「侍ニッポン」

昭和戦前の貧困層、負け組の心情をうたった最高傑作として昭和十二年(一九三七年)に上原敏と結城道子のデュエットでヒットした「裏町人生」を推す。よろしければ本ブログ二0一八年十二月六日の記事「裏町人生」を参照してみてください。

貧乏・負け組歌謡時代劇篇としては「侍ニッポン」と「大利根月夜」が甲乙つけ難い名曲で、前者は新納鶴千代、後者は平手造酒をうたっていて、ともに幕末の落ちこぼれ浪人の苦悩と悲哀が漂う。

ここで話題にするのは昭和六年徳山璉(たまき)が歌って大ヒットした「侍ニッポン」(作詞:西條八十、 作曲:松平信博)のほうで、新納鶴千代、もともとは郡司次郎正の小説『侍ニッポン』の主人公である。

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「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ」とか「昨日勤王明日は佐幕/その日その日の出来ごころ」といった零落と彷徨の歌詞でありながら、曲想はマーチふうの勇ましいもので、そのコラボレーションがかえって哀切感を漂わせている。

残念ながら原作、映画(五回映画化されている)ともに未読、未見、しかも映画化のたびに原作に手が加えられ、改変されているそうだからストーリーは紹介しにくいが、大まかなところをまとめてみると……新納鶴千代は水戸浪士の尊王攘夷思想に共感しながら、その激しい行動には納得しきれず悩んでいる。ある日、彼は自身が大老井伊直弼の妾腹の子であると知り、そのことを察知した仲間の水戸浪士からは疑惑の目でみられ、いっぽう父直弼からは開国の必要とこの国の進路を説かれ、攘夷の信念は揺らぐ。勤王と佐幕のあいだをさまよいながら迎えたのが雪の桜田門外での大老暗殺の日だった、といったふうになる。

新納鶴千代には思想的には共鳴しながらも過激な行動にはついていけない左翼青年の心情、また特高警察の取り締まりで余儀なく転向者となった冷笑と自己憐憫ー「どうせおいらは裏切り者よ」ーが投影されていて、小説と歌がヒットした背景には昭和初期の社会心理が作用していた。

なおオリジナルバージョンの徳山璉は新納鶴千代をシンノウツルチヨとしているが、本来はニイノウツルチヨだった、(春日八郎のカバーはニイノウと直してある)、いやいやニイノもあやまりでニイロ(旧かなだとニヒロ)が正しいとの説があり、わたしはいずれとも決められないけれど、昭和十七年に三十八歳で早逝した徳山璉にオマージュを捧げる意味で、シンノウでよいと思っている。それにしても創作上の人物の姓が定まらないのはどうしてか。初出のテキストにあたればルビが付されているのではないか。

ところでこの曲の歌詞は四番まであって「泣いて笑って鯉口切れば/江戸の桜田雪が降る」で結ばれる。ところが先日読んだ半藤一利『B面昭和史』(平凡社)に「侍ニッポン」は四番までとされるがじつは七番まであるという驚きの話があった。

半藤氏によると「侍ニッポン」のレコードはA面を徳山璉が、B面を「祇園小唄」の藤本二三吉姐さんが歌っているというのだ。とすればいま広く知られる徳山璉盤は四番までの不完全版ということになるではないか。困ったことに半藤氏はさほど流行歌に関心はなさそうで、「事情通」から聞いた話としたうえでその先は追求しておられず、藤本二三吉がうたった歌詞の一部「恋と意気地の死骸(むくろ)の上に、降るは昔の江戸の雪……」を書くにとどめている。

せめて藤本二三吉パートの歌詞だけでも知りたくネットで探してみたけれどかすりもしなかった。ひょっとすると「事情通」氏のつくり話かもしれず、いまのところ真偽いずれか判断がつかない。

YouTubeではSP盤レコードA面の「侍ニッポン」が回る映像とともに徳山璉の歌が聞ける。晩酌をしながらときには口ずさんでいたのに『B面昭和史』を読んでからは、レコードをひっくり返せない悔しさがつのる。どなたかご存知の方があればご教示ください。

「愛のコリーダ」におもう

週刊文春」の映画の紹介と短評からなるシネマチャートのコーナーを長年にわたり重宝してきた。ありがたいことに一昨年(二0一八年)五月には四十年におよぶ名物企画を再編集し、洋画二百七作品、邦画五十三作品の情報と評価を掲載した『週刊文春「シネマチャート」全記録』(文春新書)が刊行された。

