「比翼床」

星新一に、明治の世相や風俗、ゴシップなどを新聞記事に探り、集め、時代の流れを追った『夜明けあと』(新潮文庫)という編年史の著作がある。

星一の生涯を描いた『明治・父・アメリカ』『人民は弱し官吏は強し』また母方の祖父で解剖学者、人類学者として著名な小金井良精の生涯をたどった『祖父・小金井良精の記』を執筆するなかで拾われた余滴を集めたものだ。いわば、星新一が独自の視点で明治という時代を眺めたユニークな年表にして雑学コレクションであり、森鴎外がヨーロッパの新聞記事から話題を提供した『椋鳥通信』の、明治日本版の趣きもある。そういえば小金井良精の妻、すなわち祖母は森鴎外の妹小金井喜美子だった。

その『夜明けあと』の明治三十三年(一九00年)の記事に「英国より寝台車を輸入。東海道線(読売)。」とあり、わが国の鉄道に寝台車が設けられたのはこの年のことだったと知れる。

寝台車と聞くと(寝台車の殺人というべきか)、わたしはアガサ・クリスティーオリエント急行殺人事件』とすぐに反応するので、寝台車の濫觴はこの鉄道かもしれないと調べてみたら、はじまりは米国で、一八三八年にアメリカのペンシルベニア州周辺の複数の鉄道会社が寝台車の運行を始めていた。

鉄道好きの作家の代表格に「阿房列車」シリーズの内田百閒(1889-1971)がいる。よくしたものでその随筆「寝台車」に、昔の二等寝台車にダブルベッドがあり「比翼床」と呼ばれていたとあった。

ここですこし漢文の授業の復習をしておきます。「比翼床」は「比翼連理」(二羽いっしょに空を飛ぶ鳥と、もともと二本なのに繋がってひとつになった木)から来ていて、ともに男女の睦まじさを表しています。中唐の詩人白居易の、玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋の物語「長恨歌」の一節には「天に在りては願はくは比翼の鳥と作り、地に在りては願はくは連理の枝と為らん」とあります。

内田百閒によると「私の思ひ出す汽車に二等寝台がついた当初は大変な人気であつた。下段三円五十銭上段二円五十銭、その外にタブルベツドがあつて四円五十銭であつた」。残念ながらこのダブルベッドがいつ日本の鉄道に設けられたかはわからないけれど、おそらく明治三十三年からさほど遠くない頃だっただろう。それにしても舌を巻くほどの素晴らしいネーミングで、百閒先生は名付けの主について「ダブルべツドの事を比翼床と云つたのは世間の命名でなく、事によると鉄道の方でさう云ふ宣伝をしたのかも知れない」と述べている。いずれにせよ明治の名コピーライターである。

しかし「比翼床」は長くは続かず、まもなく若い女が帯を締めずに通ったとか、洗面所から長襦袢の芸妓が出て来たといった話題から風俗壊乱の非難が起こり取りやめとなってしまった。ただダブルベッドはそのままに独寝のものとなり「大床」と呼ばれた。「比翼床」から「大床」へ、えらく無粋になったのだった。

ついでながら『夜明けあと』の明治二十年の記事が「比翼塚」に触れていて、「お寺の下宿営業に、禁止の通達(朝野)。 遊郭での心中者を、同じ墓に埋め、比翼塚など呼ぶと、まねするのが出る(読売)。」とあった。

「比翼床」「比翼塚」にまつわるエピソードを知る、こんなときだ、わたしが日本人としての自覚を深くするのは。気のきいた言葉、機知、滑稽、諧謔、そこから生まれる人びとの親しみと共感がうかがわれて嬉しくなる。

『夜明けあと』のあとがきで星新一は「徳川時代の長い鎖国のあと、文明開化の大変化。普通だと内乱状態だろうが、意外に平静で、ユーモアもある。落語を育てた社会の、つづきを感じる」と述べている。日本の社会が落語との親近性を末長く保つよう願ってやまない。

寺田寅彦『漱石先生』

寺田寅彦が熊本の第五高等学校に入学したのは一八九六年(明治二十九年)九月、おなじ年の四月に漱石は英語教師として着任していた。

昨年七月に中公文庫の一冊として刊行された寺田寅彦漱石先生』は、漱石とのつきあい、その素顔、作品、また正岡子規をはじめとする漱石の周囲にあった人びとについて寅彦が語ったエッセイ、座談などを編集した文庫オリジナル版で、漱石と寅彦のファンにとってまことに嬉しい企画だ。

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熊本第五高等学校二年生の学年末、寅彦は「運動委員」に選ばれてしまう。学年末試験をしくじった同県人の学生のために受持の先生方の私宅を訪ね、学資が続かないほどの窮状にあるから枉げて単位を与えてやってほしいと「運動」する委員である。これが二人の個人的な交際のはじまりとなった。

「運動」の結果はわからないが、寅彦はこのあと、かねてより俳人として知られていた漱石に「俳句とはどんなものですか」と質問をした。寅彦は「世にも愚劣なる質問」と書いているが、漱石はこれにしっかり答えた。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集中点を指摘し、描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並という。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句はよい句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」云々。

この話を聞いて寅彦は急に俳句がやってみたくなり、夏休みで高知に帰郷したさい二、三十句を作り、新学期に熊本に戻ったとき漱石に見てもらった。そうして次に漱石宅を訪れると、句稿には短評や類句が書き入れられたり、二、三の句の頭に○や○○が附けられていた。

やがて高等学校を卒業して大学へはいるとき、寅彦は漱石の紹介状を持ち病床にある正岡子規を訪ねた。漱石と寅彦の関係の深まりが見てとれるだろう。

吾輩は猫である』は漱石と寅彦の出会いから八年のちの一九0五年(明治三十八年)一月「ホトトギス」に掲載された。もともと連載は予定されていなかったが、好評につき書き継がれた。

