柳橋

永井荷風ゆかりの地の散歩で久しぶりに柳橋界隈を廻った。ここは新橋、葭町、人形町新富町などととともに昔の東京を代表する芸者街、かつての風情でいえばかろうじて屋形船にその名残りがうかがわれる。

f:id:nmh470530:20220111100051j:image
f:id:nmh470530:20220111100054j:image

柳橋と対比されるのが新橋で、荷風柳橋の上品で、あっさり、さっぱりした気風がよいといい、新橋には、客に地方出身の政治家や役人が多く、名古屋、秋田、馬関、北海道なぞからの出稼ぎの芸者衆がお相手する座敷は帝国議会の傍聴席のようで、それに河豚や鮭、膃肭臍などのお国自慢がうるさいと手厳しい。(「東京花譜」)

荷風が尊敬した幕府の遺臣で、明治政府の出仕要請を拒否し、ジャーナリストに転じた成島柳北薩長の成り上がり者が多いからと新橋の酒楼に招かれてもあがらず、荷風はそこに旧幕臣の節操をみたのだった。その柳北は『柳橋新誌』に、神田上水を飲んで育った江戸っ子女子は素顔の美しさが自慢で、せいぜい薄化粧で十分と、いまいうスッピンの魅力を説き、柳橋の芸者の気っぷとして「任侠(イサミ)を喜んで其の財を吝(おし)まず、然諾(タテヒキ)を重んじて其の人を辱しめざる」( 然諾は義理、意気地、義理や意気地を立て通して客に恥をかかせない)「姿容潔(アカヌケ)にして粧飾淡く(サラリ)、進退動止(タチイフルマイ)其の地を失はず、言辞応対、其の時を曠(むな)しうせざる」としるしている。

もちろん柳北も荷風も新柳二橋が色と欲のうごめくどぶどろ稼業のところと知ってはいたけれど、比較して文明開花の新橋より、江戸の名残りの柳橋が好みだった。

とはいえ小説家としての荷風柳橋に思い入れはあっても新橋の観察も怠りなく、この地を舞台とする短篇集に『新橋夜話』があるのはご承知のとおりである。

この点については坂上博一氏が、もともとゾラやモーパッサンによって鍛えられてきたリアリスティックな眼光が、金銭が幅を利かせ、打算が渦巻く俗物社会の実状をえぐるにふさわしい舞台として新橋を選び取らせた、さらに新橋にも柳橋的要素を滑りこませて、新時代の花街風俗図絵を描こうとしたのではないかと論じている。(「荷風における新柳二橋」岩波書店新版『荷風全集』第八巻月報)

なお、下の神田川隅田川にそそぐ写真は両国橋から撮ったもので、わたしの好きなスポットです。

f:id:nmh470530:20220111100355j:image

落語の「船徳」では道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿大枡の二階に居候の身となった若旦那の徳兵衛が、船頭になりたいといいだしたあげくに大騒動を起こしたのだった。

船頭となった徳兵衛は、柳橋から大川へ出るのにたいへんな苦労をする。写真にあるようにわずかな距離だけれど「たしかもう少し漕げば大川ですから」というセリフが笑わせる。大川へ出ると、土手の上にいる竹屋のおじさんが、つい先日船から子供を連れた女の人を落とした徳さんを心配している。

f:id:nmh470530:20220111100448j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「声もなく」

ホン・ウィジョンという一九八二年生まれの新人監督が撮った韓流作品です。素晴らしいというか、凄いというか、いずれにしてもこれから要注目の女性監督に大きな拍手を贈ります。

鶏卵の小売をするいっぽう犯罪組織から死体処理を請け負う中年チャンボク(ユ・ジェミョン)と若者テイン(ユ・アイン)の二人組。カタギの仕事で小銭を稼ぎながらヤクザの下請仕事をしている、いわば裏社会の最下層でうごめく存在です。おまけに二人は心と身体に傷を負っていて、若者は言葉を発することができず、中年は片足不自由で足を引きずっています。

この二人組にふだんは死体処理を請け負わせている犯罪組織から、身代金目的で誘拐された十一歳の少女チョヒ(ムン・スンア)を一日だけ預かるよう話が持ち込まれます。「専門外ですから」といっても聞いてくれるはずはありません。

組織はチョヒの弟をターゲットにしていたのにまちがえて娘を連れ去ってしまい、そのため、父親は息子が大丈夫だから、娘には高額の金を払いたくないと身代金の値引きをいっているようです。一日だけ預かるよういわれた二人組だったのですがこれでは一日で済むはずはありません。男の子がいるので、女の子の身代金はケチるなんて遠い昔の話ではなくスマホの使われている現代韓国の物語です。念のため。