これはずいぶん便利で眺めのよい映画本で、邦画ベスト50のトップに挙がっているのが昭和十一年に起きた阿部定事件を題材にした「愛のコリーダ2000」だ。わたしはお定さんのファンだから当然「愛のコリーダ」もノーカット版の「愛のコリーダ2000」もみていて、公開の経緯もある程度は知っており「心臓と心臓がこすれあうような性器の接触は、観客に示されるのが当然だ」(芝山幹郎)には全面賛意を贈る。

阿部定のファンになったのは彼女の予審調書を読んだのがきっかけで、これはわが国ノンフィクション文学の金字塔として過言ではない。ただ「愛のコリーダ」となると「大島映画の傑作中の傑作‼︎愛のやさしさを描いた日本映画の代表です‼」(おすぎ)に同意はしても、この映画にのめりこんだり、心震えたりはなかった。

「セックスだけを描いているアナーキーな徹底ぶりがすごい」(品田雄吉

「『粋』とか『デカダンス』とは対極にあるものの凄み」(中野翠)。

といった評言を前にして、わたしはセックスだけを描いたアナーキーな徹底ぶりだとか、デカダンスの対極にあるものの凄みを描いた作品には弱いと認めるほかない。あれはみるものではなく、実践するものだと強弁しても、その力はたかが知れている。セックスを描いた映画の鑑賞力も実践力も平均には届かないような気がする。実践力は長年人並みと思っていたのだが、「愛のコリーダ」をまえにすると、そうでもないかと弱気になってしまう。

アンドレ・ブルトンを中心とするシュルレアリストとその周辺の人々が一九二八年一月から三二年八月にかけて十二回にわたり行った座談会の記録『性生活についての探究』が清岡卓行マロニエの花が言った』に紹介されている。

アンドレ・ブルトンが問う。「何人の相手とセックスしましたか?大体のところ?」

ピエール・ブルム「四人」。

アンドレ・ブルトン「三十五人」。

シモーヌ・ヴィヨン(女性)「十五人と二十人のあいだ、二十人に近い」

当時三十代半ばだったポール・エリュアールは「五百人と千人のあいだです。私はほとんど正確にセックスできるでしょう」「私は一週間セックスしないでいると、体のぐあいがたいへん悪くなります。欲望を覚えない日なんてありません」と語っている。

五百人から千人のあいだというのは開きが大きすぎるのはともかく、この数字は赤裸々か、それとも超現実主義者としての粉飾だろうか。いずれにしてもアナーキーな徹底ぶりには恐れ入る。

そういえば彫刻家のロダンは友人に「君は女のことを考えすぎる」とたしなめられ「確かにそうだ。でも他に考えることってあるのか」と答えたそうだ。ここにもアナーキーな徹底ぶりがある。

けっこう多くの映画をみているわりにはピンク映画やロマンポルノの割合は低い。そのなかで新旧「愛のコリーダ」が大傑作であると認めるのはやぶさかではないのだが、振り返ってみるに映像よりもおなじジャンルの活字のほうをより楽しんだ。

三十歳前後だったか『マイ・シークレット・ライフ』という、たしか十四、五巻もあったセックスだけを描いた著者不詳の奇書を買ったこともあったのだ。若かったあのころ手広く本を買い込んだものだった。

『マイ・シークレット・ライフ』は半分ほど読んだところで挫折したけれど世の諸賢はこの大部の性書を読破しておられるのだろうか。とすればここでもわたしは人並み以下である。

 

『古書肆「したよし」の記』

永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二年十一月二十五日の記事に「近年文士原稿の古きものを蒐集すること流行し、御徒町の古書肆吉田屋の店などにては屑屋より買取りし原稿を見事に綴直しなどす。されば反古紙もうかとは屑屋の手には渡されぬなり」と書いている。

ここにある古書肆は下谷御徒町にある吉田屋だから「したよし」との呼び名があった。荷風は大正六年に書いた「古本評判記」でも言及していて「俳書浄瑠璃黄表紙洒落本なぞに明きは下谷御徒町の吉田なるべし。主人咄ずきにて客をそらさず、鑑識なかなか高し」とある。

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松山宗二『古書肆「したよし」の記』(平凡社二00三年刊)は明治二十年から昭和二十五年まで下谷にあった一古書店の創業から終焉までをたどったノンフィクションで、著者は創業者吉田吉五郎の孫にあたる方である。

彰義隊の戦いで堂舎の大半を失った徳川家の墓所上野寛永寺はやがて再建されていまにいたっている。吉田吉五郎は再建にあたった宮大工のひとり平松重吉の息子だった。吉五郎は病弱だったため家業は継がず、父もそれを許した。そうして微禄の元御家人だった吉田家の跡取りとして養子となる。ただしこれは一人息子は兵役を免除される制度を利用するため金銭で養子の戸籍を買ったものらしい。

