「君が代」と「民が代」

就活を素材に若者たちの心模様を描いた「何者」を観た。三浦大輔監督は若者の精神風俗を描くのに巧みで、演劇界出身らしい構成も面白く、会社訪問の経験をもたない前期高齢者としてはエントリーの経緯などこれまで知らない世界を知ることができてありがたかった。
就職活動の情報交換で集まった男三人、女二人の大学生が意見を交わし、SNSで思いや悩みをうちあけ、やりとりをする。やがて男女二人の就職が内定するとそれまでの人間関係が揺らぎはじめる。もともとメンバーシップの弱い集団のなかで就活の終わった二人に対し、不安と緊張が続く三人の内面がだんだんとあらわになってゆく。
日本橋の映画館からの帰りに立ち寄ったお店でビールを飲みながら映画の若者たちの行く末を思った。
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Twitterを眺めていると昨二0一五年に八十六歳で歿した俳優の加藤武が新宿区立大久保中学(現在は東戸山中学校と統合され新宿中学校)で英語の教員として教壇に立ったことがあり、また、ちあきなおみが同中学の卒業生であるとの記事があった。加藤武については関川夏央『昭和が明るかった頃』にも「教職課程をとった慎重な性格の加藤武」は一年間大久保中学の英語教師をつとめたとある。念のため、早稲田の英文科を出た加藤が教壇に立った時期とちあきなおみの卒業年度を調べてみた。
一九二九年生まれの加藤武が教職を辞して文学座入りしたのは一九五二年で大久保中学に奉職したのは五一年、つまり昭和二十六年度のことだった。いっぽう、ちあきなおみは中学三年生で大久保中学に転校している。一九四七年生まれなので残念ながら加藤先生との接点はない。
ついでながら横浜の女学校で音楽の教師だった渡辺はま子原節子を教えたそうで、ほかにこうした師弟の取り合わせがあれば知りたいな。
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三十数年ぶりに『イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー』を再読した。映画スターの自伝の最高峰、すくなくともその一冊であり、原著は一九八0年、邦訳は八二年一月に新潮社から刊行されている。バーグマンが亡くなったのは八二年八月二十九日だから、わたしが最初に読んだときはまだご存命だった。
そのときはスウェーデンからアメリカに渡り、「カサブランカ」はじめ数々のハリウッド映画に出演、そしてロベルト・ロッセリーニとの大スキャンダルなど映画史のハイライトに惹かれたが、今回読み返すと年齢が作用しているのだろう、ハリウッドから追放された苦難の日々を支えた舞台への情熱や晩年の乳癌の治療といったところにしみじみとした気持を覚えた。
本書は一九七九年十一月に行われた病院建設のチャリティ・ショーで結ばれる。会場にはリックの店のセットが設けられ、バーグマンの夫役だったポール・ヘンリードが「さあどうぞ、イングリッド。リックの店へようこそ」と呼びかける。彼女が「時のすぎゆくままに」をハミングするのをフランク・シナトラが引き取って歌う。ピアノは亡くなったドーリー・ウィルソンに代わりウィルソンの縁でテディ・ウィルソンが担当した。映像が残っていれば垂涎の的である。

