夏季鍛錬

アイルランドでは勤務の週四日制が広がりつつあり公的な実証実験も行われていると、NHKBSの国際ニュースが特集で報じていた。実験はアメリカ、イギリス、オーストラリアでも予定されていて、背景にはたくさんの報酬より自分の時間を大切にしたいという意識の広がりが指摘されている。医療、介護、教育など職種によっては困難だろうが、週四日制のもと順調円滑に業務が推進できるのであればまことにけっこうではないか。

いまはどうか知らないが平成のはじめ当時勤務していたお役所では五日間あった夏季特別休暇を夏季鍛錬と呼びならわしていた。休みでは格好がつかないからと鍛錬としていたのである。そのころは休暇にうしろめたさがこびりついており、五時から男のなんとかが誇らしげだった。仕事好きよりも中毒に近い。

荻生徂徠徳川吉宗に献じた政治改革論『政談』で、役人は暇のあるほうがよい、とりわけ上に立つ大役の人ほど暇がなくてはいけない、というのも政務の全体を所管する要人は社会の全体を忘れては十分な役割が発揮できない、そのためには時間に余裕をもって日ごろからあれこれ物事を考え、ときには学問に親しむべきである、にもかかわらず彼らは「毎日登城して、隙なきを自慢し、御用済みても退出もせず」「代り代り出ても御用は足るべきを、何れも鼻を揃へて出仕し、御用なくても御用ありがほになす」と江戸城の大役たちを批判した。夏季鍛錬という言葉には徂徠が批判した役人根性の伝統が作用していたのである。

コロナ禍のすこしまえ二0一九年の末にマルタ共和国を旅した。面積は東京二十三区の半分ほど、人口はおよそ四十三万人、ここはイギリス統治領だったから社会システムもイギリスの影響が強い。税金は収入の三割ほどを持っていかれるが、医療、教育はタダ(大学生には生活費が支給される)で特段の不満はないという。ガイドさんは、仕事はほどほどに日々をゆったり楽しく、勤務時間を超えて働く人は見たことがありませんと語っていた。おそらく実証実験の必要はないだろう。

吉田茂国葬の日

「殺人を無罪にする方法」(Netflix)シーズン1は法廷ドラマとミステリーをひとつにした興味深い内容だったがすべてを視聴するとなると6シーズン、90エピソードにのぼる。隠居とはいってもこれを全篇見るのはきつくシーズン1で終えることとした。あえて難をいえばセックス談義が多くてしつこい。

評判のよいTVドラマはシーズンを重ねやすく、しかしあまり数が増えるとどんくさいわたしは、ゴタゴタして整理がつかなくなる。その点でいまAmazon prime video で鑑賞中の「COLD CASE 迷宮事件簿」は7シーズンだが一話完結なので親しみやすく、まもなくシーズン4にはいる。どこまで行けるかはともかくひとつのエピソード四十分余りは読書の休憩時間や食事の待ち時間を過ごすのに都合がよい。

NHK朝の連続テレビ小説大河ドラマとはご縁がなく、いま気づいたかと嗤われそうだが、どうやら連続とか大河に弱いというか長いとうるさくなる気質で、ストーリーをたどるのも苦手である。

読書、映画、長距離走、晩酌といったお楽しみに、長い長いTVドラマを加えるのは慎重な選択を要する。

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「結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。」

「彼は二十代に結婚した後、一度も恋愛関係に陥らなかった。なんという俗悪さ加減!」

ともに芥川龍之介侏儒の言葉」より。

性欲を暴風雨とすれば結婚は防波堤である。ゆえに「結婚は性慾を調節することには有効である」けれど、堤はときに決壊するのはご承知の通りで、この決壊を受けて「恋愛を調節することには有効ではない」。

もとよりわたしにそうした経験はなく、二十代で結婚したあと一度も恋愛関係に陥らなかったから「なんという俗悪さ加減!」であるが、それでも「山の神」を崇めるほうを選ぶ。広辞苑の語釈に、山の神=自分の妻の卑称とあるが、とんでもない、敬称ではないか。 