兵役を回避した大工の倅は俳諧に親しみ、そのあげくに古書店をはじめた。扱うのは主に江戸時代の和本、浮世絵、書画だったから、読書が好きだからといってみなが親しめる店ではなかった。多数の顧客が見込める店ではなく、いっぽうで文人趣味浅からぬ個性的な客が贔屓とした。幸田露伴森鴎外谷崎潤一郎北原白秋三田村鳶魚山中共古、林若樹、三村竹清河竹繁俊奥野信太郎松本亀松、前島春三そして永井荷風などなど。

なかで三田村鳶魚は客というより相談役的な地位を占めていて、吉田屋もその文筆生活を支援していた。関東大震災での店の焼亡、昭和五年六月十九日の吉五郎の死去、昭和八年十二月十七日吉五郎の息子で二代目店主粂次の病没、いずれも書肆の存続に関わる出来事で、これらに際し物心両面で心を遣い、支援したのが鳶魚だった。

市井にあった一軒の和本専門の古書店の記録はよき常連客の足跡でもある。著者の筆致はいまはない店と客の姿を甦らせてノスタルジーを喚起する。

東京五輪延期狂想曲

東京五輪について国際オリンピック委員会IOC)、日本側ともに予定通りの開催を繰り返し強調していたのに、各国オリンピック委員会や競技団体、選手から延期を求める声の噴出をうけて急遽三月二十四日、一年程度の延期と決まった。

三日前の三月二十一日、ネット上のニュースに、IOCの渡辺守成委員が、日刊スポーツの取材に応じ、新型コロナウイルスの感染拡大で通常開催の是非が問われている東京オリンピックについて「五割強の選手が代表に内定している中、アスリートファーストの観点から通常開催を目指すべきだ」と答えたとの記事があった。

渡辺氏は「延期や中止はいつでも決断できるが、決定してしまったら後戻りできない。ブレたら非常に複雑な状況になる。ここは選手を最優先に考え、進めないといけない」とも述べていた。

いま通常開催に突っ走るのはけっこう勇気ある発言であり、感染症の行方に関わらずブレたらダメというのなら凄いことだ。翌二十二日にはキックボクシング団体「K-1」による大規模イベントが西村経済再生担当大臣と埼玉県の自粛要請を拒否して開催された。批判の声は大きかったが、オリンピックがブレたらダメなら「K-1」もおなじだろうと思った。

通常開催に越したことはなく、しかしそれと通常開催絶対主義、原理主義とは異なる。そこであくまで通常開催をいうときはぜひとも「感染症がどれだけ広がろうとも」を付けてものをいってほしい、賛成はしないが覚悟のほどは理解する。

といったことをつぶやいていたら、二十四日になって事態は急転した。新型コロナウイルスは高齢者にきつく、このままオリンピックに突入するとなると大会期間中とその前後は地方の実家で世話になろうかと考えていたからとりあえずわたしの危機は回避された。

延期措置は納税者にまたまた負担を強いるが、生命と健康には代えられない。一年後の日本と世界が「様々な人が通つて日が暮れる」(武玉川)ようになってオリンピックを迎えたい。

そこで先日まで通常開催をいっていた方々の言動が気になった。

延期を決めた翌日だったかIOCのバッハ会長はNHKのインタビューで、これまで日本がほんとうに開催できるのかを検討してきて十分できると見極めがついた、つぎに諸外国の人たちは日本にやって来られるだろうかの問題に移ったが、これが難しく延期にいたったと語っていた。こういうのを取って付けた理屈(にもなっていないけれど)というのだろう。感染者、死亡者の増加のニュースに毎日接しながら、ここまで通常開催にこだわる神経は異様だ。

東京都で新型コロナウイルス感染者が出ても、他の知事とはちがい自身ではアナウンスしてこなかった小池百合子東京都知事が、三月二十三日に感染の拡大防止策として「首都封鎖」の可能性に言及した。あらゆる可能性、想定外のことを想定して備えることは為政者の条件である。よくわからないのは、この方もこれまでずっとオリンピックを予定通り実施するとおっしゃっていた。首都封鎖も考えられる状況で通常開催するなどとよくいえたものだ。延期に決まったから、どうれと、コロナウイルスのほうに移って来られたのだろうか。

そして真打は東京オリンピック組織委員会森喜朗会長で、つい先日、オリンピック延期論を述べた同委員会の理事を、とんでもないことをおっしゃると譴責していたのが、延期が決まったあとのインタビューでは、「今日の状況を見ると、国際情勢は変化して、まだ予断を許さない。欧州や米国など異常な事態になっている地域もある。いろんな(延期や中止を求める)声があるのに『最初の通り、やるんだ』というほど我々は愚かではない」などと語っていた。延期を口にした人を叱り飛ばして「最初の通り、やるんだ」といっていたのはあんたじゃないか。