『猫』の寒月君、また『三四郎』の野々宮先生は寅彦をモデルにしているという説がある。寅彦を追悼した高嶺俊夫「寅の日の追憶」で、著者が寅彦に『三四郎』の野々宮先生は寺田先生のことだという噂ですがと訊ねると、漱石はいろいろの人の特徴を取り集めるので必ずしも誰が誰とはいえない場合が多いが、大学の運動会に呼んだり、実験室を見せたりして材料の供給はしましたよと答えている。

なかでよく知られているのが『猫』にある寒月君の首縊りの話で、これについては寅彦自身「夏目漱石先生の追憶」で、学校に『フィロソフィカル・マガジン』という雑誌があり、なかにレヴェレンド・ハウトンという人の「首釣りの力学」を論じた珍しい論文があり、そこで、漱石に報告したところそれは面白いから見せろというので学校から借りてきて用立てたと述べている。

こんなふうに物理学者寺田寅彦の研究や興味関心は漱石の作品にずいぶん寄与したし、もちろんその逆のばあいもあった。

漱石の熊本時代の一句「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」を寅彦はのちに取りあげた。ある植物学者に、椿の花が仰向きに落ちるわけを誰か研究した人がいるかと聞いてみたが、多分いないだろう、花が樹にくっついているあいだは植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間からあとは問題にならぬという返事だった。しかし寅彦はここで済ませることなく、観察と実験を通して椿の花が落ちはじめるときは俯向きであっても空中で回転して仰向きになろうとする傾向があるのを見出している。

花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率などが作用していて、そのうえで「こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである」と述べている。(「思出草」)

ここにあるのはともすれば一方的になりがちな師弟関係ではなく、稀代の文学者と、自然科学者にして随筆家との切磋琢磨と実り豊かな交流で、本書はそこへの案内役となっている。ちなみに安倍能成は、漱石門下での寺田寅彦の扱いは「お客分格」で、夏目先生は若い者たちの美点と長所とを認められたけれども、寺田さんに対する尊敬は別であったと述べている。

漱石と寅彦との関係は俳句からはじまり、やがて漱石は『猫』で作家デビューをした。おのずと寅彦は作家以前を含めて漱石文学の立会人となった。漱石が亡くなったのは一九一六年(大正五年)十二月九日。そして昭和になって岩波書店が刊行した『漱石全集』第十三巻(昭和三年五月)の月報に寅彦は「夏目先生の俳句と漢詩」を寄せ、「夏目先生が未だ創作家としての先生を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処かの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の格好な一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった」「俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しかなったのも当然であろう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない」と見解を語った。

はじめての出会いで漱石が語ったように「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」だったのである。

  先生と話して居れば小春哉 寅彦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川の流れ

昨年、「カサブランカ」のシナリオを読み、感じたり気になったりしたこことを四回にわたり本ブログに書きとめた。その二回目「「カサブランカ」のシナリオから(二)~《A lot of water under the bridge.》」(2023/6/5)では、ナチスの侵攻をまえにパリで別れたリック(ハンフリー・ボガート)とイルザ(イングリッド・バーグマン)が一年後カサブランカでリックの経営する酒場で偶然再会するシーンを扱った。

イルザはリックとともにナチスを避けてパリを離れようとした寸前、ナチスに捕えられ、亡くなったと知らされていた夫で抵抗運動の闘士ヴィクター・ラズロがパリに帰還し、それをリックに告げることなく姿を消した。

失意のリックはパリを離れ、カサブランカで酒場を開く。その店ではリックの部下で、友人でもある黒人ピアニストのサムがピアノを弾いていて、イルザが男と二人連れで入店したのをいち早く目にした。イルザもサムに気がついていて、夫がレジスタンス運動の同志とカウンターで話をしているあいだに、ピアニストを呼んでもらえるかしら、とボーイに頼み、サムがやって来る。

「こんばんは、サム」

「こんばんは、ミス・イルザ。またお会いするとは思いもよりませんでした」

と挨拶を交わしたあとのやりとり。

《It’s been a long time.》「久しぶりね」

《Yes.ma’am.A lot of water under the bridge.》「ええ、いろいろなことがありました」

《A lot of water under the bridge.》は《A lot of water has flowed under the bridge.》の省略形で、このせりふにわたしはアポリネエル「ミラボオ橋」を思い出し、これを英文解釈の補助線とした。以下は堀口大學訳詩集『月下の一群』より。

ミラボオ橋の下をセエヌ川が流れ

われ等の恋が流れる

わたしは思ひだす

悩みのあとには楽しみが来ると

日が暮れて鐘が鳴る

月日は流れわたしは残る

わたしは「ええ、いろいろなことがありました」に「ミラボオ橋」を重ね、ロマンティックなセリフだなあ、と思った。 

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ところが最近になってマーク・ピーターセン『続 日本人の英語』(岩波新書1990年)を読んでいると、おなじところが取り上げられていて、そこにはこうあった。

サムは年月の経過や時代の推移、人生の変化などを川の流れにたとえており、”a lot of water “という表現で長いあいだ会っていないことを認めている。しかしそこにはもっと深い意味がある。

「橋の下の水が流れ去って二度とは戻らないのと同じように、『あれからいろいろ(”a lot of water “)あって、もう、あの時に戻れないぞ』という意味の方がむしろ強いのである」と。

サムのせりふに甘いロマンを感じたわたしの感じ方がここで大きく揺らいだ。

さらにマーク・ピーターセン氏は押してくる。

「サムが敬意を示す丁寧な“ Yes.ma’am,”につづいて“A lot of water under the bridge“をやわらかく、優しく発音するからこそ、その表現には独特の説得力があり、サム自身の人間的な勁さを魅力的に感じさせる」

