「マネーボール」

貧乏球団のため、優秀で年俸の高い選手は雇えず、低迷が続くアスレチックス。同球団のゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンブラッド・ピット)が、プレー経験はないものの、イェール大学で経済学を学び、特異なデータ分析を実践しているピーター・ブランド(ジョナ・ヒル)と出会ったことで、のちに「マネーボール理論」と名付けられた手法によるチーム編成に取り組みはじめる。
ブランドを参謀役に付けたビーンは、ホームランとヒット数偏重を排し、四球やエラーによる出塁率をも重く見て、他球団が見放そうとしている選手を安く獲得し有効活用を図ろうとする。たとえば肩が弱くなった捕手を獲得して一塁手にコンバートするといった具合で、そのためには自球団の選手の積極的な放出も辞さない。
低予算のもとで強いチームづくりをめざす「マネーボール理論」は球界の伝統と衝突する。アスレチックス内部でもコンピュータによるデータ分析なんかで野球はできないと、古株のスカウトマン、アート・ハウ監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)そして選手たちの反発を生む。盛りの過ぎたロートル捕手のコンバートよりも、すこしでも打率が高くて守備のよい選手を獲るべき、というわけだ。
独自のマネジメントはすぐには結果をもたらさなかったが、それでも改革を進めた結果だんだんとチーム状況は改善してゆく。



ハリウッド伝統の野球映画の常套を踏まえながら、メジャーリーグにおける弱小球団の経営のあり方、低予算のもとでのチーム編成といった視点からGMにスポットをあてた秀作ドラマである。
野球を扱った映画は数多いが監督やGMにスポットをあてた映画はめずらしい。監督では志村喬プロ野球の監督を演じた「男ありて」があるが、GMを主人公とするのは本作がはじめてなのではないか。トレードや解雇を通知するその姿を通じてメジャーリーグの人事の厳しさを印象づけた場面などこれまでの野球映画からは思い浮かばない。「カポーティ」につづくベネット・ミラー監督の冒険心が窺われる。
ビリー・ビーン奨学金付きでの名門大学への進学を振ってメジャーリーグに身を投じた。プロのスカウト連中はお世辞ではなくお墨付きをあたえたけれど、活躍にはほど遠く、選手生活を断念してフロント入りし、いまは弱小球団のGMとなっている。
参謀となったピーター・ブランドに「入団前のおれをきみだったらどう評価する」と訊ねると「契約金なしの九位指名といったところですかね」との答が返ってくる。ビーンは苦笑するほかないが、選手としての実績はブランドの正しさを証明している。だから認めざるをえない。そのことは自分を高く評価してくれた球界の価値観、考え方に対する違和感、不信、否定に繋がる。GMへの転身は高い評価を得ながら実績の乏しかった選手生活の結果であり、鬱屈した気分の増幅することはあってもその逆はない。それゆえしばしばものを投げつけ、蹴りなどして荒れる。しょっちゅう菓子類を口にするのは気分をまぎらわすためだろう。
別れた妻とのあいだに一人娘がいて、ときに会いにやって来てくれる。負けが込んでくると年端もゆかない娘から来年の仕事はあるのと心配される始末だ。子供が父を心配する姿がいとおしい。負け犬一歩手前の男が娘との心の交わりを支えとし、鬱屈を「マネーボール理論」推進のアクセルとしてチーム改革に着手する。そのハードボイルドを想起させる人物像は魅力的であり、ブラッド・ピット会心の一作と評価したい。
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前回の記事で、映像を通じて肉体、感情、精神、思想、論理で以て人と人とが関係を取り結ぶところに映画の醍醐味があり、法廷は対立の坩堝なのにもかかわらず「ステキな金縛り」での検察、弁護双方はあまりに早くなれ合ってしまうと書いた。
いっぽう「マネーボール」のチーム編成をめぐる対立は映画全編にわたり、最後のテロップにまで「ビリー・ビーンはいまも地区優勝をめざして尽力している」との文言が流れる。それぞれのチームが置かれた状況があるから、どちらが絶対的に正しいとはいえないだろうし、どこかの国の政治のように改革派と守旧派で括られるものでもない。いずれにせよ一気通貫の対立はドラマの心棒であり、人間描写に厚みをもたらしている。マイケル・ルイスの原作の魅力であり、アーロン・ソーキンスティーヴン・ゼイリアンの脚本の力である。(十一月十九日TOHOシネマズ六本木ヒルズ