ここまで予定通りの実施にこだわった人は、信念に殉ずるか、これまでとってきた態度と認識の誤ちを詫びるべきだ。信念が貫けないなら辞任して筋を通せ、組織委員会IOCと縁を切って通常開催に向かえ、日本には国際連盟を脱退した輝かしい歴史だってあるぞと、からかいたくなるのも真打ゆえである。

ここまで四百字詰め原稿用紙にすると四枚ほど。じつにスラスラと書けた。人の悪口というのは筆が進むものです。

でも悪口ばかりだと気がひけるから拍手した事例も書いておこう。それはJOC理事で一九八八年のソウル五輪柔道女子銅メダリストの山口香氏が「アスリートが十分に練習できていない現状では(東京五輪は)延期すべきだ」と明確に語ったこと。以前に女子柔道強化選手への暴力事件についての発言からわたしはその見識と勇気に敬意をいだいてい、またこの人がたんに「一服の清涼剤」的な存在であってはならないと思っていた。

山口さんの発言をうけてJOC山下泰裕会長は「さまざまな意見があることは理解しているが、みんなで力を尽くしている時にJOCの中から一個人の発言であっても、きわめて残念な発言」などと語っていて、会長みずからがJOCの閉鎖的な組織体質を暴露していた。首都封鎖ならぬ言論封鎖で、いずれがJOCの会長にふさわしいかはおのずと明らかだろう。

江戸時代の儒学者荻生徂徠は、炒り豆をかじりながら人の悪口をいうのが大好きだった。きょうは先生を見習って悪口の日にしました。

(追記) 

四月五日都内で新型コロナウイルス感染者がこれまで最高の百四十三人にのぼったと報道があった。小池都知事は会見で驚くべき数字だと述べていたが、専門家がこうした事態を予測、指摘していたのになおオリンピックは予定通り開催するといっていたこともわたしには驚くべきことだった。

この日、外出自粛で部屋にこもりながら、どうかすると、先日まで五輪は予定通り開催といっていたことと、いまの自粛要請の言葉はどのように関連しているかを思った。

この段階でまだ東京五輪についてグズグスいっているのかと批判を受けそうだけれど、しかしもう昔の話というのであれば、三月二十日を過ぎてなお五輪通常開催をいっていたのは、感染症についての現状把握と見通しについての認識が劣っていたことの、水に流すというのであれば内省のできない指導者ということの証であろう。

小池都知事のことだけをいっているのではない。東京五輪の開催を言挙げしていたこの国の指導的立場にある方々の予定通り開催の主張と、延期決定のあとの考えはどうなっているのか。意地悪でいうのではなく、それぞれの段階で発せられているのは深く考えられたうえでの言葉か、定見なく発せられた刺激的で単純な言葉なのかの問題である。

 

春泥〜退職十年目の春に(関東大震災の文学誌 其ノ二十)

二0一一年三月十一日の東日本大震災、この月の末日で定年退職したからいま退職十年目がはじまったところである。

職業人としての双六の上がりに待ち受けていた思いもかけぬ事態に衝撃を受け、このかん折にふれて時間をさかのぼり関東大震災にかんする論文、評論、文学作品を読んできた。寺田寅彦水上瀧太郎岡本綺堂たちの作品に触れながら、史実、また震災がもたらした社会の変化の大きさを具体に知るとともに、東日本大震災と共通することがらからはかつての震災の歴史に学び、教訓として生かすことがどれほどむつかしいかを痛感した。それらのことどもを本ブログに「関東大震災の文学誌」と題して十九回にわたり書き継いだが、今回の二十回目でけじめをつけたく、本稿をその結び、あとがきとすることとした。

これまで取り上げていない震災にかんする作品として久保田万太郎「春泥」がある。震災後の役者風俗を描いた小説で、演劇界の変化の一端が知れる。

なかで一人が、高島屋が西洋から帰っていままでの芝居のしきたりを改良しようとしたのが明治四十一年、まずは芝居茶屋や出方を止して、チケット制を導入したがさっそくここでつまずき、そのあとも「帝国劇場といふものが出来て、茶屋も出方もつかはない、あたまで西洋式の切符制度といふことをやつてみせたのが明治四十四年」「時間もこのときはじめて外の芝居のやうに昼間明るいうちからでなく夕方あける」がこの夕方からの芝居も失敗に終わったと語る。

失敗したのには「結構だ、改良も。ーが、それぢやァ、まだ、いまの芝居は立ち行かない」「芝居の一ばん大切(だいじ)なお得意は花柳界……夜芝居ぢやァその一ばんの大切なお得意さまに都合が悪い」という事情があった。

