無用の人 雑感

「竹林に賢人面や春の暮」(藤田湘子)。

この句に寄せて江國滋が「近年、日本でもむやみやたらに『賢人会議』なるものが催されている。名づけるやつも名づけるやつだが、そんなネーミングの会議に、はずかしげもなくのこのこ出かけていく"賢人諸氏"に対する皮肉だと思えば、この句、いっそうおもしろい」と述べていて(『続微苦笑コレクション』)、そういえばむかしよく「賢人会議」なるネーミングがあったのを思い出した。そのあとに来たのが同工異曲のなんとか「サミット」だった。

主要国首脳会議、転じて団体、組織の責任者による会議に、首脳でも責任者でもない人々ものこのこ出かけておりまして、かくいうわたしも公務出張で出席したことがあった。

賢人会議に出席されていた諸氏もやがて心身に不調をきたすのは避けられず賢人介護の身にもなる。そのとき賢人はどうなさるのか不学のわたしとしてはぜひ学ばせていただきたい。

筒井康隆『老人の美学』に「仕事をしなくてすむ境遇になった人の仕事は、孤独に耐えることである」とあった。まずはここらあたりか。

「夏山恋う陰毛に白まじりても」(見學玄)。

おなじく『続微苦笑俳句コレクション』にある一句で、江國滋は「一読微苦笑、再読しみじみ、三読肅然として襟を正したくなるような、味わいぶかい句でありますなあ」とコメントしている。

作者八十歳を超えてからの作で、八十には十年ほど間のあるわたしだが気になるところではある。鬢に白いものが混じって老けたなあと思ったのも束の間、髭がだんだんと白くなり、やがて鬢の白髪は上方に向かい、頂上のほうは白髪とは別に抜毛現象が活発化してなお進行中である。五十代で、風呂からあがり鏡をみるとわずかな胸毛に白いものが混じっていたのも衝撃だったな。

そこで「夏山恋う陰毛に白まじりても」だが、陰毛のあたりについてはもっぱら機能ばかりが気になり、白い陰毛は意識になかったが一句を読むとそうとばかりはいっていられず、昨日シャワーで精査してみた。結果は、ウフフ……。

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新型コロナウィルスの影響で三月一日の東京マラソンはエリートランナーのみの出走となり、一般参加者は残念なことになった。ことし落選だったわたしは当日にボランティアをする予定だったがこれもなし。走れなかった一般参加者、ボランティアには来年参加する権利が付与されるがそうなるとわたしは来年も走れそうにない。

東京マラソンに落選したのですぐに三月十五日開催予定の板橋C i t yマラソンに申し込み、エントリーできたが、こちらも中止になった。

東京マラソン、板橋C i t yマラソンともに賢明な判断ではあるけれど気落ちは否めず、一気に無用の人になった感じだ。いや、もともと無用の人だから、ここに気落ちが加わったというべきだろう。

無用の人の現状をいえば、読書と長距離走の意欲は旺盛、他方エッセイやコラムを執筆する熱意はだらだら坂を下っている状態にあり、わがブログもいつまでもつものやら心もとない。

退職して自分で驚くほど増したのが酒と料理への関心で、それだけ心に余裕ができたということだろう。一日おきの晩酌の日は、夕刻が近づくにつれておつまみのことを思ったりして心が浮き浮きとなる。ほとんど精神的にはアルコール依存症で、酒食のたのしみの度合は高じるばかりだ。あくまで酒食であって酒色ではない。日本の、どんくさいわたしは若いときから酒と色とは反比例していて、酒を飲んで色にふけるなんて器用さはななかった。

もともと好きな割に量はたいしたことはなく、できれば隔日ではなく毎日飲みたいのだが、それを走る意欲、レースに出たい気持がコントロールしてくれている。

そのうち走れなくなる日が来れば、毎日飲むたのしみが待っているとみょうな期待をもっている。

「酔ふて寝てころりとさはやかに逝かれ」(伊佐利子)

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深夜の三時に児童相談所に助けを求めてやってきた子供を、面談もせずインターホン越しに警察へ行くようにといって職員が追い返したニュースに呆れ、怒った。無用の人だってときに怒りをこらえ切れないのだ。

いま裁判が行われている栗原心愛ちゃんのときも児相の対応が問題になった。いったいどういう職員を配置しているのか?熱心な職員もたくさんいるはずである。制度面とくに親権とのかねあいでやりにくい事情もあるだろう。しかし子供たちがないがしろにされた報道があるたび、いったいどんな人事をしているのかといいたくなる。インターホン越しに子供を追い返した職員は他の部署でも問題のある人にちがいなく、そうした職員を児相へ送っているのではないかと疑いたくなる。

(後日ある方から、当の職員は非常勤で雇われていると聞いた。それにしても!)