誘拐をめぐる混線と混乱の余波は組織の抑圧に耐えながら死体の処理にいそしむ二人にモロに及んだところで、苦味と不気味と微かなユーモアを素材とする「奇妙な味」が匂ってきます。「パラサイト 半地下の家族」もそうだったように、この味を醸しだすのに韓国映画はとても上手ですね。

こうして若者テインと中年チャン、身代金未払い状態の少女チョヒ、それにテインの妹でチョヒと同年代でありながら通学もできないままでいるムンジュ(イ・ガウン)の四人の異様な人間関係がつくられ、渉外役のチャン以外の三人はテインの家で暮らすようになります。

f:id:nmh470530:20220204133325j:image

残酷と絶望のドブ泥における風変わりな生活。そのなかでチョヒはしっかり者の姉のようにムンジュの世話をし、洗濯物のたたみ方から部屋の片付けまで教え込み、テインの乱雑を極めた家のようすはずいぶんと変わります。その光景はテインの心を和ませ、チョヒとの関係に微妙な変化をもたらします。

ときどきドブ泥のなかの抒情といってみたくなるショットがあり、そのカメラワークに惹かれました。しかし抒情に流れることはなく、チョヒの行動はミステリアスな趣を増してゆきます。

誘拐の着地点がわからないままにテインとムンジュに心を寄せると映る彼女の行動は自己防衛なのか、それとも逃亡のための段取りなのか、あるいは家族から見捨てられた少女の擬似家族にたいする振る舞いなのかは不明のままで「奇妙な味」はサスペンスの風味をくわえ結末に向かいます。

「異様な人間関係」の四人の役者陣、とりわけユ・アインの声のない犯罪者の複雑な感情表現と、ムン・スンアの聡明、あどけなさ、棘のありそうな深慮を危ういバランスで保った姿は名演というほかありません。

原題:Voice of Silence

(二月一日 シネマート新宿)

 

「ハウス・オブ・グッチ」

グッチオ・グッチによって一九二一年に創業されたイタリアのファッションブランドGUCCI創業家の興亡に目を凝らしつづけた159分でした。一九七八年からおよそ二十年にわたるグッチ家の繁栄、抗争、確執、悪行、愛憎などを盛り込んだ長尺のドラマをだれることなく撮りきった、それだけでもこの映画の魅力の証左となるでしょう。

冒頭、事実にインスパイアされた物語と説明がありましたが、映画と事実の異同といったむつかしいことはさておいて、わたしは現代史を素材にしためずらしい歴史絵巻を北イタリアの美しい風景とともにたのしみました。リドリー・スコット監督は登場人物の内面に踏み込むのを抑え、一族の行方を俯瞰する視点で描写していて、賛否はあるでしょうが、深い心理描写とかゲージュツの苦手なわたしは◎。

f:id:nmh470530:20220128143047j:image

運送会社の娘パトリツィア(レディ・ガガ )が、ミラノでのあるパーティーGUCCI創業者の孫マウリツィオ(アダム・ドライバー)と知り合い、玉の輿に乗り、やがてマウリツィオの伯父アルド(アル・パチーノ)に誘われGUCCIの事業に深入りするようになります。

イタリア訛りの英語まで身につけて臨んだレディ・ガガ、イタリア版肝っ玉お嬢の野心と欲望の高度成長を演じてお見事でした。そうしてさほど会社経営に関心はなく、弁護士を志望していた夫マウリツィオも煽られまくって色と欲の世界にのめり込んでゆきます。これに狡猾なアルドと、その息子で凡庸ながら野心だけは一人前のパオロ(ジャレッド・レト)さらには犯罪集団までもが絡みます。

抗争はマウリツィオの父で、パトリツィアを金めあての嫁と嫌ったロドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)の死を契機に激化します。遺産の株式の争奪、騙し合い、裏切り、夫婦間のねじれともつれ、その果てに待つ創業家の末路。

たとえ満足する状態にあってもそれは一時的なことであり、栄枯盛衰、万物流転が自然と社会の原則です。そのなかで 夢に人生を浪費したパトリツィアやマウリツィオたち。夢のスケールを問わなければその姿はわたしたちの自画像に何ほどかは通じています。

(一月二十七日 TOHOシネマズ上野)

 

 