辻嘉一「鮎」に鮎の塩焼をおいしく食べるには、焼きたての熱あつをのがさず、なりふりかまわず指も使って食べるにかぎるとあった。つまり頭から骨を手際よく抜いてなんてしていると熱あつにはありつけず、すこしでも早く熱い旨さを味わうことが肝心であり、わたしも実践してきた。

困るのは蟹で、嫌いではないが甲羅を取るのに苦労するからやっかいだ。むかし、山の神に、これほど食べるのに苦労する食材は困るなんてめずらしく文句を口にしてたいへん叱られた。けっこうな値段で買ってきて文句をつけられたのだから当然で、こういうのを神をも恐れぬバチ当たりという。爾来反省しております。

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「埋木の花さく事もなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」

平安時代末期の武将にして歌人だった源頼政は平家の専横に不満が高まるなか後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒令旨を伝えたが露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受け宇治平等院で自害した。うえは辞世で、花は桜だろう。

ながの別れには桜をよんだものが多い。ただし辞世=桜という思考範型に安易に寄りかかりたくない。だいじなのは加藤楸邨がいうように「一つの歳時記的季語にはすこぶる多くの手垢から浸みこんでいて、知らず識らずの中にその手垢まみれの型にすがって発想することが起りがちだと思う。大切なのはまず花や樹木に直面して、しんそこから心を動かすことだ」。(「花中往来」)

辞世に花は似合いだが、酒もいいな。

慶安のころ江戸は大塚に地黄坊樽次という酒客がいて「南無三宝あまたの樽を呑干て身は空樽にかへるふるさと」を辞世とした。井上ひさし編『ことば四十八手』に収める「滑稽辞世三十六歌撰」にある。同書からもうひとつ傑作を。

「碁なりせば考(コウ=劫)をも立てて生可(いくべき)を死る道には手もなかりけり」本因坊算妙。

話を花に戻すと、水上勉はいつのころからかコスモスに仏花のような気がするようになったという。(「コスモスのこと」)

秋桜といった文字からの連想ではなく、作家の感性であり、心を動かされた経験にもとづくものであろう。ちなみにコスモスの原産地はメキシコ、ギリシャ語では「飾り」を意味している。

メキシコ原産のコスモスの種子が日本に入ってきたのは幕末だというから歴史は浅い。そのコスモスを八戸とその近辺つまり南部地方では仏花として火葬場をコスモス畑が取り巻き、仏さまの灰が花を育てるという。水上勉舞踊家の下田栄子さんの話として伝えている。外来種をめぐる佳話である。

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アメリカ人にとって新規の法律は、赤信号の設置に関する道路交通法から所得税法に至るまで、全国民から忌み嫌われる。なぜならそれによって、自分のことを自分で決める自由を奪われるからである」ルース・ベネディクト菊と刀』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫)。

新型コロナをめぐるマスク騒動のニュースで、マスクくらいでガタガタ文句垂れるなよと思ったものだがこういう事情もあるわけだ。

菊と刀』は主たる考察の対象が明治~戦前の日本なので、いま読むと違和感を覚える箇所はいろいろあるが、対比してアメリカ人のものの考え方はいまもってなるほどと思えるところが多い。

アメリカ国民にとって「連邦の法律は、二重に猜疑心を招く。というのも、それは個々の州の立法権にも干渉しているからである」

アメリカ人にとって連邦の法律は、ワシントンの官僚によって国民に押し付けられたものという感じがする」

新型コロナへの向き方もこの感覚が活きているようだ。

アメリカの場合、自分で自分の事柄を管理しないと、胸を張ることができない。ところが日本では、恩人と考えられている人に対して恩返しをしないと、やましい気持ちになる」。

恩返しの感覚は多少変化したと思うが米国の場合はそうでもなく、銃規制が進まないのにもこの感覚が作用しているのだろう。

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お役所に勤めてまず教えられたのは公文書や起案書の書き方だった。

そのころ、ある大先輩から、戦後もしばらくは公文書、起案書ともに文語文、いわゆる候文だったと伺ったことがある。その実物を見たことはなかったがたまたま吉田茂『回想十年』(中公文庫上巻)で行きあたった。

