春泥〜退職十年目の春に(関東大震災の文学誌 其ノ二十)

二0一一年三月十一日の東日本大震災、この月の末日で定年退職したからいま退職十年目がはじまったところである。

職業人としての双六の上がりに待ち受けていた思いもかけぬ事態に衝撃を受け、このかん折にふれて時間をさかのぼり関東大震災にかんする論文、評論、文学作品を読んできた。寺田寅彦水上瀧太郎岡本綺堂たちの作品に触れながら、史実、また震災がもたらした社会の変化の大きさを具体に知るとともに、東日本大震災と共通することがらからはかつての震災の歴史に学び、教訓として生かすことがどれほどむつかしいかを痛感した。それらのことどもを本ブログに「関東大震災の文学誌」と題して十九回にわたり書き継いだが、今回の二十回目でけじめをつけたく、本稿をその結び、あとがきとすることとした。

これまで取り上げていない震災にかんする作品として久保田万太郎「春泥」がある。震災後の役者風俗を描いた小説で、演劇界の変化の一端が知れる。

なかで一人が、高島屋が西洋から帰っていままでの芝居のしきたりを改良しようとしたのが明治四十一年、まずは芝居茶屋や出方を止して、チケット制を導入したがさっそくここでつまずき、そのあとも「帝国劇場といふものが出来て、茶屋も出方もつかはない、あたまで西洋式の切符制度といふことをやつてみせたのが明治四十四年」「時間もこのときはじめて外の芝居のやうに昼間明るいうちからでなく夕方あける」がこの夕方からの芝居も失敗に終わったと語る。

失敗したのには「結構だ、改良も。ーが、それぢやァ、まだ、いまの芝居は立ち行かない」「芝居の一ばん大切(だいじ)なお得意は花柳界……夜芝居ぢやァその一ばんの大切なお得意さまに都合が悪い」という事情があった。

高島屋は二代目市川左團次小山内薫たちと演劇改良運動を図ったが、いまのわたしたちには気がつきにくい芝居と花柳界との関係が頓挫をきたした一因となっていたようである。そしてこの慣行を古いものとしたのが関東大震災だった。

あるいは「これからは女優は……女の役は女がやらなくつちァいけない世の中が来てゐる」「いくらうまくつたつて女形は嘘だ」といったやりとりもみえている。ちなみに初代水谷八重子が新派にはじめて参加したのは一九二三年(大正十二年)、震災直後のことだった。

こうしてこの小説はわたしのような演劇とはまったく縁のない者にも社会と演劇との変化の具体相を示してくれている。

ところでわたしはこの作品に接するまで「春泥」という言葉を知らず、本書を通じて印象深い言葉となった。

春先は 雪解けの道が乾きにくく 、往来する人はしばしばぬかるみに煩わされる。そこからきた春泥は泥、また春に泥でぬかるんでいる道をいう。舗装の道が多くなり、そうした道にはなかなかめぐり会わなくなったけれど。

水原秋桜子編『俳句歳時記』の春泥の項には「泥濘にまで美を見いだしたのは俳人の功績であろう。実際 、春雨や春雪がやんだ後の泥濘は 、梅雨どきのそれのように人を難渋させるほどでもなく 、適度の柔らかさを持っていて 、泥の起伏が雨後の日ざしに複雑な光のあやを見せたりする 」とある。

春の泥の適度の柔らかさを示す佳句に「春泥がシューズの中で乾きをり』(麻里伊)があり、これが梅雨どきだと「乾きをり」とはなりにくい。

俳人により美を見いだされた泥濘だが、東日本大震災を機に被災地では泥濘と放射線が結びつくこととなった。

「どからへん問ふ線量や春の泥」(佐山哲郎

つまりわたしの退職とともに春泥はこの句にあるようにこれまでとは異なる様相を帯びた。春の泥に放射線量を意識しなければならなくなったのである。東京五輪招致にあたり線量の泥濘や汚染水を傍に、福島の放射線はアンダーコントロールのもとにあるとおっしゃった方がいたが、この句をでたらめというのだろうか。

そしていま新型コロナウイルスが世界に危機をもたらしている。わたしは心のどこかにあった二0一一年三月十一日の激震を超えるものは自分の人生にはもうないはずだといった気持が安易なものだったと思い知った。

職業人の双六の上がりからの十年目、これから先の双六の向かうところは人生の上がりにほかならない。人生双六の上がりをいつ、どんなふうに迎えるのか予測はつかないながら、現在なお終息のみえない新型コロナウイルスの惨禍以上のものは自分の人生にはもうないだろうとは思えないし、思ってもいない。

人間は自然を征服しようとして「重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物」をつくってきた。その成果として交通網やライフラインがあり、しかしこれが災害を大きくする要因でもあると寺田寅彦は説いた。

安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸であったが、次に起る『安政地震』には事情が違うということを忘れてはならない」、それらの設備が整うとともに「安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが次の場合にはそうは行かな」くなる。一箇所の破綻が全体に影響するのである。(『地震雑感/津波と人間 寺田寅彦随筆選集』中公文庫) 

安政地震と次の安政地震関東大震災)の関係を国際社会に拡大すると「各地の被害は各地それぞれの被害」では済まなくなったいまの感染症の問題に行き着く。国際化、世界のネットワーク化は人間、もの、サービス、経済の交流を活発にし、利便性を高めるとともに難儀と鎮魂をも世界規模とし、ネットワークに取り込んでいたのだった。