真珠湾攻撃と俳句

十二月。それまで忘れていても月はじめになると歳時記を手にするのが長年のくせというか習慣になっている。

「路地ぬけてゆく人声や十二月」(鈴木真砂女

どうして十二月なのかと思わぬでもないが、ほかの月と違って音数が五音なので坐りがいいね。

「どぜう屋の炭火を恋へり十二月」(瀧春一)。

トロンボーンのヴィック・ディケンソンの懐しいジャズのアルバムを聴きながら、むかしはあちらこちらの路地裏にどぜう屋があったんだろうな、と見ぬ世の光景を思い浮かべている昼下がり。

「沸くまでの水の重たき十二月」( 正木浩一)

お昼にラーメンを食べたあとに生活密着、体感的、即物的に理解できた一句でした。

「酔李白師走の市に見かけたり」(高井几菫)

晩酌の日にこういう句をみると余計にうれしくなる。いっぽうで「李白酔うて眠れる頃や花杏」(大石悦子)があり、春も師走も引っ張りだこの李白なのだった。

「数え日となりたるおでん煮ゆるかな」(久保田万太郎

「数え日」はことしもあと何日と数えたくなるような年末の数日を表す季語。おなじ作者の「湯豆腐やいのちの果てのうすあかり」よりもラフな気分になれるおでんの句で、わたしは好きだな。「いのちの果て」となるといささか緊張してしまう。

          □

十二月八日。太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃から八十年、NHKのニュースがハワイで行われた日米共催戦没者追悼式典の模様を伝えていた。

ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』1(ハヤカワ文庫)に真珠湾攻撃について興味深い見方があり、それによると一大奇襲戦術の短期戦を好む日本軍のあり方は俳句を生み出したことと関係しているという。つまり真珠湾攻撃は一面では日本の文化史上の問題で、不学なわたしはこうした見方があるのをはじめて知った。

思いつき、それとも異質の技術、素材を組み合わせたり、一見なんら関係しないものを結び合わせたりするハイブリッドな文化論かはともかく、俳句に奇襲攻撃といったみょうなものが添えられたものだ。

ついでに見当違いの添え物を表す格言として「木に縁りて魚を求む」「天に橋をかける」「山に蛤を求む」「水を煎りて氷を作る」「水中に火を求む」などがあるが、しかし俳句のおもしろさはこんなところから生まれる気もする。

また体によくない組み合わせに鰻と梅干、蕎麦と田螺、心太と生玉子、蟹と胡瓜、家鴨の玉子ととろろなどがあった。

反対に味わい深い組み合わせとして永井荷風の随筆「砂糖」に「桜花散り来る竹縁に草餅を載せた盆の置かれたる」「水草蛍籠なぞに心太をあしらひたる」「銀杏の葉散る掛茶屋の床机に団子を描きたる」といった例があり、いずれも 浮世絵から取られていて「此等の図に対する鑑賞の興は狂歌俳諧の素養如何」にある。つまりは素養のないものに滋味ある組み合わせを求めても「木に縁りて魚を求む」なのである。

          □

Amazonプライムビデオの充実、とりわけ前世紀三十年代から五十年代にかけてのモノクロ作品群のラインナップが凄い。エルンスト・ルビッチビリー・ワイルダーの作品群が一堂に会したとして過言ではなく、ファンとしてはそれだけでうれしい。それにハリウッド映画ばかりでなく「港のマリー」「格子なき牢獄」「運命の饗宴」「田舎司祭の日記」「にがい米」などヨーロッパで製作された作品が多く含まれているのもうれしい。

先日はアラン・ラッドとヴェロニカ・レイクのコンビによるハードボイルドタッチの作品「拳銃貸します」「ガラスの鍵」「青い戦慄」をみた。順番にグレアム・グリーン原作、ダシール・ハメット原作、レイモンド・チャンドラー原作、脚本というハードボイルド、フィルムノワールのファンには堪えられない揃い踏みである。

なかでもコンビの出世作となったフランク・タトル監督「拳銃貸します」(1942)がよい。

グレアム・グリーンが得意とする追う者と追われる者を骨格にした作劇術は政治的背景を重要な要素とする「第三の男」と異なりグリーンのエンターテイメントの原型が示されている。

殺し屋が仕事を果たし、依頼人に謝礼をもらうが、渡されたのは偽札で警察から追われる身となってしまう。追手をかわし復讐のために依頼人とその黒幕を追うなかで殺し屋は、依頼人のキャバレーに雇われたマジシャンの女性とたまたま列車に乗り合わせ、彼女に協力を求め、警察の追及から逃れようとする。女のほうは逃亡の手助けをしているうちに、はめられた殺し屋の事情と心情を思って心を寄せる。