高島屋は二代目市川左團次小山内薫たちと演劇改良運動を図ったが、いまのわたしたちには気がつきにくい芝居と花柳界との関係が頓挫をきたした一因となっていたようである。そしてこの慣行を古いものとしたのが関東大震災だった。

あるいは「これからは女優は……女の役は女がやらなくつちァいけない世の中が来てゐる」「いくらうまくつたつて女形は嘘だ」といったやりとりもみえている。ちなみに初代水谷八重子が新派にはじめて参加したのは一九二三年(大正十二年)、震災直後のことだった。

こうしてこの小説はわたしのような演劇とはまったく縁のない者にも社会と演劇との変化の具体相を示してくれている。

ところでわたしはこの作品に接するまで「春泥」という言葉を知らず、本書を通じて印象深い言葉となった。

春先は 雪解けの道が乾きにくく 、往来する人はしばしばぬかるみに煩わされる。そこからきた春泥は泥、また春に泥でぬかるんでいる道をいう。舗装の道が多くなり、そうした道にはなかなかめぐり会わなくなったけれど。

水原秋桜子編『俳句歳時記』の春泥の項には「泥濘にまで美を見いだしたのは俳人の功績であろう。実際 、春雨や春雪がやんだ後の泥濘は 、梅雨どきのそれのように人を難渋させるほどでもなく 、適度の柔らかさを持っていて 、泥の起伏が雨後の日ざしに複雑な光のあやを見せたりする 」とある。

春の泥の適度の柔らかさを示す佳句に「春泥がシューズの中で乾きをり』(麻里伊)があり、これが梅雨どきだと「乾きをり」とはなりにくい。

俳人により美を見いだされた泥濘だが、東日本大震災を機に被災地では泥濘と放射線が結びつくこととなった。

「どからへん問ふ線量や春の泥」(佐山哲郎

つまりわたしの退職とともに春泥はこの句にあるようにこれまでとは異なる様相を帯びた。春の泥に放射線量を意識しなければならなくなったのである。東京五輪招致にあたり線量の泥濘や汚染水を傍に、福島の放射線はアンダーコントロールのもとにあるとおっしゃった方がいたが、この句をでたらめというのだろうか。

そしていま新型コロナウイルスが世界に危機をもたらしている。わたしは心のどこかにあった二0一一年三月十一日の激震を超えるものは自分の人生にはもうないはずだといった気持が安易なものだったと思い知った。

職業人の双六の上がりからの十年目、これから先の双六の向かうところは人生の上がりにほかならない。人生双六の上がりをいつ、どんなふうに迎えるのか予測はつかないながら、現在なお終息のみえない新型コロナウイルスの惨禍以上のものは自分の人生にはもうないだろうとは思えないし、思ってもいない。

人間は自然を征服しようとして「重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物」をつくってきた。その成果として交通網やライフラインがあり、しかしこれが災害を大きくする要因でもあると寺田寅彦は説いた。

安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸であったが、次に起る『安政地震』には事情が違うということを忘れてはならない」、それらの設備が整うとともに「安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが次の場合にはそうは行かな」くなる。一箇所の破綻が全体に影響するのである。(『地震雑感/津波と人間 寺田寅彦随筆選集』中公文庫) 

安政地震と次の安政地震関東大震災)の関係を国際社会に拡大すると「各地の被害は各地それぞれの被害」では済まなくなったいまの感染症の問題に行き着く。国際化、世界のネットワーク化は人間、もの、サービス、経済の交流を活発にし、利便性を高めるとともに難儀と鎮魂をも世界規模とし、ネットワークに取り込んでいたのだった。

 

 

 

 

 

無用の人 雑感

「竹林に賢人面や春の暮」(藤田湘子)。

この句に寄せて江國滋が「近年、日本でもむやみやたらに『賢人会議』なるものが催されている。名づけるやつも名づけるやつだが、そんなネーミングの会議に、はずかしげもなくのこのこ出かけていく"賢人諸氏"に対する皮肉だと思えば、この句、いっそうおもしろい」と述べていて(『続微苦笑コレクション』)、そういえばむかしよく「賢人会議」なるネーミングがあったのを思い出した。そのあとに来たのが同工異曲のなんとか「サミット」だった。

主要国首脳会議、転じて団体、組織の責任者による会議に、首脳でも責任者でもない人々ものこのこ出かけておりまして、かくいうわたしも公務出張で出席したことがあった。

賢人会議に出席されていた諸氏もやがて心身に不調をきたすのは避けられず賢人介護の身にもなる。そのとき賢人はどうなさるのか不学のわたしとしてはぜひ学ばせていただきたい。