その公文書は、昭和二十年九月十七日附、在仙台終戦連絡事務局長武藤義雄名で、重光外務大臣に宛てられている。塩釜で遺骨を迎えるために国旗を掲揚したところ米軍から撤去を命じられた、「其の根拠に疑問あり、秋季皇霊祭も近づき居るに付き何分の儀至急回伝を請う」というもの。これに対する回答文も文語文である。

歴史的仮名遣いだったから「請う」は「請ふ」で、現代仮名遣いに直す愚行が史料の価値を損なうことの一例である。

それはともかく文語文による公文書はいつから口語文に変わったのか、故人となった大先輩にお訊ねしなかったのがいまでは残念だ。ついでながら、平成五年か六年に、勤務先では公文書の敬称が「殿」から「様」に変わった。

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長くジャズを聴いているがときにうまくお付き合いできない事態に陥いる。いまがそうで、このときクラシックが回春剤となる。もっともわたしが聴くのはほとんどモーツァルト、それも有名どころばかりなのでファンの域からははるか遠い。でもいいな、ピアノコンツェルト20番、21番、交響曲40番などなど。

おなじく手にした本が期待したほどでなくこれが何回か続くと読書がいやになり活字拒否症となる。先ごろは相当危うい感じだったが、まさきとしか『彼女が最後に見たものは』(小学館文庫)に救われた。新宿区の空きビルで身元不明の女性の遺体が発見され、その女性の指紋が千葉県で刺殺された未解決事件の現場で採取された。興味深い謎で心わくわくである。

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一九四三年二月二十七日の『アンネの日記』(深町眞理子訳、文春文庫)に、オランダのカトリックの司教が信者に宛てたメッセージがあり「オランダの人びとよ、戦いの手を休めてはならない。だれもがそれぞれの武器によって、国家と国民と、信仰の自由のためにたたかっているのである!救いの手をさしのべよ。惜しみなく与えよ。落胆してはならない」としるされている。

これについてアンネは「はたしてこれが救いになるものでしょうか。すくなくとも、わたしたちユダヤ教信者の救いにはなりません」という。

カトリック教会を云々する気はないが、彼女にとって、このメッセージは上から目線できれいごとはいうが救いも実効性もない。いまの国連の声明のようなもので、ロシアという安保理常任理事国侵略戦争により国際秩序を壊そうとしているのに国連は実効性ある行動もとれず、救いももたらしてくれない。

まさきとしか『彼女が最後に見たものは』ではある少女が「大人は上から目線できれいごとばかり言う。明けない夜はないとか、神は乗り越えられる試練しか与えないとか、つらかったら逃げてもいいとか。明るく前向きな歌を奏でるように、現実離れしたことをしたり顔で言う。なにも知らないからだ。他人事だからだ。明けない夜はあるし、乗り越えられないこともある。逃げたくても逃げる場所がない。長く生きているくせにそんなこともわからないのは、自分のことしか見ようとしないからだ」とつぶやく。

いまウクライナの人々の国連や欧米諸国にたいする感情にもこうした成分が多く含まれていると思う。

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英語のことわざ。《You scratch my back,and I’ll scratch yours.》私の背中をかいてくれたら、あなたの背中をかきます。つまり魚心あれば水心。

背中くらい自分でかけよ、欧米には孫の手というものはないのかねと和英辞典を見るとback scratcherとあった。

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「わたしが口をきくと、みんなから利口ぶってると言われます。黙っていると、ばかみたいだと言われます。口答えすれば、生意気だと言われます。なにか名案が浮かぶと、悪賢いと言われます。疲れていれば、怠慢、一口でもよけいに食べれば、身勝手、まだそのほかにも、とんま、臆病、狡猾、エトセトラ」(『アンネの日記』一九四三年一月十三日)以下はいまの日本の社会を鋭く映しているとメモしておいたどなたかのツイート。

「女性は結婚して出産すると辞めてしまう、だから定員制限、再雇用を前提としていない。結婚せず子供を作らないと、生産性無しと言われる。大学だけでなく国会も無くしたくなります」

