与える信者、受ける教団

七月八日、安倍晋三元首相を暗殺した男の母親は、入信した宗教団体に一億円の寄付をしていたと報じられている。そのため家庭は大混乱に陥り、親戚が交渉して半分は取り返したと聞くけれど、どちらにしても常軌を逸している点で変わりはない。

宗教団体と寄付の問題はいまにはじまったことではない。

薄田泣菫が「鮨の餞別」というコラムに「『受くる者よりも、与ふる者の幸福の方が大きい。』と、宗教家は口癖のやうに言つてゐるが、さういふ宗教家は、常(いつ)も受ける方の地位には立つが、滅多に与ふる者にならうとはしない。恰(ちやう)どそのやうに女は男に対して、いつも受ける方で何一つ与へて呉れやうとはしない。」と書いたのは大正九年九月五日 の大阪毎日新聞で、いま『茶話』に収められている。

結末は男と女の関係としてしゃれのめしているものの、前段からは与える信者と受ける宗教団体の関係がときにトラブルを引き起こしかねない様子がうかがえる。

一億円を与えた信者、受けた教団、そこから風が吹けば桶屋が儲かる式に因果はめぐった結果、信者の息子はみずから拳銃を製造し、教団と近しい政治家が犠牲となった。

オウム真理教のときも、宗教団体への寄付と家計の逼迫の事例は報じられていたが、治安問題に比較すると扱いは小さかった。しかし、そうした観点からのアプローチをなおざりにしてはいけないことは今回の事件がよく示している。宗教団体と親しい政治家は多くいるそうだからウデの見せ所である。

信教の自由や財産権は侵害されてはならず、政治の宗教団体への関与が危険であることは承知している。しかし、信者の寄付行為がときに家庭を破壊するとなると政治家も指をくわえて見ているばかりではいられまい。相談機関の設置など検討されてはいかがだろう。

与える信者、受ける教団。国葬扱いが決まった政治家の眼にどんなふうに映っていたのだろう。ひょっとすると見落としていた?あるいは扱いかねていた?