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イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー』によると一九六一年公開の「さよならをもう一度」(これはアメリカ版の題名、フランス版は原作とおなじ「ブラームスはお好き?」)はパリでは大当たりをとったもののアメリカでは酷評されたという。当時のアメリカとフランスの男女関係をめぐる社会意識を示すエピソードだ。
物語はある男(イヴ・モンタン)と同棲するアラフォーの女(イングリッド・バーグマン)が、彼女を慕う、ずいぶん年下の青年(アンソニー・パーキンス)と恋仲になるが、やがて同棲中の男のもとへ帰って行くというお話。
あるアメリカ人記者はバーグマンに面と向かって「どうしてあんなひどい映画に出たんですか?」「ひどい映画だーぞっとしますよ」と言い放った。男女のことに寛容なフランスとお堅いアメリカとは対照的だ。そこで思うのだが、半世紀以上経った現在のアメリカ人はこの作品をどんなふうに観ているのだろう。
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先日旅した旧ユーゴスラビア地域の事情を知りたくて岩田昌征『二十世紀崩壊とユーゴスラヴィア戦争』(お茶の水書房)を読んでいたところ興味深い君が代論があった。著者は君が代だけでは日本国憲法主権在民の精神を十分に表現できていないから、第二連に「民が代」を置いて補完しなければならないと述べ、このことを十数年来周囲の知人や友人に説いてきたという。
氏は短歌を趣味とされていて「民が代」の一例として自身の歌「民が代は咲き匂ひける桜花こぞもことしも来る歳々も」を挙げる。日本国憲法君が代をめぐる議論のなかでもこれはきわめてユニークな主張だ。
たとえばニュージーランドの国歌は一番が原住民のマオリ語で、二番が英語で歌われる。また南アフリカ共和国国歌は「神よ、南アフリカに祝福を」(コサ語、ズールー語)と「南アフリカの呼び声」(アフリカーンス語)の二曲をひとつに編曲したもので、一九九七年にネルソン・マンデラ大統領の大統領令として制定された。
いずれも細心の配慮といってよく、もし君が代に第二連「民が代」ができたとすれば、日本国憲法君が代の整合性にわだかまりを覚える人々も心置きなく歌えるようになるだろう。
岩田氏の歌をもう一首。
もののふの箙の梅の香を偲び華なきいくさコソヴォ悲しき」。
箙に梅の花枝をさして戦ったという鎌倉武士のいくさの現実は地獄絵さながらであったが、これは殺し合う双方に所領争いや家督争いなど人間臭い有限の動機をもつ互いに向き合った殺し合いで、後世の人々はこの人間臭さをもつ悲劇に薄化粧をほどこし箙の梅の香を偲んだ。それにたいし旧ユーゴスラビアの内戦では多民族の一方すなわちボスニアのみを加害者とし、他をもっぱら犠牲者としてNATOは上空五千メートルから空爆を行った。NATOという市民的軍事プロフェッショナルによる「人道的介入」殺人、人道という美名を附した殺人は「華なきいくさ」である。以上、作者自身の評釈を要約してみた。
サラエボの旧市街の目抜き通りはカトリック地区、正教地区、イスラム地区に分かれていて民族、宗教、政治の複雑さを感じさせたが、舗道には複数の文化が出会うところと書かれてあり、多様性の共存が意識されていた。

サラエボユーゴスラビアからの独立をめぐってはセルビア人の蛮行が大きく報道された。これについて米原万里嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)には「各勢力とも優劣つけがたい残虐非道を発揮した。(中略)にも拘らず、セルビア人勢力のそれだけが衝撃的なニュースとなって世界を駆けめぐり強固な『セルビア悪玉論』を作り上げてしまった」「この一方的な情報操作のプロセスは今後丹念に検証されるべき」でありさらに宗教面では「現代世界の宗教地図を一目するならば、国際世論形成は圧倒的に正教よりもカトリックプロテスタント連合に有利なことが瞭然とする」とある。
セルビア勢力は国際的な非難を受けやすい状況にあり、それを後押ししたのが「戦争広告代理店」だった。そこのところの事情は高木徹『ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』(講談社文庫)を読むと国家をクライアントとする広告代理店がどのように「セルビア悪玉論」をつくっていったかが詳述されていて箙の梅の香を偲ばずとも寒々とした気持になる。
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寝る前か朝のめざめに鈴木道彦訳『失われた時を求めて』をぽつりぽつり読んでいる。自分の力の及ぶ作品ではないと見極めはついているから全巻読破の自信はないのだが、ともかく行けるところまで行ってみようと一念発起して手にした。それに余得もあり、就寝前だと睡眠を促進してくれ、めざめのときは茫洋と気だるさにたゆたう。そしてときに美しい記述にうっとりする。

スワンの心はふさぎ気味で、少し田舎に行って休息したいと思うが、恋するオデットがパリにいるあいだ一日でもパリを離れるなんて勇気はない。「春の最も美しい日々であった。彼は石の町を横切り、ひっそりとしたホテルに閉じこもってみるが、無駄だった」。そのとき浮かぶのは自身の持つ庭園だった。コンブレーの近くにスワンが持つ庭園では「四時になると、アスパラガスの苗床まで着かないうちに、メゼグリーズの野原を渡る風のおかげで、忘れな草グラジオラスに囲まれた池のほとりと同じくらいの涼しさをあずまやの下で味わうことができた」。そして夕食のテーブルにはスグリや薔薇の香りが漂う。