アラン・ラッドとヴェロニカ・レイク、B級ピクチャーの匂いとたたずまいが似合いのコンビである。アラン・ラッド(1913-1964)は「シェーン」のまえにB級フィルムノワールのスターであったと知ってはいたけれど、これまでみたのは「拳銃貸します」だけだったから、今回の視聴はありがたいプレゼントとなった。またヴェロニカ・レイク(1922~1973)についてもしっかり瞼に焼きつけることができた。

それにしても二人とも若死だったんだなぁ。ヴェロニカ・レイクの人気はいまも根強く、人気ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』にも「寝たい往年のスター」を話し合うシーンで名前が登場しているとWikipediaにあった。

          □

森鴎外『椋鳥通信』上巻(岩波文庫)の冒頭一九0九年一月十六日発の記事に「近頃化粧舞踏会の化粧が一変して来た。それは著名な絵画彫刻作品の中の人物に扮するようになったのである」としてその事例があげられている。こんなふうに芸術作品が生活と融合していれば興味関心も喚起されるかもしれない。

とはいえ当方、絵画、彫刻とはとんとご縁がない。中学校の授業で絵を描いたのが最後で、教師が手直ししようにも手のつけられないほど下手だった。家庭に芸術を鑑賞する下地はなく、いまもときどき、わが身と比較して人はどんなふうにして芸術に強い関心を抱くようになるのだろうか、なんてことを思ったりする。読書は好きだったが絵画彫刻はさっぱりだ。

だからというべきか、しかしというべきか画家の書いた本を読んだあとはできるだけその方の画集をみるようにしている。さいわい画家には優れた文筆家を兼ねる方が多く、なかでいちばん親しんだのは鏑木清方和田誠である。

退職して海外旅行を重ねるうちに多少は芸術との接点が増え、プラハミュシャを、デン・ハーグフェルメールを、ウィーンでクリムトを追っかけた。年寄りの冷や水といったところか。

f:id:nmh470530:20220110141414j:image

          □

モンテーニュは十六世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者、モラリスト懐疑論者、人文主義者とされる。人文主義者はフランス語にいうユマニストであり、教科書ふうにいえば、キリスト教の神中心に対して人間中心主義を唱えたとなるが、もっと具体的な像はないかしらとかねてより気になっていた。

先日、アンドレジード「トーマス・マンの最近の文章を読んで」にマンの演説の一節が引かれていて、なるほど神と人間との二項対立よりも、狂信主義にたいする人間尊重の思想とするほうが現代のユマニスムとしてふさわしいと考えた。

「最も良い最も単純なことは、ユマニスムを狂信主義(ファナチスム)と反対なものとみることではないでしょうか」。

端的にして的確な指摘であり、そこには知的態度、正義、自由、知識と寛容、温厚と明朗がともなっている。

そのいっぽうマンは「ヨーロッパに告ぐ」でユマニスムの脆弱を指摘している。

「あらゆるユマニスムのなかには、脆弱な一要素がある。それは一切の狂信主義に対する嫌悪、清濁併せ飲む性格、また寛大な懐疑主義へ赴く傾向、一言にして申せば、その本来の温厚さから出て来る」これがばあいによっては致命的となると。

この傾向を避けるには硬直ではなく柔軟に、ときにユマニスムから距離を置いて考えることも必要なのかもしれない。いくらユマニスムだって現代の中国やロシアなどの全体主義的な傾向を寛容な姿勢で眺めることはできない。

「愚かな首尾一貫性は小人の心に棲むお化けで、ちっぽけな政治家や哲学者や神学者の崇拝するところだ。偉大な魂は守備一貫性とかかわるところはない」(アメリカの哲学者ラルフ・W・エマソン)。ときにユマニスムから距離を置いてと書いたのはこの謂である。

          □

十二月二十二日。きょうは冬至。柚子湯にはいったりかぼちゃを食べたりする風習があるがその由来は知らない。かぼちゃの名称は十六世紀なかばにカンボジアから渡来したことから来ているので神代の昔からではなかった。柚子湯はどうなんだろう。