アンネの日記』やこのツイートからは、抑圧者は目の前に敵がいないときは、上から目線でお説教やきれいごとばかりを口にする、そして敵が現れると何をいってもムダとばかりにがんじがらめにしようとすることがうかがわれる。アンネが喝破したように口をきいていかず、黙っていてもいかず……。

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「野党の人から来る話は、われわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と語った現職閣僚に驚いたのも束の間、次は元首相が凶弾に倒れた。ふたつの出来事に共通するのは日本のデモクラシーを破壊しようとする衝動である。

なんとかという大臣が何を放言しようが、誰が暗殺されようが後期高齢者となるのも遠くない老爺には関係なく、こういうときこそ「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」(藤原定家『明月記』)と言ってみたい気持はあるが、まだそこまで人間ができていないらしい。それとも枯れきっていないのか。

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大相撲名古屋場所逸ノ城が十二勝三敗で初優勝し、賜杯を手にした。ハワイ出身の元関脇高見山が外国出身力士として初優勝したのが一九七二年名古屋場所で、五十年の節目の年にモンゴル出身の力士が悲願を成し遂げた。

今場所は新型コロナウイルスの感染拡大により全力士の三割近くが休場、十両以上の関取の休場者は負傷による二人を含め戦後最多の二十三人に上った。逸ノ城の優勝とともにこのことでも記憶される場所となった。

午後に映画を観て、帰宅して晩酌はわがしあわせのひとときだが、困るのは大相撲の期間で、やむなく見逃し配信を見ながら晩酌をしているけれど、あらかじめ勝負の結果を知るとしらけるのでニュースは避けておかなければいけない。

リアルタイムで相撲を見る日は、せめて三役の取り組みあたりからテレビの前に座り晩酌に入りたいのだが、こんなことしていると七時か八時に寝てしまいそう。 早すぎる目覚めは困るので、いつしか晩酌は七時からあととした。

思い出すと小学低学年のときは自宅にテレビがなく、近所の酒屋さんで見せてもらっていた。栃錦若乃花、そのころ若手だった大鵬柏戸になる前の戸柏、解説は神風正一、玉の海梅吉、懐かしいな。

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政府は、凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬を九月二十七日に日本武道館で行うことを決定した。岸田文雄首相が葬儀委員長を務める。吉田茂に次いで戦後二例目の国葬である。

吉田茂国葬は一九六七年十月三十一日に催された。当時わたしは高校生で、午後から休みになりうれしかったのを覚えている。

無邪気だったあのころ。政府が学校の午後の授業を取りやめる方針を決めたことについて日本教職員組合が抗議声明を出したなどの記事がネットにあったがそんなことつゆ知らず半ドンを素直に喜んだ。

吉田茂は選挙区が高知(全県一区定員五)だったからわがふるさと高知では盛大な追悼式が行われた。会場はある女子高校の講堂で、他校は午後から放課だったがその高校だけは会場準備だとか案内、お茶の接待などで相当数の生徒が動員されていた。なかに小学校の同級生がいて、なんでこんなことさせられるのとぶーたれていた。

小学生のころ、一度だけ吉田茂を見たことがある。選挙で高知へ来てわが家の近くで辻立ちの演説していた。真偽不明ながら、何かで、高知の自民党の県会議員をはじめエライさんたちが陳情に行った際は、わしはそんなことのために政治家やっているのではないと追い返したという「ちょっといい話」がある。ビッグネームの割には選挙に強くなかった印象があるが、この硬骨が作用していたのかもしれない。

吉田茂国葬で遺族代表、喪主を務めたのは息子で、作家、中央大学教授の吉田健一だった。長谷川郁夫『吉田健一』(新潮社)によると、喪主として吉田健一は武道館で催された式典に出席したが、中央大学教授としての吉田健一はこの日も休むことなく出講し、受講生一同は大いに面食らった。これも 「ちょっといい話」。

