「笑いのカイブツ」

ことしはじめて映画館で観た「笑いのカイブツ」。2024初スクリーンでこの作品に出会えたのが嬉しく、また大いに刺激を受けました。

原作のツチヤタカユキ氏はこれまで知らない名前でしたが、この映画でさっそく原作を読んでみようという気になりました。わたしのような下流年金生活者が財布を開いて原作に手を伸ばすのですから、それを優れものの証明としたい。

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テレビの大喜利番組にネタを投稿する、そのために毎日ネタを考え続けて六年。 ツチヤタカユキ(岡山天音)はようやく実力が認められ、お笑い劇場の作家見習として業界に足を踏み入れたのはよかったのですが、お笑いに限らず何かに凝るという生き方は貴重な反面、周囲が見えにくく、世間常識を欠きやすい。そのうえ愚直で、不器用で、人間関係を上手に処理できるタイプではないので、心労と自暴自棄状態は避けられません。他の世界とおなじくお笑いの業界も、芸人、劇場の作家、同見習が何ほどか機械の歯車とならざるをえません。そうありたくないツチヤタカユキは苦しみ、のたうちまわり、抜き差しならない葛藤に苦しみます。
なによりもお笑いの世界のバックステージ劇として興味深かったし、舞台のパフォーマン
スの裏側にある作家の七転八倒と、笑いの反対側にある複雑さの一端を取り出そうとする意欲がよく伝わってきました。

朗らかな笑いのいっぽうに嘲笑があり、冷笑があります。生活の実情に応じて笑いも収縮したり拡張したりします。たとえ収縮しきったと見えてもまだ裏があって「贅沢は敵だ」が「贅沢は素敵だ」に変化し、ヒトラースターリンの治下にあっても影では独裁者を笑い飛ばした、そうしたたくさんのジョークがいまに伝えられています。わが国にも「陰では殿のこともいう」ということわざがあります。

こうして笑いだけでもずいぶん複雑なのに「お笑い」となるともう一段ややこしくなる。「笑い」が生活のなかで自然と生まれ、万人に共通するものとすれば「お笑い」は作為で、プロのワザなのですからややこしくなるのはあたりまえでしょう。

「笑いのカイブツ」、その意味では「お笑いのカイブツ」としたほうがよかったかもしれません。いずれにせよ「お笑い」をつくるプロに資格などはなく、観客のウケと仲間内の評価がプロか否かを決める。 

でもツチヤタカユキはそこにも安住できないようで、これからどうなるのかなあなんて考えているうちスクリーンは早くもエンドロールとなっていました。

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(2024年1月9日 ヒューマントラストシネマ有楽町)