いずれにしても窪田空穂が「冬至の南瓜」に書いているように「節日は文字どほり季節の移り目の日で、その頃は人体の最も不健康に陥りやすい時である。それを乗り切るために神を祭り、神饌を供へ、その余りを自分達も食べて、神助を蒙ろうとするのである」ということであり、じじつかぼちゃは野菜の乏しい冬の季節の祭りの供え物であり、また柚子の実を入れて沸かす風呂はあかぎれを治し、風邪の予防になるといわれている。

もっともこの生活の知恵が現代の日本でどれだけ定着しているかはよくわからない。わが家では柚子湯、かぼちゃともになかった。

加藤楸邨がはじめて句会に出たとき柚子湯が出題され「一杯の柚子湯を飲んでしまひけり」とよんだ失敗談がある。風呂ではなく柚子を絞ってお湯を注いで飲むものと思っていて大笑いされた。この俳人にして節気と湯は遠いものとなっていた。わたしが五月の菖蒲湯と十二月の柚子湯を知ったのは岡本綺堂の随筆で、綺堂は「柚湯、菖蒲湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出す」と書いていた。

          □

たまたま聴いていたコンピレーションアルバムにマット・デニスが作詞作曲しみずから歌ったスタンダードナンバーの名曲「Everything happens to me」がはいっていてしばし聴き入った。マット・デニスの小粋な名唱に出会うと一度では済まない。

ゴルフに出掛けようとしたら必ず雨……雨に祟られたゴルフのあと、パーティの準備をしたところ上の部屋の住人から苦情がきた、エアメールスペシャル(特別航空便)も出したけど君からの返事は「さようなら」、さらに郵便料金不足のオマケ付き。恋に破れて何でもありの切なさ。

米原万里『不実な美女か貞淑な醜女か』(文春文庫)によればロシアには「オープンサンド落下の法則」という慣用句があるそうだ。すなわち、オープンサンドが落ちるときは必ずトッピングした側が床についてしまうのをいう。「泣きっ面に蜂」「弱り目に祟り目」「踏んだり蹴ったり」要するに、「不幸の上に不幸が重なる」ということ。

高齢になると恋よりも飯のほうが切ないなあ。

          □

十二月二十七日。北日本や西日本の日本海側で大雪が降り続き、各地で車が立ち往生し、住民が雪の除去に追われている。雪害の難儀から早く抜け出てほしい 。

ニュースを見ながら、雪の日の歴史的事件といえば赤穂浪士の討入りと二二六事件となるが、ほかに何かあったかなと記憶をたどってみたが思い浮かばなかった。

まえにも書いたことがあるが、文藝春秋の幹部社員だった鷲尾洋三が『東京の空 東京の土』(北洋社)に、むかしの東京には雪が多かったと思う、子供のころの記憶では毎年のように一月、二月には膝の上まで埋まるような大雪が降り積もったと書いている。大正期に子供時代を過ごした著者の記憶で、 震災前の市電、外濠線沿線の雪景色がことさらに美しかったという。また昭和四十四年四月十七日にかなりの降雪があったとある。奥様の手術で著者には忘れられない大雪の一日だった。この年は雪が多かったようだ。わたしは二月に上京して大学受験に臨んだが、大雪の翌日で南国土佐に生まれ雪とはほとんどご縁がなかったものだから大学へ着くまでに二回か三回すべり、これで入試結果もわかったなといやな気がしたが、さいわい浪人しずにすんだ。雪にまつわる思い出である。

          □

「私はついチェスタートン風に次のように言いたくなってしまう。『ひとりのよき友、ひとつの安心できる場所、ひとつの好きな書物、ひとつのよき思い出。それがあればよき生である』と。」佐伯啓思「いかによく生き、よく死ぬか」。よい言葉だなと思いました。

「今一日のことを考へて見ても、明日のことが心配にならないこともないが、相当に運動して、相当に食慾を得て、飯をうまく食つて、懇意な友達と一緒に音楽でも聴いて、そして安眠が出来れば、相当の心配はあつても、どうやらかうやら自分は幸福であつたと其日を感ずることが出来る」。永井荷風「現実で満足だ」