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二月二十六日。

「ざん濠で読む妹を売る手紙」。作者は鶴彬。

初出は二二六事件直前の昭和十一年(一九三六年)二月十五日刊の川柳誌「蒼空」三号、詠まれているのは「満州の野で、匪賊すなわち抗日パルチザンと戦う日本軍兵士たちの家郷、とりわけ凶作つづきの東北の疲弊ははげしく、村々の娘たちが女衒に買われてゆく。いうにいわれぬ苦衷」である。(小沢信男『俳句世がたり』)ちなみに中村隆英『昭和史I」によると、昭和六年の青森県で家庭貧窮のため子女の身売りをした者は二四二0名にのぼっている。

鶴彬はうえの句とともに「修身にない孝行で淫売婦」「もう売るものがなく組合旗だけ残り」「貞操と今取り換えた紙幣の色」の三句を寄せている。

四句のうち三句は貧しい農村から売春婦として買われてゆく女の姿のなかに二二六事件当時の世相をみつめていて、ここのところは「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに政財界の腐敗と農村の困窮の救済をめざした二二六事件の一部若手将校たちの時代認識と通じ合っている。治安維持法で二度投獄されたプロレタリア川柳の作者と二二六事件で決起した若手将校、二つの思いを汲む指導者の不在が痛恨の昭和史である。 

なお鶴彬は翌昭和十二年「手と足をもいだ丸太にしてかへし」ほかの反戦句を川柳誌にのせた廉により逮捕され、留置場で赤痢にかかり、豊多摩病院で昭和十三年九月十四日、二十九歳で歿した。

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「い~いのちからがら古里へ」「ろ~蝋燭欠乏月明り」「は~梁の下から人の声」「に~荷物に火がつき身もやかれ」いずれも関東大震災の折に売られていたいろはかるたにある。

いろはかるたは江戸時代後期にはじまったそうだ。「犬も歩けば棒に当たる」「論より証拠」「花より団子」などの戒めとユーモアは江戸人の遊び心と知恵で、いまはあまり聞かないけれど、関東大震災から、いろはかるたに飛ぶ発想法が当時は活きていたのだった。

そういえば昨年の夏、ある大学病院の行う認知症についての研究で治験者として脳のMRI検査を受けた。遺伝子検査もあり、なにか問題があればお知らせしましょうかとたずねられ、老爺になったいまになって遺伝子をいわれてもどうしようもないですからと丁重にお断りした。脳のMRI検査の結果もけっこうですというと、こちらは規定上お知らせしなければなりませんのでとの話だった。

そんなこと忘れていた年末に大学病院名が入った封筒が送られてきてドキッとした。開封すると、年齢相応(の、ボケ具合ということだろう)とあり、特段のことはなかったが腫瘍にチェックなどあればお正月気分は吹き飛んでいただろう。そこでいろはかるたの「知らぬが仏」が思い浮かんだのだった。

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三月十三日。

ゴジラ」第一作が封切られたのは一九五四年(昭和二十九年)十一月三日だった。映画のなかで東京湾の外側に設定された大戸島にゴジラが姿をみせたのがきょう三月十三日で、この直後に東京へ上陸した。第五福竜丸ビキニ環礁で米軍の水爆実験により「死の灰」を浴びたのが三月一日、焼津港へ帰港したのが三月十四日だった。

ゴジラが東京を襲ったのは水爆実験により突然目を覚ましたためだった。本来ならアメリカを襲うべきだったと思うが、いずれにせよ事件と映画とは連動していた。

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この日、根津神社の裏門坂に辛夷の花が咲いているのをみて、新型コロナウイルス禍のなかにあって、ことしは例年以上に心の洗われる度合が増したような気がした。阪神淡路大震災のとき、皇室から送られてきた花々が被災者を癒す最高の贈り物だったと聞いた。厳しい事態のなかにあって花の力は強い。そういえば辛夷って公害に凄く強い木なんですって。