サムは穏やかな表情、優しい口調で、イルザにたいへん厳しい内容を告げていたのである。この時点でサムはイルザとラズロの関係やそれぞれの事情は知らない。だからリックとの約束を反故にして去ったイルザが突然現れ、いま別室にいるリックにまたもや災厄をもたらすかもしれないとサムが不安に陥り、イルザに警戒心を抱いた可能性は十分考えられる。

マーク・ピーターセン氏の解釈はわたしの意表を衝くものであり、またしても英語の読解の難しさを痛感しなければならなかった。せめて「ミラボオ橋」とともに「方丈記」の冒頭「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」をも参考にすればもう少し「あれからいろいろ(”a lot of water “)あって、もう、あの時に戻れないぞ」に近づいていたかもしれない、といってもあとの祭りである。

外国語の学習に勘違いや誤解はつきものと開き直るつもりはないが、あまり嘆いて自分の学力に愛想がつきてしまうのもまずいので反省はここまでにしておく。

 

「笑いのカイブツ」

ことしはじめて映画館で観た「笑いのカイブツ」。2024初スクリーンでこの作品に出会えたのが嬉しく、また大いに刺激を受けました。

原作のツチヤタカユキ氏はこれまで知らない名前でしたが、この映画でさっそく原作を読んでみようという気になりました。わたしのような下流年金生活者が財布を開いて原作に手を伸ばすのですから、それを優れものの証明としたい。

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テレビの大喜利番組にネタを投稿する、そのために毎日ネタを考え続けて六年。 ツチヤタカユキ(岡山天音)はようやく実力が認められ、お笑い劇場の作家見習として業界に足を踏み入れたのはよかったのですが、お笑いに限らず何かに凝るという生き方は貴重な反面、周囲が見えにくく、世間常識を欠きやすい。そのうえ愚直で、不器用で、人間関係を上手に処理できるタイプではないので、心労と自暴自棄状態は避けられません。他の世界とおなじくお笑いの業界も、芸人、劇場の作家、同見習が何ほどか機械の歯車とならざるをえません。そうありたくないツチヤタカユキは苦しみ、のたうちまわり、抜き差しならない葛藤に苦しみます。
なによりもお笑いの世界のバックステージ劇として興味深かったし、舞台のパフォーマン
スの裏側にある作家の七転八倒と、笑いの反対側にある複雑さの一端を取り出そうとする意欲がよく伝わってきました。

朗らかな笑いのいっぽうに嘲笑があり、冷笑があります。生活の実情に応じて笑いも収縮したり拡張したりします。たとえ収縮しきったと見えてもまだ裏があって「贅沢は敵だ」が「贅沢は素敵だ」に変化し、ヒトラースターリンの治下にあっても影では独裁者を笑い飛ばした、そうしたたくさんのジョークがいまに伝えられています。わが国にも「陰では殿のこともいう」ということわざがあります。

こうして笑いだけでもずいぶん複雑なのに「お笑い」となるともう一段ややこしくなる。「笑い」が生活のなかで自然と生まれ、万人に共通するものとすれば「お笑い」は作為で、プロのワザなのですからややこしくなるのはあたりまえでしょう。

「笑いのカイブツ」、その意味では「お笑いのカイブツ」としたほうがよかったかもしれません。いずれにせよ「お笑い」をつくるプロに資格などはなく、観客のウケと仲間内の評価がプロか否かを決める。 

でもツチヤタカユキはそこにも安住できないようで、これからどうなるのかなあなんて考えているうちスクリーンは早くもエンドロールとなっていました。

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(2024年1月9日 ヒューマントラストシネマ有楽町)

『猫』とフィルム・ノワール

十二月三日。昨日スマホの機種変更をした。iPadKindleなどと充電の端子を一本化したのはよかったが、旧機種からデータを移行しなければならず、手引の小冊子をいただいたが緊張感ただならず、心配した通りきょうの日曜日は午後のラグビー早明戦の時間帯を除きほぼ終日移行作業に従事した。それでも写真はうまくゆかず混乱したが、あれこれ調べまくってAirDropなるものに行き当たりようやく解決した。

いま読んでいる内田百間東京焼尽』の一九四五年三月十三日の記事に「ラヂオの故障はコンデンサーが駄目になつた為であるとかにて、差し当たり修繕の見込立たず。警報の度に困るとは思ふけれど仕方がない。機械と云ふものは時にこはれるからその度に気を遣うから性に合はぬ也」とある。そしてわたしは機械はこわれていないのに新品の機器をまえにデータ移行に難渋している。

課題はあとひとつ、スマホにインストールしているアシックスのランニング用アプリとアップルウオッチとのペアリングができなくて距離もタイムも計れない。マニュアル通りにやっているのに。(とうとうこれはあきらめて、ウオッチに内蔵されているナイキのアプリを用いることとした。ところが一週間ほどして突然アシックスのアプリが作動をはじめた。なにもせず放っておいたのにわけがわからない)

百間先生は三月二十八日の日記に「敵の空襲がこはいのと、食べ物に苦労するのと、それだけであつて、後は案外気を遣はないのんきな生活である」と書いている。空襲もなく食べ物の苦労もないからデータ移行で文句垂れてはいけないかな。

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奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』(河出文庫)を読んでいて、きょうは喫茶店で一心不乱、とちゅう吉田日出子の「上海バンスキング」のアルバムを聴き、再度読書に戻り二百頁まで来たがまだ三分の一だ。

