東京五輪延期狂想曲

東京五輪について国際オリンピック委員会IOC)、日本側ともに予定通りの開催を繰り返し強調していたのに、各国オリンピック委員会や競技団体、選手から延期を求める声の噴出をうけて急遽三月二十四日、一年程度の延期と決まった。

三日前の三月二十一日、ネット上のニュースに、IOCの渡辺守成委員が、日刊スポーツの取材に応じ、新型コロナウイルスの感染拡大で通常開催の是非が問われている東京オリンピックについて「五割強の選手が代表に内定している中、アスリートファーストの観点から通常開催を目指すべきだ」と答えたとの記事があった。

渡辺氏は「延期や中止はいつでも決断できるが、決定してしまったら後戻りできない。ブレたら非常に複雑な状況になる。ここは選手を最優先に考え、進めないといけない」とも述べていた。

いま通常開催に突っ走るのはけっこう勇気ある発言であり、感染症の行方に関わらずブレたらダメというのなら凄いことだ。翌二十二日にはキックボクシング団体「K-1」による大規模イベントが西村経済再生担当大臣と埼玉県の自粛要請を拒否して開催された。批判の声は大きかったが、オリンピックがブレたらダメなら「K-1」もおなじだろうと思った。

通常開催に越したことはなく、しかしそれと通常開催絶対主義、原理主義とは異なる。そこであくまで通常開催をいうときはぜひとも「感染症がどれだけ広がろうとも」を付けてものをいってほしい、賛成はしないが覚悟のほどは理解する。

といったことをつぶやいていたら、二十四日になって事態は急転した。新型コロナウイルスは高齢者にきつく、このままオリンピックに突入するとなると大会期間中とその前後は地方の実家で世話になろうかと考えていたからとりあえずわたしの危機は回避された。

延期措置は納税者にまたまた負担を強いるが、生命と健康には代えられない。一年後の日本と世界が「様々な人が通つて日が暮れる」(武玉川)ようになってオリンピックを迎えたい。

そこで先日まで通常開催をいっていた方々の言動が気になった。

延期を決めた翌日だったかIOCのバッハ会長はNHKのインタビューで、これまで日本がほんとうに開催できるのかを検討してきて十分できると見極めがついた、つぎに諸外国の人たちは日本にやって来られるだろうかの問題に移ったが、これが難しく延期にいたったと語っていた。こういうのを取って付けた理屈(にもなっていないけれど)というのだろう。感染者、死亡者の増加のニュースに毎日接しながら、ここまで通常開催にこだわる神経は異様だ。

東京都で新型コロナウイルス感染者が出ても、他の知事とはちがい自身ではアナウンスしてこなかった小池百合子東京都知事が、三月二十三日に感染の拡大防止策として「首都封鎖」の可能性に言及した。あらゆる可能性、想定外のことを想定して備えることは為政者の条件である。よくわからないのは、この方もこれまでずっとオリンピックを予定通り実施するとおっしゃっていた。首都封鎖も考えられる状況で通常開催するなどとよくいえたものだ。延期に決まったから、どうれと、コロナウイルスのほうに移って来られたのだろうか。

そして真打は東京オリンピック組織委員会森喜朗会長で、つい先日、オリンピック延期論を述べた同委員会の理事を、とんでもないことをおっしゃると譴責していたのが、延期が決まったあとのインタビューでは、「今日の状況を見ると、国際情勢は変化して、まだ予断を許さない。欧州や米国など異常な事態になっている地域もある。いろんな(延期や中止を求める)声があるのに『最初の通り、やるんだ』というほど我々は愚かではない」などと語っていた。延期を口にした人を叱り飛ばして「最初の通り、やるんだ」といっていたのはあんたじゃないか。

ここまで予定通りの実施にこだわった人は、信念に殉ずるか、これまでとってきた態度と認識の誤ちを詫びるべきだ。信念が貫けないなら辞任して筋を通せ、組織委員会IOCと縁を切って通常開催に向かえ、日本には国際連盟を脱退した輝かしい歴史だってあるぞと、からかいたくなるのも真打ゆえである。

ここまで四百字詰め原稿用紙にすると四枚ほど。じつにスラスラと書けた。人の悪口というのは筆が進むものです。

でも悪口ばかりだと気がひけるから拍手した事例も書いておこう。それはJOC理事で一九八八年のソウル五輪柔道女子銅メダリストの山口香氏が「アスリートが十分に練習できていない現状では(東京五輪は)延期すべきだ」と明確に語ったこと。以前に女子柔道強化選手への暴力事件についての発言からわたしはその見識と勇気に敬意をいだいてい、またこの人がたんに「一服の清涼剤」的な存在であってはならないと思っていた。

山口さんの発言をうけてJOC山下泰裕会長は「さまざまな意見があることは理解しているが、みんなで力を尽くしている時にJOCの中から一個人の発言であっても、きわめて残念な発言」などと語っていて、会長みずからがJOCの閉鎖的な組織体質を暴露していた。首都封鎖ならぬ言論封鎖で、いずれがJOCの会長にふさわしいかはおのずと明らかだろう。

江戸時代の儒学者荻生徂徠は、炒り豆をかじりながら人の悪口をいうのが大好きだった。きょうは先生を見習って悪口の日にしました。

(追記) 

四月五日都内で新型コロナウイルス感染者がこれまで最高の百四十三人にのぼったと報道があった。小池都知事は会見で驚くべき数字だと述べていたが、専門家がこうした事態を予測、指摘していたのになおオリンピックは予定通り開催するといっていたこともわたしには驚くべきことだった。

この日、外出自粛で部屋にこもりながら、どうかすると、先日まで五輪は予定通り開催といっていたことと、いまの自粛要請の言葉はどのように関連しているかを思った。

この段階でまだ東京五輪についてグズグスいっているのかと批判を受けそうだけれど、しかしもう昔の話というのであれば、三月二十日を過ぎてなお五輪通常開催をいっていたのは、感染症についての現状把握と見通しについての認識が劣っていたことの、水に流すというのであれば内省のできない指導者ということの証であろう。

小池都知事のことだけをいっているのではない。東京五輪の開催を言挙げしていたこの国の指導的立場にある方々の予定通り開催の主張と、延期決定のあとの考えはどうなっているのか。意地悪でいうのではなく、それぞれの段階で発せられているのは深く考えられたうえでの言葉か、定見なく発せられた刺激的で単純な言葉なのかの問題である。