観覧車と並木道

ウィーンはクラシック音楽の聖地だが、わたしにとってまずは「第三の男」の舞台、すなわち映画の聖地のひとつである。
一九六九年に大学生になって上京し、いまはない大塚名画座でこの映画をみてあまりの素晴らしさに翌日も足を運んだ。ビデオのない時代で名作と聞くばかりだったが、その度合は聞きしに勝るものだった。
二0一二年秋にはじめてウィーンを旅したとき、映画のロケーションポイントを訪れてみたくて、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)の招きに応じて米国からやって来た作家ホリー・マーティンズ(ジョセフ・コットン)が滞在するザッハー・ホテルとおなじ建物にあるカフェ・モーツアルト、ライムとマーティンズが待ち合わせるプラター公園の大観覧車、そしてラストでライムの恋人アンナ・シュミット(アリダ・ヴァリ)がマーティンズに一瞥もしないまま去って行く中央墓地の並木道の三か所を照準としたのだったが時間の関係で観覧車と並木道は断念せざるをえなかった。(よろしければ本ブログニ0一二年十一月五日の記事を参照してみてください)
さきごろウィーンを再訪し、心残りだった観覧車と並木道にようやくたどりついた。一月九日のことで、大げさなたとえかもしれないけれど聖地巡礼をはたしたような気分だった。
この日、午前中はおなじツアーに参加している方々といっしょにシェーンブルン宮殿ベルベデーレ宮殿などを観光したが、事前に午後の単独行動を申し出ていて、二つのロケーションポイントへ行くこととし、まずはトラム、地下鉄、バス共通の一日自由乗車券を購入(8ユーロ)、明るいうちに、というのは午後四時を過ぎると昏くなるものだから食事はあとまわしにオペラ座前からトラムの71番線で中央墓地へ向かった。

「ウィーン観光情報」というサイトには「(「第三の男」の)中央墓地での撮影は、カール・ルェーガー記念教会裏手の並木道。この並木道は第1門から旧ユダヤ墓地の横を通り教会裏に真っ直ぐ伸びる中央墓地最長の並木道です。撮影の季節は初冬の穏やかな日のようです。なお、中央墓地の並木道はどれも全部同じなので、どの並木道の写真を撮っても同じ写真になります。ガイド同行で車が無い限り、時間に制限がある一般的な観光では薦められません」とあるが、そんなこといっちゃいられない。
そこでトラムに乗ったしだいだが、路線地図にはZentralfriendhofとあり、71番線の最終停留所なので安心していたところ、車内の経路図にはZentralfriendhof1・2・3とある。観光客のためにバスを通しているほど広い墓地だからトラムの停留所も三つにわたっている。
さあ、困った。もちろんカタコトの英語でExcuse meとあいなるが「第三の男」を知る若い人は少ないと判断し、年配の方に訊ねたところ、さいわいご存知で、それなら2でいいよ、とのお答えだった。
降車して門をくぐるとすぐのところにカール・ルェーガー記念教会があった。こうして第一目標地点にたどりつき、並木道を前に感慨にひたったあと散歩しているとベートーベンの墓地に行き当たった。掲示板があり、ほかにもシューベルトブラームスヨハン・シュトラウス一世、二世等々、さらには映画、演劇でおなじみ「アマデウス」のサリエリ墓所の位置が示されていた。
ベートーベンの墓地に三脚を構えて写真を撮っている、たぶん中国系の若者がいて「音楽家の墓を訪ねているんですか」と話しかけられた。そこで「『第三の男』というとても有名なクラシック映画があり、ここはそのロケ地のひとつなので来てみたんだ」と答えたところ「その映画は知らないけれど、ずいぶんトリヴィアなことしてるんですね」と驚いていた。

ベートーベンの墓に合掌し、若者にあいさつして、再度トラムに乗りオペラ座前に引き返し、そこから地下鉄U1線でプラター公園(Praterstern)をめざした。600万平方メートルの広さを誇る公園の一角が大観覧車を有する遊園地で、ありがたいことに駅を出るとすぐ目に入った。
遊園地の営業は三月から十月までの午前十時から午前一時だから観覧車には乗れなかったがアトラクションのなかではいまも中心的存在である。そして乗降口にはハリー・ライムの似顔絵が描かれてあった。

ご承知のように、ここでライムは「イタリーではボルジア家三十年の圧政の下に、ミケランジェロダヴィンチやルネッサンスを生んだ。スイスでは五百年の同胞愛と平和を保って何を生んだか。鳩時計だとさ」との映画史上屈指の名せりふを口にする。グレアム・グリーンの原作、脚本にはない文言で、一説にオーソン・ウェルズは出演するにあたり、このせりふを入れるのを条件としたという。

遊園地をあとにしたのが午後四時ちかく、プラター公園駅に戻りようやく昼食をとった。
ネット情報によると「第三の男」の跡をたどる散歩ツアーが週二回曜日を決めて行われており、ザッハー・ホテル、カフェ・モーツアルト、観覧車、墓地にくわえ下水道や石畳の小径などを案内してくれている。グレアム・グリーンは原作をキャロル・リード監督に献呈するにあたり「尊敬と愛情と、そして、〈マキシム〉や〈カザノヴァ〉や〈オリエンタル〉で過ごした数々のウィーンの早朝の思い出を込めて。」としるしていて、あるいはツアーでは〈マキシム〉や〈カザノヴァ〉や〈オリエンタル〉といったキャバレーのその後の消息も知れるかもしれない。今回は曜日が合わなかったけれど機会があれば参加してみたい。
といったところが「第三の男」をめぐるわたしの「トリヴィア」な旅でした。