本作で「吾輩」はなぜか上海に来ていて、たまたま道路に捨ててあった新聞に苦沙味先生が殺されたとあった。事情を知った上海の猫たちがアームチェア・ディテクティブよろしく推理を披露する。ある猫は語る。苦沙味先生の細君は不倫、明治ふうの言葉で申せば姦通もしくは不義密通の関係にあった男がいたに違いない、と。「吾輩」ははじめ一蹴したが、でもあの夫婦はよく口喧嘩をしていたから、可能性は皆無ではないと考えるようになる。

そこでわたしも猫たちとともに苦沙味先生殺害事件の究明に乗り出した。

吾輩は猫である』に苦沙味先生の姪の雪江と細君が生命保険について話をするくだりがある。そこで細君は、こないだ保険会社の人が来て利益について説明し、ぜひお入りなさいというのに夫はどうしても入らない、貯蓄はなし、子供は三人いるのだからせめて保険にでも入ってくれると心丈夫だけど、と語る。

そこで「吾輩」じゃなかった、わたしは想像した。苦沙味先生の細君の不倫相手がこの保険屋の男であればどうだろう。男が細君名義で保険に入り、ふたり示し合わせて苦沙味を殺せば保険金が下りる。つまりビリー・ワイルダー監督の名作「深夜の告白」とあいなる。こうして『猫』からフィルムノワールにたどり着いたのだった。

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漱石、本名夏目金之助は一八六七年二月九日(慶応三年一月五日)に江戸の牛込馬場下横町に生まれ、一九一六年(大正五年)十二月九日に胃潰瘍により体内出血を起こし自宅で死去した。きょう十二月九日は漱石忌

そこで明治三十八年三月明治大学で行われた講演「倫敦のアミューズメント」を読んだ。冒頭、漱石は「諸君私が夏目先生です」と笑いをとっている。とちゅう、三月十日の奉天における日露会戦で日本が勝利したことを知らせる号外が飛び込んでくると、自分の講演より奉天のほうがよっぽど面白いだろうに、と言ったりしてなかなか臨場感があるが、それはともかくここで漱石は「アミューズメント、オブ、オールドロンドン」(講演速記の表記のまま、以下同様)という本を参考にかの国のかつての娯楽を話題にしている。

たとえば「ベヤ、ベーチング」、杭を立て、首輪をした熊を鎖で結びつけ犬に噛ませる、牛のばあいは「ブル、ベーチング」で、エリザベス一世も大好きだった残酷な遊びである。漱石はいまのイギリスでは「犬牛馬などに大変丁寧」であるが「西洋人だつて吾々だつて人間としてそんなに異なつたことはない」、さかのぼるとずいぶん残酷な娯楽を楽しんでいると語る。

ほかにも「犬と犬との噛合はせ」、「ホース、ベーチング」、「コツク、ピツト」という闘鶏、人間どうしではプロの剣客の真剣勝負(ただし百年のあいだに死んだのはひとりで、切り傷から菌が入って亡くなった)、「肉襦袢見たやうな極く身体へピタツとくつ着く」衣装の女性による殴りあい(引っ掻き合いではつまらないから双方が金を握って殴り落としたほうが負けとなる)などがあった。

これは本ブログ「英語のノートの余白に(6)bullbaiting 」(2023年10月20日)に書いたが「ベヤ、ベーチング」bearbaiting、「ブル、ベーチング」bullbaitingは日本の英和辞典には立項されているのに、本家の『オックスフォード英英辞典』にはない。触れられたくないのはわかるが隠しだてするのはよくないな。

 漱石忌余生ひそかにおくりけり 久保田万太郎

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十二月十二日。午後、新宿のスタバで寺田寅彦夏目漱石先生の追憶」、高浜虚子漱石氏と私」を読んだが後者の一気読みは時間がなく一段落したところで目を休めて耳に移行しスコット・ハミルトン&ジェフ・ハミルトン・トリオのアルバムを聴き、そのあとテアトル新宿で「市子」を観て、帰宅後は晩酌の半日だった。

珈琲と読書とジャズと映画とお酒の小春日和の日の晩酌は奮発してシングルモルトを飲んだ。国内外不愉快な出来事は枚挙するにいとまがないいま、ときに幸福感を味合わなくちゃ人生やっていけない。

漱石氏と私」にこんなエピソードがあった。

漱石が英国留学する直前、高浜虚子を食事に誘い、そのあと二人で謡をうたった。とちゅう調子が合わなくなって虚子はとうとう噴き出してしまったが漱石は笑わず最後までうたった。当時大学生だった寺田寅彦もその場にいて、謡が済んだところで先生のはたいへん拙いと冷評を加えると漱石は応じた。「拙くない 、それは寅彦に耳がないのだ 」。このときかどうかわからないが寅彦は、先生の謡は巻舌だといったこともあり、漱石はずっと覚えていたそうだ。

ニュースで、政治家たちのパー券のキックバックなどといっていたが、これは脱税につながる犯罪なのだから犯罪疑惑という表現があってしかるべきだと怒りつつも漱石、寅彦、虚子の謡曲をめぐるやりとりに慰められた。 

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十二月十八日。昨日の日曜日はNHKホールで「千人の交響曲」の名で知られるマーラー交響曲第八番を聴いた。チケットをゲットしてくれた友人から、規模が大きくて演奏される機会が少なく、今回を逃すと生涯めぐりあう機会があるかどうかわからないのでぜひ聴いておくようにとのお達しがあり、いっしょに出向いた。

ときにクラシックは聴くけれどほとんどがモーツァルト、あとはポピュラー化された小品や交響曲のさわりがもっぱらなのでグスタフ・マーラーは名前のみ知る人で、畏れ多くもいきなり「千人の交響曲」に接した。友人は魂が洗われたと言っていたが、当方はオーケストラ、NHK東京児童合唱団を含む合唱団、ソリスト、パイプオルガン、客席にまで数人の金管楽器がならぶ規模の大きさに、へーえと思っているうちに大団円で、魂はビックリで、その余波か、神保町のへぎ蕎麦屋さんでいささか飲み過ぎて、定量遵守のわたしにしてはめずらしく二日酔いに陥り、今朝はランニングを中止した。

