「侍ニッポン」

昭和戦前の貧困層、負け組の心情をうたった最高傑作として昭和十二年(一九三七年)に上原敏と結城道子のデュエットでヒットした「裏町人生」を推す。よろしければ本ブログ二0一八年十二月六日の記事「裏町人生」を参照してみてください。

貧乏・負け組歌謡時代劇篇としては「侍ニッポン」と「大利根月夜」が甲乙つけ難い名曲で、前者は新納鶴千代、後者は平手造酒をうたっていて、ともに幕末の落ちこぼれ浪人の苦悩と悲哀が漂う。

ここで話題にするのは昭和六年徳山璉(たまき)が歌って大ヒットした「侍ニッポン」(作詞:西條八十、 作曲:松平信博)のほうで、新納鶴千代、もともとは郡司次郎正の小説『侍ニッポン』の主人公である。

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「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ」とか「昨日勤王明日は佐幕/その日その日の出来ごころ」といった零落と彷徨の歌詞でありながら、曲想はマーチふうの勇ましいもので、そのコラボレーションがかえって哀切感を漂わせている。

残念ながら原作、映画(五回映画化されている)ともに未読、未見、しかも映画化のたびに原作に手が加えられ、改変されているそうだからストーリーは紹介しにくいが、大まかなところをまとめてみると……新納鶴千代は水戸浪士の尊王攘夷思想に共感しながら、その激しい行動には納得しきれず悩んでいる。ある日、彼は自身が大老井伊直弼の妾腹の子であると知り、そのことを察知した仲間の水戸浪士からは疑惑の目でみられ、いっぽう父直弼からは開国の必要とこの国の進路を説かれ、攘夷の信念は揺らぐ。勤王と佐幕のあいだをさまよいながら迎えたのが雪の桜田門外での大老暗殺の日だった、といったふうになる。

新納鶴千代には思想的には共鳴しながらも過激な行動にはついていけない左翼青年の心情、また特高警察の取り締まりで余儀なく転向者となった冷笑と自己憐憫ー「どうせおいらは裏切り者よ」ーが投影されていて、小説と歌がヒットした背景には昭和初期の社会心理が作用していた。

なおオリジナルバージョンの徳山璉は新納鶴千代をシンノウツルチヨとしているが、本来はニイノウツルチヨだった、(春日八郎のカバーはニイノウと直してある)、いやいやニイノもあやまりでニイロ(旧かなだとニヒロ)が正しいとの説があり、わたしはいずれとも決められないけれど、昭和十七年に三十八歳で早逝した徳山璉にオマージュを捧げる意味で、シンノウでよいと思っている。それにしても創作上の人物の姓が定まらないのはどうしてか。初出のテキストにあたればルビが付されているのではないか。

ところでこの曲の歌詞は四番まであって「泣いて笑って鯉口切れば/江戸の桜田雪が降る」で結ばれる。ところが先日読んだ半藤一利『B面昭和史』(平凡社)に「侍ニッポン」は四番までとされるがじつは七番まであるという驚きの話があった。

半藤氏によると「侍ニッポン」のレコードはA面を徳山璉が、B面を「祇園小唄」の藤本二三吉姐さんが歌っているというのだ。とすればいま広く知られる徳山璉盤は四番までの不完全版ということになるではないか。困ったことに半藤氏はさほど流行歌に関心はなさそうで、「事情通」から聞いた話としたうえでその先は追求しておられず、藤本二三吉がうたった歌詞の一部「恋と意気地の死骸(むくろ)の上に、降るは昔の江戸の雪……」を書くにとどめている。

せめて藤本二三吉パートの歌詞だけでも知りたくネットで探してみたけれどかすりもしなかった。ひょっとすると「事情通」氏のつくり話かもしれず、いまのところ真偽いずれか判断がつかない。

YouTubeではSP盤レコードA面の「侍ニッポン」が回る映像とともに徳山璉の歌が聞ける。晩酌をしながらときには口ずさんでいたのに『B面昭和史』を読んでからは、レコードをひっくり返せない悔しさがつのる。どなたかご存知の方があればご教示ください。