吉田健一は一度の休講もなかった律義な性分の人だった。

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七十七回目の「八月十五日」に

昭和戦前の外交史は英米協調派が日独伊三国同盟派に押され、敗北する道筋をたどった。すなわち太平洋戦争への道である。

英米との協調を志向しながら敗れた人たちについては吉田茂が『回想十年』で「私が接した重臣層をはじめ、政治上層部の誰もがこの戦争に賛成していなかった」「しかるにこれら重臣層の人々は内心戦争に反対しながら、その気持ちをどうもはっきり主張したり発言したりしなかった」と語っている。

痛恨の思いで述べたと察するが内心で戦争に反対しながらもその意思をはっきりと示さなかった「重臣層」「政治上層部」の具体名は挙げていない。西園寺公望牧野伸顕くらいは口に出そうが出すまいがわかるはずと思っていたのかもしれない。それと牧野伸顕は吉田の岳父だから遠慮があったかもしれない。

それはともかく西園寺については政治秘書であった原田熊雄が職務上知りえたことを口述し記録させた『西園寺公と政局』の大著がある。原田は一九二六年から一九四0年の西園寺の死に至るまで秘書として歴代総理など政界上層部との連絡、情報収集にあたった。同書の随所にある政治と軍事をめぐる具体的なやりとりは、英米協調派の重臣層、政治上層部が日独伊三国同盟派の軍・政連合に押し切られてゆく姿をよく示している。

たとえば近衛文麿は、西園寺公も歳をとって人に会えばくたびれるし、世の中の認識もだいぶん違う、国是の進展からいうとやっぱり邪魔になるように思うと述べていた。西園寺と近衛の微妙な関係がうかがわれる話であり、英米協調派の西園寺を邪魔とする近衛の立場も知られる。近衛文麿吉田茂のいう、内心では戦争に反対していたひとりだったかもしれないが、現実は蒋介石を相手にせずと切り捨て、日独伊三国同盟を唱導するにいたった。西園寺はおなじ公家の生まれとして近衛には期待していたはずだが、最晩年の西園寺は内心で近衛をどのように見ていたのだろう。

一九三六年(昭和十一年)二二六事件のあった年の夏、原田熊雄が寺内寿一陸軍大臣に「公債は必要の程度に増発してもいいかもしれないけれども、それにも限度があつて、下手をすれば物価騰貴を招くことになる。物価騰貴になれば、陸軍のいふ国民生活の安定は望めない」と言うと寺内は「それは自分もよほど考へてをる。しかし一体先にやるべきことを、『これだけはどうしてもやらなきやあならん』と決めておいて、後から財政の方法を考へればいいのに、歳入がこれだけだから……と歳入の目安をつけてからどうこう言ふことは、結局なんにもしないことになつてしまふ」と応じた。まずは軍の要求を呑み、事後の対策はそちらで考えればよろしいと言っているのに等しい。

満州事変のとき陸軍大臣だった南次郎が戦後、巣鴨拘置所で、事変の影響を最小限とするよう各国との協調のため奔走した外交官の重光葵に「外交とは軍の尻拭いをすることであると思つてゐた」と語った話と軌を一にしている。

加えて軍には統帥権の独立という切り札があり、それは軍部は政治に口を出せても、政治は軍部に口を出せないことを制度的に保障するものであった。

戦後の外交は英米協調の路線に戻った。そのことを含め戦後政治の骨格を作ったのが吉田茂だった。生活を豊かにするため経済成長を国民の課題とし、憲法九条を踏まえ本格的な再軍備は否定した。

国際政治学高坂正堯は『宰相 吉田茂』で経済重視、本格的な再軍備の否定はその時点で唯一正しい選択だったと評価したうえで、しかしワンマンと呼ばれた吉田は、ワンマンらしく緩やかな再軍備についての国民の主体的な判断を求めなかったと後世に向けた課題を指摘している。一九六三年(昭和三十八年)に著された論考だが当時より、テロへの対応やロシアによるウクライナへの侵略に苦慮するいまのほうが、軍備についての国民の主体的な判断、その切実の度合は大きい。

いま中国とロシアの軍事力は強化され、わが国への圧力はますます大きくなっている。

日本国憲法前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるけれど、国連安保理常任理事国のロシアがウクライナを侵略し、蛮行を繰り返し、おなじく中国は武力による台湾統一の意思をあらわにしている現状では「諸国民の公正と信義に信頼」することは困難というほかない。