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先日NHKBSプレミアムで放送のあった「なぜエヴァンズに頼まなかったのか」全三回の録画をみたが、ラストの回がわかりづらく、整理がつかなかった。クリスティの原作を読んで臨んでこれだから情けない。ストーリーをたどるのが苦手なわたしの面目躍如といったところか。たんに頭脳の働きが弱い、偏差値が低いだけの話かな、などと反省しながら伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史1910-2023』(文藝春秋)を読んでいると一九六四年に東映京都撮影所所長に就任した岡田茂が、時制の混乱を招く回想シーンや耳に入りにくい二行以上の長ゼリフを禁じたとあった。また映画のセットに英語で書かれたクラブの看板を掛けようとしたスタッフを「小学校しか出ていないお客さんに分かるように日本語にしろ!」と怒鳴りつけたという。

伊藤彰彦氏は「このように東映は徹底して庶民の目線で映画を作ろうとした」と書いている。

いつだったか酒席で、いまは故人となった某民放のディレクター氏に、ストーリーを追うのが苦手というが、ならばどんなストーリーだったら分かるのかと問われて、咄嗟に返事が出ず、たとえばストリップのようなストーリーですね、と答えたところ、あれはストーリーとはいわないと一蹴された。

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自民党安倍派の最高幹部数人が東京地検特捜部の任意聴取を受けたというニュースがあった。政府、与党は捜査中だからコメントは差し控えるの一点張りだ。首相は改革に邁進するといっているが、改革は実態を踏まえてのことだし、国民の意見を聞くとしても実態を知らなければ論じようもない。細部はともかく、政治家のパーティーをめぐりどのような問題があったのか、立法府の人間がどのような違法行為をしていたのかという基本的なところは明らかにしないと改革などできるはずもない。資料なくしては計画は立てようがなく、計画がなければ実行はおぼつかない。

「われわれ(文壇の人間)だって悪いこともするし罪も犯すが、人からそれを指摘され、自分でも悪かったと云うことが分れば、男らしく告白して社会に謝し、その責めを負う。決して何処かの国の政治家の如くうそや非行からバレかかっても鷺を烏と云いくるめて、自ら免れて恥ずるところなく、傲然と社会の上層にのさばっているようなことはしない」。

これは谷崎潤一郎芥川龍之介の死に寄せて書いた「饒舌録」の一節で、初出は『改造』一九二七年一0月。「男らしく」云々はいただけないが、「何処かの国の政治家」の鷺を烏と云いくるめて恥ずるところなく、社会の上層にのさばっているのはいまも相変わらずと知れる。

谷崎のいう昭和初期の「何処かの国の政治家」の政治家の生態から現代のパー券の問題まで、政治で不正の金を儲けるのはもう丸山眞男のいう「古層」の域に達している。政治で私利私欲を図るのが政治文化の基盤となっていやしないか。中国やロシアで改革の声はあってもたちまちウルトラ独裁の政治と文化に戻るとおなじく、この国では政治と金の癒着は慢性化していて手術を避ける多くの政治家たちが治療をますます困難にしている。

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昭和七年寺田寅彦は北大で三日間講義を行った。そのとき北大の先生だった中谷宇吉郎は「札幌に於ける寺田先生」に寅彦が「鳶と油揚」に関心を持っていたとしるしていて、のちに随筆「とんびと油揚」となった。

鳶が油揚を攫うのは虚伝であっても鼠の死骸は突くことはある。上空を飛ぶ鳶は油揚はともかく鼠の死骸が地上にあることがどうしてわかるのか。鳥の網膜の構造からとても見えるはずがない。そこで嗅覚が問題になる。熱帯流から考えると、鼠の死骸から出るガスが細い線または薄い膜となって上空に達することはありうる、しかし鳥の嗅覚は鋭敏ではない。

鳶といえば柴田宵曲俳諧博物誌』の「鳶」を思い出す。なかで宵曲は、ある先輩の話として、以前は東京の空にも鳶が多く飛んでいたのに、それが見えなくなったのは「市中の掃溜が綺麗になって、彼らの拾う餌がなくなったためだろう」と述べている。臭いが上空に来なくなったと解釈したいのだが、寅彦によると鳥の嗅覚は鋭敏ではない。うーん。

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寒月君を通して寺田寅彦を知りたいと『吾輩は猫である』を読み、そのうえで寅彦の随筆に取りかかるつもりだったが、『猫』を読むとまえに読んだ奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』を思い出して再読し、そうすると未読の内田百閒『贋作吾輩は猫である』が気になって百閒先生の『贋作猫』も読んだ。

奥泉光『『猫』殺人事件』では、「吾輩」は生きて上海にいて、主人苦沙味先生殺害の謎を解くこととなる。いまふうに申せば面白いスピンオフで、いっぽう内田百閒『贋作猫』は漱石の衣鉢を継ぎ、逸民たちの会話が楽しい。

《「蛆田百減さんからの葉書ですよ」(中略)「百減と云ふのは文士でせう。どう云ふおつき合ひです」(中略)「あれは変な野郎です。文士のくせにお金をためてるさうだ」》《「飲むとなくなると云ふのが、お酒や麦酒の一番の欠点だ。この点を改良しなければいかん》。

『贋作吾輩は猫である』は『内田百閒全集』第五巻(昭和四十七年講談社)に入っており、ほかに『戻り道』『新方丈記』『東京焼尽』『百鬼園夜話』『百鬼園俳句』があり『贋作猫』を読んだから、はい、さようならとはまいらない。むかしの歌の文句にある、ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道くねくね、状態となった。