筒井康隆『老人の美学』に「仕事をしなくてすむ境遇になった人の仕事は、孤独に耐えることである」とあった。まずはここらあたりか。

「夏山恋う陰毛に白まじりても」(見學玄)。

おなじく『続微苦笑俳句コレクション』にある一句で、江國滋は「一読微苦笑、再読しみじみ、三読肅然として襟を正したくなるような、味わいぶかい句でありますなあ」とコメントしている。

作者八十歳を超えてからの作で、八十には十年ほど間のあるわたしだが気になるところではある。鬢に白いものが混じって老けたなあと思ったのも束の間、髭がだんだんと白くなり、やがて鬢の白髪は上方に向かい、頂上のほうは白髪とは別に抜毛現象が活発化してなお進行中である。五十代で、風呂からあがり鏡をみるとわずかな胸毛に白いものが混じっていたのも衝撃だったな。

そこで「夏山恋う陰毛に白まじりても」だが、陰毛のあたりについてはもっぱら機能ばかりが気になり、白い陰毛は意識になかったが一句を読むとそうとばかりはいっていられず、昨日シャワーで精査してみた。結果は、ウフフ……。

          □

新型コロナウィルスの影響で三月一日の東京マラソンはエリートランナーのみの出走となり、一般参加者は残念なことになった。ことし落選だったわたしは当日にボランティアをする予定だったがこれもなし。走れなかった一般参加者、ボランティアには来年参加する権利が付与されるがそうなるとわたしは来年も走れそうにない。

東京マラソンに落選したのですぐに三月十五日開催予定の板橋C i t yマラソンに申し込み、エントリーできたが、こちらも中止になった。

東京マラソン、板橋C i t yマラソンともに賢明な判断ではあるけれど気落ちは否めず、一気に無用の人になった感じだ。いや、もともと無用の人だから、ここに気落ちが加わったというべきだろう。

無用の人の現状をいえば、読書と長距離走の意欲は旺盛、他方エッセイやコラムを執筆する熱意はだらだら坂を下っている状態にあり、わがブログもいつまでもつものやら心もとない。

退職して自分で驚くほど増したのが酒と料理への関心で、それだけ心に余裕ができたということだろう。一日おきの晩酌の日は、夕刻が近づくにつれておつまみのことを思ったりして心が浮き浮きとなる。ほとんど精神的にはアルコール依存症で、酒食のたのしみの度合は高じるばかりだ。あくまで酒食であって酒色ではない。日本の、どんくさいわたしは若いときから酒と色とは反比例していて、酒を飲んで色にふけるなんて器用さはななかった。

もともと好きな割に量はたいしたことはなく、できれば隔日ではなく毎日飲みたいのだが、それを走る意欲、レースに出たい気持がコントロールしてくれている。

そのうち走れなくなる日が来れば、毎日飲むたのしみが待っているとみょうな期待をもっている。

「酔ふて寝てころりとさはやかに逝かれ」(伊佐利子)

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深夜の三時に児童相談所に助けを求めてやってきた子供を、面談もせずインターホン越しに警察へ行くようにといって職員が追い返したニュースに呆れ、怒った。無用の人だってときに怒りをこらえ切れないのだ。

いま裁判が行われている栗原心愛ちゃんのときも児相の対応が問題になった。いったいどういう職員を配置しているのか?熱心な職員もたくさんいるはずである。制度面とくに親権とのかねあいでやりにくい事情もあるだろう。しかし子供たちがないがしろにされた報道があるたび、いったいどんな人事をしているのかといいたくなる。インターホン越しに子供を追い返した職員は他の部署でも問題のある人にちがいなく、そうした職員を児相へ送っているのではないかと疑いたくなる。

(後日ある方から、当の職員は非常勤で雇われていると聞いた。それにしても!)

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二月二十六日。

「ざん濠で読む妹を売る手紙」。作者は鶴彬。

初出は二二六事件直前の昭和十一年(一九三六年)二月十五日刊の川柳誌「蒼空」三号、詠まれているのは「満州の野で、匪賊すなわち抗日パルチザンと戦う日本軍兵士たちの家郷、とりわけ凶作つづきの東北の疲弊ははげしく、村々の娘たちが女衒に買われてゆく。いうにいわれぬ苦衷」である。(小沢信男『俳句世がたり』)ちなみに中村隆英『昭和史I」によると、昭和六年の青森県で家庭貧窮のため子女の身売りをした者は二四二0名にのぼっている。