また日米関係においては米国の国力の変化を背景に日本側の一方的依存と米国側の一方的保護は見込めなくなった。

かつてのように英米協調路線を破棄して中ロ同盟に馳せ参ずることはないだろうが、しかし事態の推移によってはこうした外交路線を主張する政党政派があって不思議はない。

こうして憲法論議を含め新しい事態にどう処していくべきか。その行方を注視する七十七回目の「八月十五日」である。

 

 

 

 

 

 

立秋の日に

東京では六月二十五日から九日連続で猛暑日となった。これまでいちばん長い猛暑日で 、長期予報によればことしの夏は長く、酷暑の日が多いそうだからまだまだ熱中症に警戒しなければならない。

そうしたなか暦のうえでは八月七日に立秋の日を迎えた。暦上の季節と実際の季節感が異なるのはよくある現象だが、それでも立秋を過ぎれば日を追うごとに微かな秋の匂いが漂ってくる、立秋は小さな秋を感じる目安となると歳時記は教えてくれている。

詩人でフランス文学者の堀口大學(1892-1981)の家では毎年立秋の日になると紅蜀葵(こうしょっき、もみじあおいの異名)の花が咲いていたのが、ある年、四、五日おくれて咲いた。そのわけについて詩人は随筆「おそ夏はや秋」に「雨の多かつた七月の冷気にさまたげられて、暦との約束を果し得なかつたものであらう」と述べていて「暦との約束」という表現に魅力と不安を覚えた。

「暦との約束」が違って堀口家の紅蜀葵がいつもより遅く咲いたのは雨の多い七月の冷気という自然現象であり、人間の事情ではない。

残念なことに世界では人間の事情にもとづく地球温暖化で「暦との約束」の果たされない現象が多発している。気温や海面の上昇は農作物への被害や渇水、洪水の増加をもたらす。海の水位が上がり陸が減ると、木や花、動物たちの住む場所を狭くするから人間も動植物も居場所の確保に苦しむようになる。ここまでくると「暦との約束」が果たされないというよりも暦というシステムの崩壊に近い。雲や風や草花に少しずつ秋を感じるいっぽうで地球環境の心配をしなければならないのが現代日本の難儀である。

そのいっぽうでわたしには長いあいだわだかまっている疑問がある。

ずいぶんまえからホッキョクグマについて地球温暖化により住む場所やエサが少なくなり、その数がずいぶん減ったと報じられていて、なかば定説化している。ところが昨年二0二一年に刊行された池田清彦『どうせ死ぬから言わせてもらおう』(角川新書)には「シロクマの頭数はここ10年くらいの間に30パーセントほど増加したし、夏に北極の氷が溶けてなくなる気配はない。マスコミは危機を煽る科学者の声だけを取り上げて、反対意見の科学者の声をほとんど全く無視している」とある。著者は自然科学、政治、社会問題いずれを問わずみずからの見解を積極的に発信する生物学者で、わたしが頼りにしてきた論者だからおろそかにはできない。地球温暖化は人間の過剰な活動が引き起こした現象、それともしっかり検証されていないあやふやな学説(人為的地球温暖化論)なのだろうか。

 

「仁義なき戦い」雑記帖(其ノ五)~抗争と盃外交のはざまで

仁義なき戦い」では、縄張り争い、跡目争い、盃外交の新たな展開などにより、ヤクザ内部およびその周辺の人間関係は激しく変化する。そうしてとりあえず保たれていた仁義や盃による秩序が「擬制の終焉」を迎える。

この変化は激しく深作欽二、笠原和夫のコンビによる「県警対組織暴力」では刑事の菅原文太と大原組の若衆頭松方弘樹が互いに信頼、共感する盟友関係にある。さらに「やくざの墓場 くちなしの花」ではとうとう組の幹部梅宮辰夫と暴力団担当の刑事渡哲也とが兄弟分の盃を交わすにいたる。