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週刊新潮」連載の五木寛之「生き抜くヒント!」に「老後は世のため人のため、ということで社会貢献を志ざす高齢者も少なくない。その志たるや壮なりと感動するのだが、老人の社会貢献の大事なことは、世間に迷惑をかけないことだ。そのためには自分が転ばないことが一番ではないだろうか」とあった。(2020/2/13号)

五木さんは、中年以降の世代にとっての三悪は必ずしも癌や心臓発作ではなく「失禁・転倒・誤嚥」でスリーアウトだという。いずれも病院とは関係ないところで起こりやすく、そのため氏は、転倒、骨折、寝たきり、介護の防止のため杖をつくことにしたという。小説は読んだことはないが、高僧のありがたい説教のようだ。

転倒については日本転倒予防学会主催の川柳コンクールがあり、ジャンルとして「転倒川柳」と名付けられている。

「あがらない年金こづかいつま先が」(静岡県石川芳裕)

「つまづいたむかしは恋でいま段差」(長崎県 福島洋子)。

恋につまづいたのは今は昔、段差につまづき、上がらないつま先に乏しい年金を思いながら人の世を生きる人生のたそがれである。

国に目をやるとわが日本は戦争でつまづき、原発でつまづいた。東京大空襲が三月十日、東日本大震災が三月十一日で並ぶ。そしていまは森友学園加計学園桜を見る会、東京高検検事長の定年延長など虚偽にまみれた政治でつまづいている。

民撰議院設立建白書」(明治七年)は「政令百端、朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ」と有司専制を批判する。出したり引っ込めたり、情実愛憎による権力の分配と便宜供与、腰の定まらぬ政府の批判はあるが嘘まみれを批判する文言はない。

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「様々な人が通つて日が暮れる」(武玉川)

盆暮れ正月、大型連休、羽田に成田に関空に人があふれ、ディズニーランドは混雑し、高速道路は大渋滞。これらの時期にはお出かけを避ける年金生活者は、皆さん大変だなあと同情することはあっても、これが日本のしあわせだとは思わなかった。つい昨日までは。

ところが新型コロナウイルスで世の中が暗転してあの混雑がしあわせな光景と映るようになった。

「古くからの、よく知られている悪のほうが、新しくて未経験の悪よりも、いつだって我慢できるものなのだ」。

なにげなくノートしておいたモンテーニュの言葉で、新しい病気の不気味を述べたものではないが、ニュースのたびに新型、新型と聞くようになって病気についてもそうかもしれないと思う。

新しい病気には多くのばあい新しい医療が求められる。そして医療の歴史には不老不死を願った秦の始皇帝の昔から「新型コロナウイルスは二十六~二十七度で死滅する、ウイルス対策にはお湯を飲むと効果的」にいたるまでデマとインチキが詰まっている。生きたいという切実な願いが藁をもつかむ気にさせるからデマ、インチキとわかるのは多くは後の世となる。いっぽうで試行錯誤のないところに新しい治療はないとも思う。

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長年にわたり公立高校で社会科(地歴公民科)の教員として勤務したにもかかわらず一度も日本史を担当することなく二0一一年三月に定年を迎えた。せめて勉強はしておかなくてはと半藤一利『幕末史』(新潮文庫)を読み、続いて『昭和史』(平凡社)に進んだところ、現下の問題につながる昭和史の教訓があった。

その一。

敗戦直前、ソ連満洲に攻め込んでくることが目に見えているのに、政府、軍部の主だった連中は、攻め込まれたくない、いま来られると困ると思い、さらには、攻めてこない、大丈夫、ソ連は中立を守ってくれると勝手に思い込み、自分の望ましいほうに考えていた。開戦をめぐっては「どこにも根拠がないのに『大丈夫、勝てる』だの『大丈夫、アメリカは合意する』だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です」と半藤氏はいう。

東京五輪組織委員会森喜朗会長は新型コロナによるオリンピックの延期について「ありえないと思う」と強調した。何を根拠にいっているのだろう。

その二。

軍内部の権力構造は「陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めない」というものだった。

政府のクィーンエリザベス号での新型コロナへの対応を批判した神戸大の感染症を専門とする先生になんとかという副大臣がムキになって反論していた。どちらが正しいのかわたしは判断できないけれど、専門家の意見には耳を傾け、検討の素材にすべきで、「どんな貴重な情報を得てこようが、一切認めない」では困りものだ。批評や批判のないところには進歩もない。