので聴く機会は少なかったが、おなじ世代のミュージシャンとして気になる存在ではあった。ご冥福お祈りします。同世代の方の訃報は震度が大きい。

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 過日映画館の入場口で瞬間検温すると職員が首を傾げるので質問すると、お客さまの体温が検温範囲の下限より下にあるらしくて計れませんといわれてこちらも首を傾げた。

基礎体温の低さもあずかっているのか37度を超えることはあまりなく、三十代から四十代のあいだのいずれかの十年間発熱はなかったと記憶している。あったかもしれないが自覚はなかった。

ありがたいことだがマイナス面はあり、熱が出るとすこぶる弱くて37度5分くらいで生きるの死ぬのと喚いている。発熱のダメージはおそらく平均よりもきついだろう。そんなわたしが退職して二年目と三年目で都合四、五回発熱して微熱が三週間ほど続いたり、喘息が疑われたこともあった。検査の結果はジョギングのオーバーワークで、退職して時間が余っているものだから調子に乗って走っているうちにとんでもない事態となっていた。けっきょくしっかりした計画を立て、これを機に発熱騒動は止んだ。それ以来の今回の発熱である。

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食っては寝て、寝ては食うは不健康の極みと思っているが、久しぶりに発熱を経験して、食うと寝ることこそ静養のキホンのキと知った。食って寝て体力を回復して病気を克服しなければならない。

そしてこういうときこそツンドクのままにしてあった短篇小説集を読もう。そこでエラリー・クイーン『クイーン検察局』を読みはじめた。次にはJ・ラヒリ『停電の夜に』が控えている。

熱は高いときで8度と少し、低いときで7度と少し、どちらにしても悪寒で身体が震える。

病床 YouTube で若き日の大津美子のうたう「東京アンナ」を見て、聴いた。歌唱力、表現力、パンチ力それに女性の魅力いずれも素晴らしく、見るたびに一度や二度では終わらない。今回も静養するなか大いに慰められた。「東京アンナ」は子供のころ、こんなに洗練された歌謡曲があるんだと思ったナンバーのひとつだった。

そうして久しぶりにクリフォード・ブラウンマックス・ローチのグループを聴いてモダンジャズはここで完成したのではないかと唸った。(熱で唸ったんじゃないからね、念のため)。モダンジャズの極北ここにありは言い過ぎだとしてもそこに位置するジャズプレイヤーたちで、 ここまで来ればあれこれ改良進歩を狙っても超えられない完成度である。明治になって長唄や清元と西洋音楽を組み合わせる試みが行われたが総じてうまくいかなかったそうで、極北とはそういうものである。

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十月二十四日、病癒えてようやくの晩酌が嬉しい。新型コロナウィルス禍のこの時期、高齢者の発熱は心理的負担が大きい。食事していて、次に料理を口に運んだとき味覚がなくなっていればどうしよう、とか。その反動なのか、味覚にかえって敏感になっていて舌が塩分に微妙に反応したりする。一種の防衛機制なのかもしれない。

晩酌は元に戻したから次はジョギングだ。ストレッチ~筋トレ~走り、の手順のうち病後は軽いストレッチのあとウォーキングがよいか、いや、少しは筋トレも入れておかなくてはならない、好きじゃないけどなんて思いは千々に乱れている。ま、こちらはだんだんと元に戻していかなくてはいけない。

発熱は稀だがそのぶん熱に弱くダメージもきつい。若いときであれば病後のジョギングの回復手順を云々するなんて年寄りくさく、格好悪くて公言しなかっただろう。いまは年寄りくさいどころかほんとの年寄りである。未経験ゾーンなので手探りしながら進めてゆこう。

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快気祝いに「秋日和 デジタル修復版」(NHKBS)をみた。物語は「晩春」の焼き直しのようなものではあるが、美しいカラー映像、巧みなユーモアや艶笑譚などリラックスしてたのしみながら小津の名人芸が堪能できる。デジタル処理されて画像が格段に美しくなっているのがうれしい。

本作の原節子本郷三丁目の薬屋の娘だったという設定で、そこに帝大生だったとおぼしい若き日の佐分利信中村伸郎が彼女に会いたくてアンチピリンとかアンチヘブリンガンとかを買い求めに来ていた。場所は青木堂の近くと説明されている。

森鷗外と妻志げの長女だった森茉莉は、子供のころ千駄木の観潮楼に青木堂からケーキを届けてもらっていたと回想している。青木堂はおそらくいまスターバックス本郷三丁目店の立地するところにあったようだ。

どうでもよいことながら、原節子司葉子の母子がアパートに住んでいて、彼女たちは鍵をかけないのが、みるたびに気になる。母の原節子が先に帰宅して、娘の司葉子が帰ったときに施錠はしてなく、さらに娘の婚礼の夜、友人の岡田茉莉子原節子を訪ねて来たときも鍵はかかっていないのだった。

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プロ野球ことしのペナントレースパリーグソフトバンクセリーグジャイアンツの優勝で終わった。ジャイアンツの優勝で思い出したのだが、昨年読んだ堀田善衛の自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』に堀田の従兄がいて、昭和十年代に京大で左翼活動をして逮捕され、一族郎党のコネで警視庁に就職!、のち退職してプロ野球、当時の職業野球の事務方に転職する。

数奇というかへんな人生だなあと思いながら読み進むうちに、あっ、そういうことかとわかった。つまり堀田の従兄は読売新聞社の社主にしてジャイアンツの創立者、初代オーナー正力松太郎(1885−1969)を利用しながら難を避けていたんですね。

少し先に作者が「この職業野球の社長は、Y新聞の社長でもあり、この社長は巡査出身であった。そうして社長は、従兄の亡父が内務省警保局長であったときの部下であったから、ある意味では安全を保障されているに近かったかもしれなかった」云々と書いていて、警視庁とプロ野球の事務方を渡り歩いた男の事情が具体に理解できた。

そこで日本のプロ野球と警視庁は関係が深く、両者を束ねていたのが正力だったと推測した。この人がいたから堀田善衛の従兄は巧みに難を逃れながら奇妙な人生のシノギができたのだった。