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夢のなかでどこかへ買い物に行ってお金を落としてしまい、いくら探しても見つからない。ようやく目が醒めて夢と知った。ここで人はふたつに分かれるんだとか。夢でよかったと安心する人と、夢であっても惜しくて金の行方が気がかりでたまらない人と。私はこの種の夢は見たことがないが、いずれかな。

と、それらしく問いかけたが、わたしは荷風先生に倣ってケチをたしなみとしているから答はわかっている。いっぽうで義理と褌は欠かすべからずとの教えもあり、そこのところがややこしい。せめて褌は欠かさないようにしなくてはね。

吝嗇に努めても貧乏が変わるものではない。もう貧乏は飽きちゃったし、状況はよくなることはありえない。でも死にたくもない。

貧困は犯罪と社会不安の温床とされるいっぽうに「多数をたのむ貧乏が、格別横暴にもならないのは、貧乏といふ状態の本質が平和なものだからなのである」(内田百閒)といった議論もある。きょうは大晦日。貧乏な年金生活ながら負債がないのがさいわいで、来る年もせめて平和な貧乏生活を願うほかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三代目柳家小さん 讃

パレスチナガザ地区を支配するハマスイスラエルを奇襲攻撃したのは先月十月七日だったからまもなくひと月になる。ミサイルをイスラエルにぶち込んだ。それにはこれまでの経緯があり、空は見えても牢獄状態にあるガザ地区のいまがあってのことだろう。

そこでイスラエルの反撃だが、目には目を、すなわち目をやられたら目を限度に復讐をせよ、とはまいらずガザ地区は人道危機に陥っている。とはいえ他国が、反撃はほどほどにしてほしいと自制を説くのは難しく、ハマスだってイスラエルの反撃は織込み済みだろう。

イスラエルとしてはハマスに対するに利子を付けてお返しするとか、大日本帝国の標語「進め一億火の玉だ」とならざるをえず、かくしていまのところ妥協はない。むかし金丸信という政治家が、政治は足して二で割るでよいといっていて、ばからしいと思ったが、いま振り返ると、それなりの故智と見えなくもない。

イデオロギー、宗教、信念の基盤には他への寛容があって然るべきだが現実には極めて難しく、もう、どうなとなれ、と投げやりになってはいけないのはわかっていても自分が平和のためにできることは何もなく、かくてニュースを見ながら、ときに牧水の歌集に目を遣り、独酌するばかりだ。

「みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみは人にゆるさじ」(若山牧水

「酒の香の恋しき日なり常盤樹に秋のひかりをうち眺めつつ」(同)

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向田邦子のエッセイに、レコードが音盤、野球のストライクが「よし」とされた戦時中、だったらブルマーはなんというのかしら、と話しているうちに「女子運動用黒布襞入裁着袴」なんて案が出ていたとあった。わたしは団塊の世代だから、体育の授業で女子はブルマーを着けていて、思い返すと変なものだった。

いま男女ともにも短パン姿で運動をしている光景を見ると、かつての女学生の世界に憧れるオトーサンにとっては残念かもしれないけれどブルマーなんてなくなってよかったと思う。スポーツウェアにとどまらず服装のユニセックス化はこれからも進んでゆくだろう。

何年かまえからズック靴やスニーカーを履いている女性をよく見かけるようになった。スニーカーで通勤している方も多くなってきているようだ。パンプスやヒールの靴を否定しているのではなく、それらを強制する風潮が改められるのはとてもよいことだ。

森鴎外『椋鳥通信』を読んでいると、鴎外が一九一一年一月九日に発した記事に「フローベールの小説『サランボー』にあるように、金の鎖で足と足とを繋いで、女に股を開かせないようにすることが、巴里では又流行しはじめた。但し昔のように錠前は厳重ではない」なんてあり、二十世紀になってもまだこんなばからしいことしてたんだと呆れてしまった。

時間は前後するが同書一九0九年四月五日発の記事に「巴里では女が短沓に足輪をはめる。足輪というと分りにくいが、腕輪のようなものを足にはめるのである。明色の靴には足輪を琥珀で飾る。灰色のSport沓にはRubin(ルビー)で飾る」。

これ、アンクレットを初めてわが国に紹介した記事かもしれない。わたしがはじめてアンクレットを知ったのは「深夜の告白」でバーバラ・スタンウィックがアンクレットで脚線美を強調していたシーンだった。おなじビリー・ワイルダー監督の「昼下りの情事」ではオードリー・ヘプバーンゲーリー・クーパーに、大人の女に見られたくてバイオリンケースのキーを付けた鎖をアンクレットにするシーンがある。ビリー・ワイルダーはアンクレットがお好きだったのだろう。

アンクレットで脚線美を強調したり、金の鎖で足と足とを繋いだりしてから、ズック靴やスニーカーまで、この百余年の女性の足をめぐる物語である。

せっかくだから目を頭にやると鴎外は「女の粧飾に額の珠というのが流行りだした。孫悟空の額に嵌めているようなものを頭に嵌めて、前の両端から細い金鎖を出して、額の真中に珠が下るようにする」というファッションを伝えている。

なお、金の鎖で足と足とを繋いで云々のフローベールによせて鴎外は『ボヴァリー夫人』は雑誌連載中その筋からたびたび注意を受け、書籍として出版されたときに告訴され、裁判は無罪だったが、長きにわたり作者は猥褻作家と見なされ、「ずっと後にゴンクールやゾラのような一層猛烈なのが出てから、フロオベルどころの騒ぎではなくなった」と述べている。しかしこのときベルリンではフローベールの日記が猥褻として告訴されており、鴎外はこの裁判での鑑定人リヒャルト・デーメルの証言をも伝えている。

