『持ち重りする薔薇の花』

旧財閥系の企業の元社長でいまは名誉顧問、以前は経団連の会長職にもあった老実業家梶井玄二が旧知のジャーナリスト野原一郎に語る、世界有数の弦楽四重奏団ブルー・フジ・クヮルテットの三十年にわたるあれやこれやのお話。
梶井の条件は、プライヴァシーにかかわることが多く、かといってそこのところを除いてしまうとおもしろくもない内容になる、だから関係者、具体にはクヮルテットの四人と配偶者および配偶者だった者が全部いなくなるまで発表してはならないというもので、そのため両者は弁護士が作成した契約書を取り交わす念の入れようだ。
そこでこの小説の読者は、公表がはばかられるような話に心ときめかせ、もしかすると野原の孫の代になるまで表に出ない「秘話」を、いまここで事前に野原とともに聞くことになる。千四百円の新潮社の新刊でなんだか得をしたというか、なかなか入れない特権的な場所に案内された気にさせられる。さきごろ文化勲章を受章した小説家はサービスが上手だよと感心したしだいだった。 
クヮルテットの第一ヴァイオリン奏者厨川はジュリアード音楽院の学生だった頃に、きれいな薔薇の垣根の家を見て、弦楽四重奏団というのは四人で薔薇の花を持つようなものだと思った。そして何年かしてからそれを思い出して、薔薇の花束を一人ならともかく四人で持つのは面倒だし、厄介だし、持ちにくいと思い返した。それを梶井に述べたところ、元経団連の会長は薔薇の花束も見かけよりずっと持ち重りしそうだと応じた。表題の由来である。




梶井は多年にわたり一流クヮルテットのスポンサー、パトロン、相談相手であった。八十年代のはじめ、のちの企業家が不遇をかこってニューヨーク勤務にあった頃にすき焼き店へ入ったところですき焼きを一人でつつくのは寂しいなと後悔する。そこへ様子のいい若い日本人男性がやって来る。仲居のお浜さんが、あら、いい人が来たと気を利かして事情を話すと御馳走になるのは嬉しいけれど、まもなくおなじジュリアード・スクールのクヮルテットのメンバーが来ますとのこと。梶井は「いいよ」と承知する。企業家と四人の音楽家のなれそめ(といってよいのかな、男ばかりなんだけど)だった。
永井荷風『墨東綺譚』では、驟雨のなか、傘を広げて歩きかける「わたくし」に「檀那、そこまで入れてつてよ」というなり玉の井の娼婦お雪さんが傘に入ってくる。見事な出会いだなと感じるたびに、いったいに小説で登場人物をどんなふうに遭遇させるかは難問だろうなと思ったりする。企業家と音楽家のそれは作者としてずいぶん苦労したのではないかしら。メンバーの一人が遠縁の男の子だとか、企業イメージの向上を図るためクヮルテットを後援したなんていうのはいただけない。ニューヨークですき焼きをいっしょにつついた縁、取り持ったのは気の利いた仲居さんというのは、まだ実業家としても音楽家としても「薔薇のつぼみ」の段階にあった男たちの出会いの場としていい線行ってる気がする。
たぶん作者創作のゴシップなんだろうけど、どこそこのクヮルテットは、じつにいいアンサンブルなのに、第一ヴァイオリンが、もし人生がもう一つあったら何をしたいかと質問されて、第二の人生では心理学者になって、なぜクヮルテットの四人の仲がぎくしゃくするのか研究してみたいと答えたほどの人間関係だった。
そしてこの第一ヴァイオリン厨川、第二ヴァイオリン鳥海、ヴィオラ西、チェロ小笠原からなるブルー・フジ・クヮルテットも音楽家としては順風満帆の出来で、クヮルテットという薔薇をみごとに開花させたのだったが、それとはうらはらに人間関係はぎくしゃくする。ここのところが「持ち重り」というわけで、音楽論をめぐる対立もあるけれど、多くは色事でしかも配偶者が絡む。関係者がいなくなるまで公表が差し控えられる所以である。三国志的世界でさえなかなか複雑なのに、愛憎半ばするなかでの不倫や嫉妬、裏切りは一対三、二対二といった関係を生じさせて厄介なことになる。
いっぽうこれを語る梶井も実業家として薔薇の花を咲かせたのだったが、こちらにも「持ち重り」するところがあり、クヮルテットの話をするうちに、そこのところも話題となる。
考えてみれば、いや考えなくてもか、ハイ・ソサエティの人たちだって生活者なのだから、芸術家も実業家もその点ではそれなりの苦労があるのはあたりまえである。小説の終わりのほうで、聞き手の野原が、だけどそうした苦労、四人の人間関係のもつれは音楽的な深まりをもたらすきっかけとなったのではないかという。それを承けて梶井が「人間関係の面倒くささといふまことに無慙な、世俗的な俗悪きはまるものと、藝術といふ魔法みたいなエンジェリック・・・・・・天使的なものとが一挙に衝突して効果をあげてゐるのかもしれない」と口にする。
ややこしい事情に裏打ちされた弦楽四重奏。ひょっとしてぼくのこの下手なブログだって、無意識のうちにそれなりの生活者の苦労がなんらか作用しているのかもしれません。ここへ来て小説は哀歓こもごもの普遍性ある人生論の色彩を帯びる。
もとよりこの本にはクラシック音楽、とりわけ弦楽四重奏をめぐる話題、蘊蓄も多く、そこでこの記事はシューベルトの「死と乙女」(歌曲ではない弦楽四重奏のほう)を聴きながら書きました。