鶴彬はうえの句とともに「修身にない孝行で淫売婦」「もう売るものがなく組合旗だけ残り」「貞操と今取り換えた紙幣の色」の三句を寄せている。

四句のうち三句は貧しい農村から売春婦として買われてゆく女の姿のなかに二二六事件当時の世相をみつめていて、ここのところは「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに政財界の腐敗と農村の困窮の救済をめざした二二六事件の一部若手将校たちの時代認識と通じ合っている。治安維持法で二度投獄されたプロレタリア川柳の作者と二二六事件で決起した若手将校、二つの思いを汲む指導者の不在が痛恨の昭和史である。 

なお鶴彬は翌昭和十二年「手と足をもいだ丸太にしてかへし」ほかの反戦句を川柳誌にのせた廉により逮捕され、留置場で赤痢にかかり、豊多摩病院で昭和十三年九月十四日、二十九歳で歿した。

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「い~いのちからがら古里へ」「ろ~蝋燭欠乏月明り」「は~梁の下から人の声」「に~荷物に火がつき身もやかれ」いずれも関東大震災の折に売られていたいろはかるたにある。

いろはかるたは江戸時代後期にはじまったそうだ。「犬も歩けば棒に当たる」「論より証拠」「花より団子」などの戒めとユーモアは江戸人の遊び心と知恵で、いまはあまり聞かないけれど、関東大震災から、いろはかるたに飛ぶ発想法が当時は活きていたのだった。

そういえば昨年の夏、ある大学病院の行う認知症についての研究で治験者として脳のMRI検査を受けた。遺伝子検査もあり、なにか問題があればお知らせしましょうかとたずねられ、老爺になったいまになって遺伝子をいわれてもどうしようもないですからと丁重にお断りした。脳のMRI検査の結果もけっこうですというと、こちらは規定上お知らせしなければなりませんのでとの話だった。

そんなこと忘れていた年末に大学病院名が入った封筒が送られてきてドキッとした。開封すると、年齢相応(の、ボケ具合ということだろう)とあり、特段のことはなかったが腫瘍にチェックなどあればお正月気分は吹き飛んでいただろう。そこでいろはかるたの「知らぬが仏」が思い浮かんだのだった。

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三月十三日。

ゴジラ」第一作が封切られたのは一九五四年(昭和二十九年)十一月三日だった。映画のなかで東京湾の外側に設定された大戸島にゴジラが姿をみせたのがきょう三月十三日で、この直後に東京へ上陸した。第五福竜丸ビキニ環礁で米軍の水爆実験により「死の灰」を浴びたのが三月一日、焼津港へ帰港したのが三月十四日だった。

ゴジラが東京を襲ったのは水爆実験により突然目を覚ましたためだった。本来ならアメリカを襲うべきだったと思うが、いずれにせよ事件と映画とは連動していた。

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この日、根津神社の裏門坂に辛夷の花が咲いているのをみて、新型コロナウイルス禍のなかにあって、ことしは例年以上に心の洗われる度合が増したような気がした。阪神淡路大震災のとき、皇室から送られてきた花々が被災者を癒す最高の贈り物だったと聞いた。厳しい事態のなかにあって花の力は強い。そういえば辛夷って公害に凄く強い木なんですって。

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週刊新潮」連載の五木寛之「生き抜くヒント!」に「老後は世のため人のため、ということで社会貢献を志ざす高齢者も少なくない。その志たるや壮なりと感動するのだが、老人の社会貢献の大事なことは、世間に迷惑をかけないことだ。そのためには自分が転ばないことが一番ではないだろうか」とあった。(2020/2/13号)

五木さんは、中年以降の世代にとっての三悪は必ずしも癌や心臓発作ではなく「失禁・転倒・誤嚥」でスリーアウトだという。いずれも病院とは関係ないところで起こりやすく、そのため氏は、転倒、骨折、寝たきり、介護の防止のため杖をつくことにしたという。小説は読んだことはないが、高僧のありがたい説教のようだ。

転倒については日本転倒予防学会主催の川柳コンクールがあり、ジャンルとして「転倒川柳」と名付けられている。

「あがらない年金こづかいつま先が」(静岡県石川芳裕)

「つまづいたむかしは恋でいま段差」(長崎県 福島洋子)。

恋につまづいたのは今は昔、段差につまづき、上がらないつま先に乏しい年金を思いながら人の世を生きる人生のたそがれである。

国に目をやるとわが日本は戦争でつまづき、原発でつまづいた。東京大空襲が三月十日、東日本大震災が三月十一日で並ぶ。そしていまは森友学園加計学園桜を見る会、東京高検検事長の定年延長など虚偽にまみれた政治でつまづいている。

民撰議院設立建白書」(明治七年)は「政令百端、朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ」と有司専制を批判する。出したり引っ込めたり、情実愛憎による権力の分配と便宜供与、腰の定まらぬ政府の批判はあるが嘘まみれを批判する文言はない。