「フロオベルが芸術的目的で製作したことは知れきっているから問題にならない(中略)それを読者が猥褻に思うなら、それは読者が悪いのである」。

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『椋鳥通信』は森鷗外が伝えた一九0九年から一九一四年にかけての世界の時事ニュースで、シベリア鉄道が開通し、欧州の新聞や雑誌がおよそひと月で日本に届くようになったことから、それを翻訳して毎月発表したのだった。鴎外はいまならYouTuberになっていただろう。

 ルーズベルトアムンゼンシュトラウストルストイ、ヴィルヘルム二世等歴史上の人物たちが、同時代人として現れ、モナリザ盗難事件、オーストリア皇太子暗殺事件などがホットに伝えられるいっぽうで無名の人の耳寄りな話も採られている。

サンフランシスコへドイツ人が蚤の芸を見せに行ったところ、土地の蚤より性の悪いドイツの蚤が繁殖しては困ると言い出した人がいて興行は差し止められたとか、イタリアの詩人エドアルド・ボネルはメッシーナ地震で死んで、死骸が見つからずにいたところ、このごろになってある娘がそのありかを夢に見て発掘したといった。後者は岡本綺堂の本にありそうな奇談である。

鴎外が伝えた大事件のひとつに一九一二年四月十四日深夜、北大西洋上で氷山に追突し、翌日早朝に沈没したタイタニック号の出来事がある。

タイタニックの死者は一等二0二人、二等一一五人、三等一七三人、水夫二0六人、士官四人、計七0三人である。イジドー・ストラウスの妻は小舟に乗ることを辞して夫といっしょに静に死を待っていた」

『椋鳥通信』の編者池内紀氏のコラム「タイタニック号の沈没」によると「最終的には乗客千三百八人中、八百十五人、乗組員八百九十人中六百八十八名が犠牲になった。『椋鳥』の告げるのは、大混乱のなかで発表された数字の一つと思われる」とのことだ。

総トン数四万六千トンのタイタニック号の船名はタイタン(巨人)に由来し、「不沈船」とうたわれたが、そこには何事も人間の力でコントロールできるという傲慢、驕慢が感じられる。

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知人がSNSに「11時に、もうすぐ休業の山の上ホテルを目指すも、カフェは40組待ち😓そのまま久々のランチョンへ🍻🍳」「 いつまでか未定の休業らしいっす」と投稿していて、ホームページを見ると「建物の老朽化への対応を検討するため、2024年2月13日より当面の間、休館」とあった。

二十年ほどまえ、高知在住が二人、東京が一人、横浜が一人の家族が、東京で待ち合わせて前泊し、ニュージーランドに旅した。四人家族で行った唯一の海外旅行で、そのとき泊まったのが山の上ホテルだった。懐かしいな。

さいわい、ホテルの担当者は「一度、休館のお時間をもらった上で建て直す方針です。皆様にはご迷惑をおかけしますが、何とぞご理解いただけますようお願い申し上げます」と語っている。リスタート、楽しみに待っているよ。

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小春日和の一日が好きで、おなじ季語も大好きである。小春は陰暦十月の異名で、移動性高気圧におおわれ風も穏やかで暖かく春を思わせる日和となる。中国の『荊楚歳時記』に「天気和暖にして、春に似る。故に、小春(しょうしゅん)と曰ふ」とあり小春(こはる)はここに由来する。「小春風」「小春凪」「小春空」などとも用いられ、『徒然草』には「十月は小春の天気」とある。

小春日和に相当する英語は、インディアン・サマー(Indian summer)で、北米で中秋から晩秋にかけ異常なほど温暖な日が続くことがあり、この期間を指していう。辞書には、秋の乾いて暖かな天候の時期とあるが、これをなぜインディアン・サマーというのかはよくわかっていない。一説にはこの時期を利用してアメリカ・インディアンが冬のために収穫物を貯蔵する作業を行う慣習をもっていたからという。

なおヨーロッパでは老婦人の夏(old wives summer)とかカワセミの日(halcyon days)といったりするそうだ。

英語辞書のインディアン・サマーの語義の二番目には、とくに人生の晩節にあって成就や向上を実感する心地よい時期とある。(オックスフォード現代英英辞典)まさに「人生の小春日和」で、こういうのを見ていると「西洋人だって吾々だって人間としてソンなに異なったことはない」(夏目漱石「倫敦のアミューズメント」)と思う。

もうひとつ季節にちなんだ話題を。           

「老愁は葉の如く掃えども尽き難し/蔌蔌(そくそく)声中又た秋を送る」(館柳湾「秋尽」)

鈴木瑞枝『館柳湾』(研文出版)には「年をとったことに伴う愁いは、この秋の木の葉のようで、除こうとしても除ききることは出来ない。パラパラ葉が散る音と共に、今年の秋も過ぎ去ろうとしている」と訳がある。永井荷風は「葷斎随筆」にこの詩を引用して「日々掃へども掃ひつくせぬ落葉を掃ふ中いつしか日は過ぎて秋は行き、冬は来る。われは掃葉の情味を愛して止まず」としるした。

「落葉焚くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く」(若山牧水

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かねてより寺田寅彦の随筆を愛読してきたが、近ごろご無沙汰しているところへ先日『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』(ゆまに書房平成四年)を入手した。こんな本があるとは知らなかった。寅彦の随筆とは別に周囲の人々の語る著者の人間像や回想は手つかずのままなのでこの追悼文の集成はまことにうれしい拾い物だ。

同書は『渋柿』262号(昭和11年2月1日)と『思想』166号「寺田寅彦号」(昭和11年3月1日)を復刻し一書としたもので、両誌とも寅彦と関わりの深い雑誌で、安倍能成の弔辞にはじまる追悼と回想は六十九篇にのぼる。