佐伯啓思が挙げた幸福の要素~友人、安心できる場所、書物、思い出。 

永井荷風が挙げた幸福の要素~運動、食慾と飯、友達、安眠。

二人の文章は似た印象があるが共通しているのは友人のみ。かろうじて安眠と安心できる場所が通じているかな。しかし安心できる場所にテロの翳を見てしまうのが現代である。

二0二二年は狂信主義と全体主義にたいする心配の度合がすこしでも低減しますように。

          □

吉行淳之介が「大晦日」というエッセイに、紅白歌合戦について書いていた。文士がこのお祭りに言及するのはめずらしいのではないかな。白黒テレビの昭和三十年代の話である。「ベッドに腹這いのかたちで、首だけ横に向けてテレビを見ていると、その空騒ぎがしみじみ侘しくなる。悔いの多い一年を十二月三十一日に振り返って噛みしめる気分に、その番組がうまい具合に符号してくる。/いろいろな飾りをたくさんつけた衣装の女性や、裾模様の着物の男性などつぎつぎと出てくるので、涙の出るほどの反応が起こってしまう。悔いの多い一日は、深夜映画(それもなるべく愚作)をみることでマゾヒスティックな気分に浸っている私は、今年の大晦日もこの番組を見て過すだろう」。

私が紅白歌合戦を最後に見たのは何十年昔だったか。でも吉行淳之介の感性と諧謔と皮肉がブレンドされた文章の芸を味わうのはうれしい。ことしも紅白はみないけれど、紅白にまつわる文章の芸があればみてみたい。

 

芥川龍之介を読もう!(二)

まずはネットにある青空文庫芥川龍之介全作品を読んでみることをことしの読書の抱負とした。これを書いているいま、すでにとりかかっていて、王朝もの、切支丹もの、日本や支那の古典、説話に題材をとったものなど多彩な作品世界に魅せられている。これまでのところでとくに印象に残った三作品についてメモしておこう。

 

「女体」

中国の楊某という男がとりとめもなく妄想に耽っているうちに虱(しらみ)が寝床の縁を這っているのに気がついた。虱は寝床で裸のまま寝て安らかな寝息をたてている細君のほうに向かっているようであった。やがて楊の意識は朧げとなり、夢か現かわからなくなり、気がつくと楊の魂は虱のなかにはいっている。

楊=虱が這っていると、一座の高い山があり、それは白く凝脂のような柔らかみがあり、美しい弓なりの曲線を遥かな天際に描いている。そして楊は気づいた。山は細君の乳房のひとつであることを。かれは虱になってはじめて細君の肉体の美しさを認識できた。

フェリーニ8 1/2」やカフカを連想させるモダニズムの小説に感嘆した。中国の古典に依っているのだろうか、 だとしたら作者はどんなふうに改変して仕上げたのか。(ベースになった作品についてご存知の方がいらっしゃったら教えてくださいとTwitterに書いたら、ある方から想像ですが『聊斎志異』にあるような話ですねとお返事をいただいた)。あるいは芥川の創作かもしれない。虚実皮膜から現実と幻想の境界があいまいになり、そこに生ずる不条理で、シュールな物語!

 

「孤独地獄」

摂津国藤次郎(つのくにやとうじろう)すなわち津藤(細木香以、幕末の俳人、商人1822-1870)と放蕩三昧の禅僧、禅超の、袖すり会うも多生の縁のいきさつをしるした短篇で、芥川の母は細木香以の姪にあたっていて「この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云つてゐる」とある。

なかに「菫野や露に気のつく年四十」という津藤の句がある。自然と人生をめぐる感性が年四十あたりで変化してきたことの自覚で、多くの方が覚える人生行路の一端ではないかな。

仏説によると地獄にもさまざまあり大きくは根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分かたれ、その孤独地獄に自分は落ちたと禅超は語っていた。孤独地獄については「大辞林」に「『仏』地獄の一。現世の、山野・空中・樹下などに孤立して存在する地獄。孤地獄」とあったがあと二つの立項はなく、地獄にもポピュラーとそうでないところがあるようだ。

細木香以は森鴎外の作品名で知る人だったが「孤独地獄」を媒介にようやく「細木香以」を読んだ。それによると、父竜池の後を継いだ香以は四十九日が済んだ頃から遊所に通いはじめ、傍人の思惑を顧みないようになり、交友は俳諧師狂歌師、狂言作者、書家、彫工、画工に及び、大通として聞こえたが、豪遊の果てに零落し、「己れにも厭きての上か破芭蕉」を絶筆として明治四年十月十日に歿した。

鴎外はまた芥川から聞いたことのひとつとして「細木」のよみについて「細木香以の氏細木は、正しくは『さいき』と訓(よ)むのだそうである。しかし『ほそき』と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも『ほそき』と称したことがあるそうである」としるしている。