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「様々な人が通つて日が暮れる」(武玉川)

盆暮れ正月、大型連休、羽田に成田に関空に人があふれ、ディズニーランドは混雑し、高速道路は大渋滞。これらの時期にはお出かけを避ける年金生活者は、皆さん大変だなあと同情することはあっても、これが日本のしあわせだとは思わなかった。つい昨日までは。

ところが新型コロナウイルスで世の中が暗転してあの混雑がしあわせな光景と映るようになった。

「古くからの、よく知られている悪のほうが、新しくて未経験の悪よりも、いつだって我慢できるものなのだ」。

なにげなくノートしておいたモンテーニュの言葉で、新しい病気の不気味を述べたものではないが、ニュースのたびに新型、新型と聞くようになって病気についてもそうかもしれないと思う。

新しい病気には多くのばあい新しい医療が求められる。そして医療の歴史には不老不死を願った秦の始皇帝の昔から「新型コロナウイルスは二十六~二十七度で死滅する、ウイルス対策にはお湯を飲むと効果的」にいたるまでデマとインチキが詰まっている。生きたいという切実な願いが藁をもつかむ気にさせるからデマ、インチキとわかるのは多くは後の世となる。いっぽうで試行錯誤のないところに新しい治療はないとも思う。

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長年にわたり公立高校で社会科(地歴公民科)の教員として勤務したにもかかわらず一度も日本史を担当することなく二0一一年三月に定年を迎えた。せめて勉強はしておかなくてはと半藤一利『幕末史』(新潮文庫)を読み、続いて『昭和史』(平凡社)に進んだところ、現下の問題につながる昭和史の教訓があった。

その一。

敗戦直前、ソ連満洲に攻め込んでくることが目に見えているのに、政府、軍部の主だった連中は、攻め込まれたくない、いま来られると困ると思い、さらには、攻めてこない、大丈夫、ソ連は中立を守ってくれると勝手に思い込み、自分の望ましいほうに考えていた。開戦をめぐっては「どこにも根拠がないのに『大丈夫、勝てる』だの『大丈夫、アメリカは合意する』だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です」と半藤氏はいう。

東京五輪組織委員会森喜朗会長は新型コロナによるオリンピックの延期について「ありえないと思う」と強調した。何を根拠にいっているのだろう。

その二。

軍内部の権力構造は「陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めない」というものだった。

政府のクィーンエリザベス号での新型コロナへの対応を批判した神戸大の感染症を専門とする先生になんとかという副大臣がムキになって反論していた。どちらが正しいのかわたしは判断できないけれど、専門家の意見には耳を傾け、検討の素材にすべきで、「どんな貴重な情報を得てこようが、一切認めない」では困りものだ。批評や批判のないところには進歩もない。

 

不要不急の外出を控える日をまえに

危機管理の要諦ははじめにドーンと大きく厳しい網をかけて、改善したところから緩めることにある。小池東京都知事はこの週末二十八日と二十九日に不要不急の外出を控えるよう都民に要請した。大きく厳しい網である。

次が個々の問題で、わたしのばあいだと日課としている上野公園でのジョギングで、さいわいOKとのことだった。これをジョギングの可否といったところから不要不急の外出を協議するとなるとまとまる話もまとまらない。

危機にあって経済対策も例外ではない。米国トランプ政権は新型コロナウイルスの感染拡大による経済への影響を和らげるため総額二兆ドル(二百二十兆円)にのぼる大型予算を計画し、議会で成立するはこびとなった。

安倍政権も緊急経済対策として国の財政支出リーマン・ショック後の対策の十五兆円を上回る金額とし、民間支出も含めた事業規模を三十兆円超にする方向で調整に入っているという。それはけっこうだけれど、富裕層はどうする、現金給付か商品券かなどの問題をあれこれ議論しているようで米国にくらべてずいぶんのんびりしている感は否めない。そうしてこの段階で和牛商品券だ、いや高級魚介類商品券だ、コロナウイルス禍が収束した際の旅行補助券はいくらがよろしいか、なんて騒いでいる国会のほうの先生方の季節外れの奮闘ぶりもニュースになっている。なんだか公園でのジョギングの可否から不要不急の外出を協議しているみたいだ。

ギリシアの哲学者クセノクラテスがずいぶん年老いてからも熱心に学校の勉強をしているのを見て、ある人が「いまだに学習しているなんて、この人は、いつになったら知恵がつくのだろう」といったとか。和牛や魚介類の商品券の先生方はいまだに経済対策の学習をされているのか、あるいは知恵はあっても商品券第一で失業者や中小企業の資金繰りの問題は二の次らしい。