わたしにとって深作欽二は、直接であれ間接であれ暴力を媒介とする人間関係の激しい変化を描いた監督である。小津安二郎が静謐のなかの緊張がもたらす家族関係のうつろいとゆらぎを描いた対極に深作欽二は立っている。小津の親の死や娘の結婚という冠婚葬祭がここでは抗争と盃外交にあたる。しかし様相の違いはあっても人と人との関係とその変化の諸相を見事に捉えた監督として、わたしのなかで小津と深作はつながる。

さらに深作欽二は笠原和夫とともに、どのように人間関係が変化しようともそこに適応できない一群の若者に焦点を当てた。山守義雄と広能昌三は対立しながらもなんとか事態に適応し生きのびたという点ではおなじ分類に属する。その対極にいたのが「広島死闘篇」の山中正治や「仁義の墓場」の石川力夫に代表される、いかなる変化にも適応できないまま滅んでいったアウトローたちだった。石川力夫がよんだという「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」、深作欣二の一連のやくざ映画はこの「馬鹿騒ぎ」へのオマージュだった。「仁義なき戦い」が戦後の青春を描いたとされる所以であり、そしてここにはいまなお輝きを放ちつづける光源がある。

終わりに笠原和夫について述べておきたい。笠原作品のひとつに「博奕打ち いのち札」がある。出所した鶴田浩二は獄中にいるあいだに愛する女が組長の妻、姐さん(安田道代)になっていたと知る。任侠映画という様式の枠に描かれた悲恋である。その果てで鶴田浩二は安田道代を抱きかかえて叫ぶ「出て行くんだ。こんな渡世から出て行くんだ」と。ここで「仁義なき戦い」のカメラマン吉田貞次のカメラワークが冴えわたる。

おなじく笠原作品の「博打打ち 総長賭博」のラストで金子信雄の暴虐に耐えつづけたに鶴田浩二がとうとうキレて「任侠道?そんなもなぁ俺にはない。俺はただの人殺しだ」と口にする。これは「出て行くんだ。こんな渡世から出て行くんだ」に通じているのは明らかで、任侠映画の脚本家が「こんな渡世」について何を考えていたかがうかがえる象徴的なせりふだ。

仁義なき戦い」は笠原和夫が「こんな渡世」を考えながら書いた脚本の任侠映画の虚構が飽和点に達したときに生まれた。任侠映画の「こんな渡世」にまやかしをみた脚本家は実録やくざ映画に行くしかなかったのである。(おわり)

 

 

 

 

 

「仁義なき戦い」雑記帖(其ノ四)~ほんのはなし

わたしがこれまでに読んだ映画の本のワン・オブ・ベストに『われわれはなぜ映画館にいるのか』がある。一九七五年に晶文社から刊行され、のち再編改題され『映画を夢見て』(筑摩書房)、さらに改編されて『新編われわれはなぜ映画館にいるのか』が二0一三年にキネマ旬報社から上梓された。それぞれの版には「『仁義なき戦い』スクラップブック」が収められ、また『新編』には小林信彦芝山幹郎両氏による対談「今ひとたびの『仁義なき戦い』」が収録されている。

そのなかで小林氏の日下部五朗『シネマの極道』によせての発言に気がかりな箇所がある。

その発言とは『シネマの極道』を「これは比較的ほんとうのことが書かれて」いるとしたうえで、これまでの「仁義なき戦い」について書かれた本は俊藤浩滋プロデューサー側か岡田茂社長側かどっちかに立つというものと分類している。

仁義なき戦い」をめぐる俊藤プロデューサーと岡田茂社長との関係を『シネマの極道』に見てみよう。

「『仁義なき戦い』の成功を見た岡田さんは従来の任侠路線を切り捨てようとしていた。例えば高倉健の三大シリーズ『日本侠客伝』も『昭和残侠伝』も『網走番外地』も作られなくなった。これに俊藤さんは猛反発した。要は、かつての時代劇のように、任侠映画を断ち切るように見捨てるのか、ということである。俊藤さんは任侠路線の役者たちの代理人のようなところもあり、自らの既得権益のこともあって、岡田社長と真っ向から対立する立場を取った。俊藤さんが、鶴田浩二高倉健などを連れて、東映から独立する騒ぎになりかけたのだ。