『増補幸田文対話』(岩波現代文庫)に収める山本健吉との対談で幸田文が父露伴の読書法について「一つのことばかりに専念するのでなく、八方にひろがって、ぐっと押し出す。軍勢が進んでいくようにとか言っていましたね」「氷がはるときは先に手を出して、それが互いに引き合ってつながる。そうすると中へずっと膜を張って凍る。知識というのはそういうもので、一本一本いってもうまくいかない。こういうふうに手が八方にひろがって出て、それがあるときふっと引き合って結ぶと、その間の空間が埋まるので、それが知識というものだ」と語っていた。わたしの読書が「孤独地獄」から「細木香以」へひろがり、やがて引き合うよう願っている。

 

「犬と笛」

大和葛城山の麓に住む髪長彦という若い木こりが三人の神様から、嗅げと命ずるとなんでも嗅ぎだしてくる犬、飛べといえば人間を乗せて空を飛ぶ犬、噛めといえばどんな恐ろしい鬼神でも噛み殺す犬という三匹の犬をもらい、誘拐されたり閉じ込められたりした姫君たちを救う物語である。

髪長彦に犬を授けた三人の神は「足の一本しかない大男」「手の一本しかない大男」「目の一つしかない大男」で、身体の一部を欠く者が常人のおよびもつかない力をもつ、こうした言い伝えは日本の各地に散在していて、柳田國男は「神の去来と風雨」に「土佐の寺川郷で昔或人が目撃したといふ山爺なども、ただ一本の足でぴよんぴよんと跳ねあるいて来たなどと、眼の迷ひかは知らぬがとにかくかういふ隔絶した一致がある。朝鮮でも中国でも、又北欧の前代神話でも、神を独脚に想像して居た記録が多い、といふだけは少なくとも事実であつた」と書いている。

三篇いずれも芥川の文学世界の広がりをよく示している。いま読んでいる「秋」は、姉が、好きだった従兄の大学生を妹も好きと知って、別に嫁ぐ、その姉妹の微妙な揺らぎを描いて松竹の大船作品を思わせる。

 

芥川龍之介を読もう!(一)

昨年の暮れ、鬼に笑われたくないけれど、来年二0二二年の読書の第一目標を芥川龍之介全集の通読とした。テキストはネット上の青空文庫の芥川作品を集成し『筑摩全集類聚版芥川龍之介全集』に準拠して並べたものだから、げんみつには全集ではないが、とりあえずここにある作品をすべて読むこととした。書いたからには有言実行としなければならない。そうして書簡や断簡零墨まで読みたくなれば岩波版全集に進めばよい。近所の図書館にあるのは確かめてある。

きっかけは石割透編『芥川追想』(岩波文庫)に収める「敗戦教官芥川竜之介」だった。 ここに芥川が横須賀の海軍機関学校の教官だったときの教え子の一人篠崎磯次大佐からの直話にもとづいたエピソードがある。書いているのは中央公論社出身の作家諏訪三郎(半沢成二)である。

「君達は、勝つことばかり教わって、敗けることを少しも教わらない。ここに日本軍の在り方の大きな欠陥がある」。敗けてはいけない「しかし勝つためには、敗けることも考えるべきだ」。

二十代半ばで海軍機関学校の嘱託教官となった芥川はあるとき授業でこう語った。そして「戦争というものは、勝った国も敗けた国も、末路においては同じ結果である。多くの国民が悲惨な苦悩をなめさせられる」と続けた。 

第二次世界大戦後、東久邇宮内閣で外務大臣に任命された吉田茂は、敗戦のときの総理大臣だった鈴木貫太郎に「戦さは勝ちっぷりもよくなきゃならないが、負けっぷりもまた大事なのだ。しっかりしろ」といわれたという。(吉田健一『父のこと』)。

「勝つためには、敗けることも考えるべきだ」は的確に日本の将来をみていて、鈴木貫太郎のことばに通じている。

おなじく「敗戦教官芥川竜之介」に武士と軍人の違いを語った箇所がある。

「昔の士は、武士と経済家とインテリが士だったのだ。そこへゆくと、君達は、単に職業軍人にすぎない」。

おなじく武を尊んだにしても「士」には経済家とインテリがリンクしていた。山本周五郎藤沢周平の作品はこの「士」があって精彩と魅力を放っている。 いっぽう職業軍人は鉄砲や大砲の扱い方の指導、物資調達、作戦を練るなどの機能に分かれた分業の世界である。その分業に徹したならまだしも、軍人たちは大日本帝国憲法統帥権の独立を盾に政治に横槍を入れ介入を繰り返した。そして政治の側からは軍部に介入できない、歪んだ立憲君主制だった。

