「仁義なき戦い」雑記帖(其ノ五)~抗争と盃外交のはざまで

仁義なき戦い」では、縄張り争い、跡目争い、盃外交の新たな展開などにより、ヤクザ内部およびその周辺の人間関係は激しく変化する。そうしてとりあえず保たれていた仁義や盃による秩序が「擬制の終焉」を迎える。

この変化は激しく深作欽二、笠原和夫のコンビによる「県警対組織暴力」では刑事の菅原文太と大原組の若衆頭松方弘樹が互いに信頼、共感する盟友関係にある。さらに「やくざの墓場 くちなしの花」ではとうとう組の幹部梅宮辰夫と暴力団担当の刑事渡哲也とが兄弟分の盃を交わすにいたる。

わたしにとって深作欽二は、直接であれ間接であれ暴力を媒介とする人間関係の激しい変化を描いた監督である。小津安二郎が静謐のなかの緊張がもたらす家族関係のうつろいとゆらぎを描いた対極に深作欽二は立っている。小津の親の死や娘の結婚という冠婚葬祭がここでは抗争と盃外交にあたる。しかし様相の違いはあっても人と人との関係とその変化の諸相を見事に捉えた監督として、わたしのなかで小津と深作はつながる。

さらに深作欽二は笠原和夫とともに、どのように人間関係が変化しようともそこに適応できない一群の若者に焦点を当てた。山守義雄と広能昌三は対立しながらもなんとか事態に適応し生きのびたという点ではおなじ分類に属する。その対極にいたのが「広島死闘篇」の山中正治や「仁義の墓場」の石川力夫に代表される、いかなる変化にも適応できないまま滅んでいったアウトローたちだった。石川力夫がよんだという「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」、深作欣二の一連のやくざ映画はこの「馬鹿騒ぎ」へのオマージュだった。「仁義なき戦い」が戦後の青春を描いたとされる所以であり、そしてここにはいまなお輝きを放ちつづける光源がある。

終わりに笠原和夫について述べておきたい。笠原作品のひとつに「博奕打ち いのち札」がある。出所した鶴田浩二は獄中にいるあいだに愛する女が組長の妻、姐さん(安田道代)になっていたと知る。任侠映画という様式の枠に描かれた悲恋である。その果てで鶴田浩二は安田道代を抱きかかえて叫ぶ「出て行くんだ。こんな渡世から出て行くんだ」と。ここで「仁義なき戦い」のカメラマン吉田貞次のカメラワークが冴えわたる。

おなじく笠原作品の「博打打ち 総長賭博」のラストで金子信雄の暴虐に耐えつづけたに鶴田浩二がとうとうキレて「任侠道?そんなもなぁ俺にはない。俺はただの人殺しだ」と口にする。これは「出て行くんだ。こんな渡世から出て行くんだ」に通じているのは明らかで、任侠映画の脚本家が「こんな渡世」について何を考えていたかがうかがえる象徴的なせりふだ。

仁義なき戦い」は笠原和夫が「こんな渡世」を考えながら書いた脚本の任侠映画の虚構が飽和点に達したときに生まれた。任侠映画の「こんな渡世」にまやかしをみた脚本家は実録やくざ映画に行くしかなかったのである。(おわり)