架蔵する未読本に中谷宇吉郎寺田寅彦 わが師の追想』(講談社学術文庫)があり、よい機会だから『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』と併せて読むこととした。

その『寺田寅彦 わが師の追想』に「(チャプリンは)偉いね 。道化た真似でも 、あれだけになると 、必ずその中に何か本当のものを捕らえている 。どんなことでも 、本当のものを捕らえている以上 、そいつはなかなか真似の出来るものじゃ無いんだ 」という寅彦のチャップリン評があり、寅彦はさらに岡本一平柳家小さんを讃えている。

夏目漱石三四郎』では佐々木与次郎が「小さんは天才である」として「小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい」と名人の所以を語っている。三代目柳家小さん(1857-1930)明治二十八年三月師匠二代目の改名を機にに三代目を襲名した。

それにしても夏目漱石寺田寅彦が口をそろえて名人と褒め讃えた三代目柳家小さん、えらいもんだなあ。漱石の小さん名人論はよく知られていて、わたしも知ってはいたけれど、寅彦のほうは中谷宇吉郎の本を読むまで知らず、漱石と寅彦がいっしょに寄席に行っている姿が浮かんだ。

小さんについては内田百閒が東大の学生だったころ、小さんの名声が高くなり大学生のなかにも贔屓が多くいて本郷の若竹亭で何度も独演会を催し「小さんはいつも真面目であつて役で笑ふ以外に高座の笑顔を見た事はない」とその姿を伝えている。(「その時分」)

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先日、安室奈美恵の楽曲がApple MusicやSpotifyなど各種定額制音楽配信サブスクリプションサービス)から楽曲が消えたと報道があった。そのため中古品販売店やレコードショップでは安室さんのCDが品薄になっているとか。わたしもあるサブスクを契約しているから心配なニュースではある。

安室奈美恵は聴いたことがないから実害はないものの、わたしはけっこうKindleで本を読むから、ある出版社がKindleとの契約を打ち切ると当方の持つ当該社の本は読めなくなるから安室事件は他人事ではない。本、CDは現物で持っておくのが安心ではあるが費用や置き場を考えるとそうもゆかない。

A rolling stone gathers no moss.

転がる石に苔はつかない。ひとつに仕事や住居住をひんぱんに変わる人はお金がたまらない、他方で活動的な人はいつも新鮮とされる。人間の知恵であることわざにさえ両義性があるのだから音楽のサブスク、電子本が便利と危険がセットになっているのは仕方がないか。

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十一月二十七日。日本大学アメリカンフットボール部の三年生の男子部員が密売人から大麻とみられる違法薬物を購入したなどとして麻薬特例法違反の疑いで逮捕された。三人目の逮捕者で、日大はアメリカンフットボール部の廃部を決めたと報じられている。

学業とスポーツにまじめに取り組んできた部員やスポーツ推薦で日大進学を決めた受験生には気の毒で、それらの学生たちの活動の場と機会を奪う措置が適切かどうかは賛否両論あるだろう。廃部か再建かは大学がお決めになることであるが、仮に廃部となれば犠牲になった学生たちのケアにしっかり取り組むよう願うばかりだ。

大沢在昌『毒猿 新宿鮫2』に「覚醒剤は、押収すれば新聞記事になるし、功績として評価が高い。反面、トルエンやシンナーは、覚醒剤に比べれば、制服警官の領域であり、子供の遊び道具といった見方をされている。だが、中毒者以外に、被害者を生み出す点では、覚醒剤にひけをとらない」とあり、ここから考えるに大麻を軽く考える風潮はあるようだ。

在職中、研修会で覚醒剤経験者の話を聞いたことがあり、ここでも覚醒剤に比較すればシンナーや大麻などはクスリとはいえないと語っていて、この世界にも松竹梅、上中並などの比較があるのかと苦笑した。

比較と競争があれば分類とランクづけは避けられず、みなさんこの種のことが大好きである。

 

お年賀

あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願い申し上げます

二0二四年一月一日

退職して十余年、いちばん大きな変化はお酒がむやみに好きになったことで、これはまったく想定外の事態でした。暇と退屈と仲良くしているうち口腹のたのしみの度合が増したようです。

もちろん在職中も好きでしたが、それでも飲まない日を恨めしいとは思わなかった。ところがいまは焼酎やウィスキーのオン・ザ・ロックスのグラスを傾けない日はじっと堪えながら何かを見たり、読んだり、聴いたりして気を紛らわせ、それにつけても酒があればいいのにという気に陥っています。

いや、酒はあるけれど毎日飲む勇気がない。それにマラソンを走るのにもよくなくて、ランニングクラブのコーチは、レースの前はできればひと月、最低でも一週間は酒を断ち、アルコールを分解する体内の力を走る力に転換せよとおっしゃっていました。

ときにお酒代わりに酒にまつわる本を読んで慰めとしています。写真の『酔っぱらい読本』は七巻もあり、全巻を読み終えるとはじめの巻はほとんど忘れているのでエンドレスのリサイクルが続けられます。高齢と記憶力の減退はわるいことばかりでなく年金生活者の本代の節約にひと役買ってくれています。

ここで小話をひとつ。

百歳を迎えたトムじいさんのところに新聞記者がきて「ところで、九十歳から百歳までの十年間というもの、あなたは毎日なにをし、なにを考えていました」とたずねたところ爺さんは答えた。「わしは、いつも酔っ払っていたから、なにをしたかおぼえちゃいない」

いずれ長距離を走れなくなったときには毎日飲む勇気が湧いてくるでしょう。これからの人生のたのしみで、そのときはぜひトムじいさんにあやかりたい。

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