それにしてもこのとき二十代半ばの芥川の見識はどこから生まれたのだろう。小島政二郎が『長篇小説 芥川龍之介』に書いているように「彼は私にとって先生だった。少くとも、私の友達の中に、こんなに知識を持ってい、こんなに教養の豊かな友達は一人もいなかった」という事情はわかるが、これではあまりに抽象にすぎる。

大正十二年四月の日付のある「保吉の手帳から」に、海軍機関学校で英語を教えている教官保吉が、テキストのあまりのつまらなさに辟易し「こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁じたい興味に駆られることはない、元来教師と云うものは学科以外の何ものかを教えたがるものである。道徳、趣味、人生観、ー何と名づけても差支えない、とにかく教科書や黒板よりも教師自身の心臓に近い何ものかを教えたがるものである」、しかし生徒は学科を教わりにきているのだからとそこから離れるのを自制するくだりがある。「敗戦教官芥川竜之介」にあるエピソードはこのとき以上に退屈でつまらないテキストをまえにしたときの保吉=芥川のものだったとすれば愚にもつかないテキストの大きな功績といわなければならない。

それはともかく、作品を通して芥川という人に迫りたい。もちろんわたしだって「蜘蛛の糸」や「杜子春」「藪の中」ぐらいは読んでいるが、もっともっと多くの作品を読むことでこの人を知りたい。こうしたいきさつからことし二0二二年の読書の抱負は芥川作品の通読とした。

ついでながら『芥川追想』を知ったのは「週刊文春」に連載されていた坪内祐三文庫本を狙え!」の一篇で坪内は〈芥川竜之介は「将来に対する唯ぼんやりとした不安」を理由に自殺する。つまり的確に日本の将来を見ていた。/その芥川の文学を「『敗北』の文学」として否定した宮本顕治は文学オンチ、いや政治オンチの凡庸な人だ〉と書いている。おっしゃるとおりである。

「天才バイオリニストと消えた旋律」

一九五一年、将来を嘱望されている若手ヴァイオリニスト、ドヴィドル・ラパポートのデビューコンサートが開かれるその日、かれは忽然と姿を消した。リハーサルを終え、あとは本番を迎えるばかりだったのに。

冒頭に提出されたこの謎にたちまち引きつけられました。そうなると、あとはいぶかしい謎がどのように解かれ、いかなる着地が用意されているかを興味津々で眺めるばかりです。じっさいわたしは目を凝らしっぱなしで、緊張をほぐすひとときもありませんでした。

ポーランド生まれのユダヤ人ドヴィドルは天賦の才をもつ少年としてロンドンの音楽プロデューサー、ギルバート・シモンズの家に寄宿し、演奏家への道をあゆみはじめ、そのなかでシモンズ家の息子で同い年のマーティンと心を許しあう仲となります。

そして戦時を生き抜き、デビューの日を迎えました。九歳でポーランドからイギリスにやって来て十二年が経っていました。そのかんポーランドの家族がどうなったのかは不明のままです。このなかで突然失踪したのはなぜか。幕が上がる直前のドヴィドルの不在を、息子のように慈しみ育てたプロデューサーは死んだのではと頭を抱え、息子のマーティンは最後まで現れると信じていたのですが期待は裏切られてしまいました。

f:id:nmh470530:20211220132920j:image

三十五年後、父の跡を継いだマーティン(ティム・ロス)はオーディションでバイオリン松脂を舐める癖のある若いバイオリニストを知ります。訊けば街頭で日銭を稼ぐ老バイオリニストの癖を真似ていて、それはドヴィドルの癖にほかならなかった。これを機にマーティンはドヴィドルの行方を追いはじめます。ロンドン、ワルシャワ、ニューヨーク……

失踪の原因はなんだったのか、ドヴィドルはその後どうなったのか、三十五年後のいま生存しているのか。重層化された謎が、戦前、戦中、戦後、そして八十年代と行きつ戻りつしながら解き明かされてゆきます。

これまで音楽作品を手がけてきたフランソワ・ジナール監督は本作でミステリーと音楽とをクロスさせてみせました。ならばミステリーとして冒頭の謎の解明は合理的で納得できるものだったのかといえば偶然と強引に頼った点でいささか難はあったけれど、音楽映画(原題The Song Of Names)としては余韻を残した立派な結末だと思いました。

演技陣ではドヴィドルとマーティンの少年期を演じた役者たちが光っています。

(十二月十六日 ヒューマントラストシネマ有楽町)