この岡田と俊藤の仲違いは、映画館主会の大物が中に入り、比較的早く手打ちがなされたが、任侠路線が復活するわけではなかった。」

この対立が「仁義なき戦い」関連本に「俊藤浩滋プロデューサー側か岡田茂社長側かどっちか」の立場を取らせたというのだが、わたしには誰のどういった本が俊藤側で、どれが岡田側かわからない。立場の違いが記述内容にどのような異同をもたらしているのかもわからない。ここではご教示を願っておくほかない。

仁義なき戦い」についてはこの四十年のあいだに数多くの関連書籍が出された。飯干晃一の原作と笠原和夫の脚本を別格とすると、前出『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫』と『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』(いずれも太田出版)が群を抜いていて感動的な註釈を映画に寄せてくれている。

なにしろ取材魔というのが岡田茂社長の笠原評でNHK「“仁義なき戦い”を作った男たち」には笠原の膨大な取材メモが撮影されていた。そのエキスが『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫』と『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』には詰まっている。

たとえば笠原は、「広島死闘篇」の村岡組の組長は被差別部落の出身で、その姪にあたる上原靖子(梶芽衣子)もおなじ出自をもつ。この村岡組でヒットマンとして頭角を現したのが山中正治北大路欣也)で山中と靖子との恋愛には被差別部落の問題が影を落としていたと述べている。

やくざの問題の背後に被差別部落在日朝鮮人の存在があるという指摘はこれまでにもあったが、被差別部落出身のやくざはおなじ出身すなわち「兄弟」を理由に組の意向を超えて結びつく、親分子分の縦構造ではなく横で団結して押してくることがある、それに対して在日朝鮮人のばあいはそうした行動は見られないといった指摘は取材魔、笠原和夫ならではの貴重なものだと思う。そして「例えば本多会と山口組と所属する組が違っていても、同和の問題となるとくっついちゃって、お互い金を共有しようとするところがある。在日の場合は金が出ないからバラバラになったままでね」というふうに両者の違いが生ずる原因にも言及している。

裏切り、裏切られの現象にもときに差別の問題が絡むのである。

 

与える信者、受ける教団

七月八日、安倍晋三元首相を暗殺した男の母親は、入信した宗教団体に一億円の寄付をしていたと報じられている。そのため家庭は大混乱に陥り、親戚が交渉して半分は取り返したと聞くけれど、どちらにしても常軌を逸している点で変わりはない。

宗教団体と寄付の問題はいまにはじまったことではない。

薄田泣菫が「鮨の餞別」というコラムに「『受くる者よりも、与ふる者の幸福の方が大きい。』と、宗教家は口癖のやうに言つてゐるが、さういふ宗教家は、常(いつ)も受ける方の地位には立つが、滅多に与ふる者にならうとはしない。恰(ちやう)どそのやうに女は男に対して、いつも受ける方で何一つ与へて呉れやうとはしない。」と書いたのは大正九年九月五日 の大阪毎日新聞で、いま『茶話』に収められている。

結末は男と女の関係としてしゃれのめしているものの、前段からは与える信者と受ける宗教団体の関係がときにトラブルを引き起こしかねない様子がうかがえる。

一億円を与えた信者、受けた教団、そこから風が吹けば桶屋が儲かる式に因果はめぐった結果、信者の息子はみずから拳銃を製造し、教団と近しい政治家が犠牲となった。

オウム真理教のときも、宗教団体への寄付と家計の逼迫の事例は報じられていたが、治安問題に比較すると扱いは小さかった。しかし、そうした観点からのアプローチをなおざりにしてはいけないことは今回の事件がよく示している。宗教団体と親しい政治家は多くいるそうだからウデの見せ所である。

信教の自由や財産権は侵害されてはならず、政治の宗教団体への関与が危険であることは承知している。しかし、信者の寄付行為がときに家庭を破壊するとなると政治家も指をくわえて見ているばかりではいられまい。相談機関の設置など検討されてはいかがだろう。

与える信者、受ける教団。国葬扱いが決まった政治家の眼にどんなふうに映っていたのだろう。ひょっとすると見落としていた?あるいは扱いかねていた?