柳橋

永井荷風ゆかりの地の散歩で久しぶりに柳橋界隈を廻った。ここは新橋、葭町、人形町新富町などととともに昔の東京を代表する芸者街、かつての風情でいえばかろうじて屋形船にその名残りがうかがわれる。

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柳橋と対比されるのが新橋で、荷風柳橋の上品で、あっさり、さっぱりした気風がよいといい、新橋には、客に地方出身の政治家や役人が多く、名古屋、秋田、馬関、北海道なぞからの出稼ぎの芸者衆がお相手する座敷は帝国議会の傍聴席のようで、それに河豚や鮭、膃肭臍などのお国自慢がうるさいと手厳しい。(「東京花譜」)

荷風が尊敬した幕府の遺臣で、明治政府の出仕要請を拒否し、ジャーナリストに転じた成島柳北薩長の成り上がり者が多いからと新橋の酒楼に招かれてもあがらず、荷風はそこに旧幕臣の節操をみたのだった。その柳北は『柳橋新誌』に、神田上水を飲んで育った江戸っ子女子は素顔の美しさが自慢で、せいぜい薄化粧で十分と、いまいうスッピンの魅力を説き、柳橋の芸者の気っぷとして「任侠(イサミ)を喜んで其の財を吝(おし)まず、然諾(タテヒキ)を重んじて其の人を辱しめざる」( 然諾は義理、意気地、義理や意気地を立て通して客に恥をかかせない)「姿容潔(アカヌケ)にして粧飾淡く(サラリ)、進退動止(タチイフルマイ)其の地を失はず、言辞応対、其の時を曠(むな)しうせざる」としるしている。

もちろん柳北も荷風も新柳二橋が色と欲のうごめくどぶどろ稼業のところと知ってはいたけれど、比較して文明開花の新橋より、江戸の名残りの柳橋が好みだった。

とはいえ小説家としての荷風柳橋に思い入れはあっても新橋の観察も怠りなく、この地を舞台とする短篇集に『新橋夜話』があるのはご承知のとおりである。

この点については坂上博一氏が、もともとゾラやモーパッサンによって鍛えられてきたリアリスティックな眼光が、金銭が幅を利かせ、打算が渦巻く俗物社会の実状をえぐるにふさわしい舞台として新橋を選び取らせた、さらに新橋にも柳橋的要素を滑りこませて、新時代の花街風俗図絵を描こうとしたのではないかと論じている。(「荷風における新柳二橋」岩波書店新版『荷風全集』第八巻月報)

なお、下の神田川隅田川にそそぐ写真は両国橋から撮ったもので、わたしの好きなスポットです。

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落語の「船徳」では道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿大枡の二階に居候の身となった若旦那の徳兵衛が、船頭になりたいといいだしたあげくに大騒動を起こしたのだった。

船頭となった徳兵衛は、柳橋から大川へ出るのにたいへんな苦労をする。写真にあるようにわずかな距離だけれど「たしかもう少し漕げば大川ですから」というセリフが笑わせる。大川へ出ると、土手の上にいる竹屋のおじさんが、つい先日船から子供を連れた女の人を落とした徳さんを心配している。

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