七十七回目の「八月十五日」に

昭和戦前の外交史は英米協調派が日独伊三国同盟派に押され、敗北する道筋をたどった。すなわち太平洋戦争への道である。

英米との協調を志向しながら敗れた人たちについては吉田茂が『回想十年』で「私が接した重臣層をはじめ、政治上層部の誰もがこの戦争に賛成していなかった」「しかるにこれら重臣層の人々は内心戦争に反対しながら、その気持ちをどうもはっきり主張したり発言したりしなかった」と語っている。

痛恨の思いで述べたと察するが内心で戦争に反対しながらもその意思をはっきりと示さなかった「重臣層」「政治上層部」の具体名は挙げていない。西園寺公望牧野伸顕くらいは口に出そうが出すまいがわかるはずと思っていたのかもしれない。それと牧野伸顕は吉田の岳父だから遠慮があったかもしれない。

それはともかく西園寺については政治秘書であった原田熊雄が職務上知りえたことを口述し記録させた『西園寺公と政局』の大著がある。原田は一九二六年から一九四0年の西園寺の死に至るまで秘書として歴代総理など政界上層部との連絡、情報収集にあたった。同書の随所にある政治と軍事をめぐる具体的なやりとりは、英米協調派の重臣層、政治上層部が日独伊三国同盟派の軍・政連合に押し切られてゆく姿をよく示している。

たとえば近衛文麿は、西園寺公も歳をとって人に会えばくたびれるし、世の中の認識もだいぶん違う、国是の進展からいうとやっぱり邪魔になるように思うと述べていた。西園寺と近衛の微妙な関係がうかがわれる話であり、英米協調派の西園寺を邪魔とする近衛の立場も知られる。近衛文麿吉田茂のいう、内心では戦争に反対していたひとりだったかもしれないが、現実は蒋介石を相手にせずと切り捨て、日独伊三国同盟を唱導するにいたった。西園寺はおなじ公家の生まれとして近衛には期待していたはずだが、最晩年の西園寺は内心で近衛をどのように見ていたのだろう。

一九三六年(昭和十一年)二二六事件のあった年の夏、原田熊雄が寺内寿一陸軍大臣に「公債は必要の程度に増発してもいいかもしれないけれども、それにも限度があつて、下手をすれば物価騰貴を招くことになる。物価騰貴になれば、陸軍のいふ国民生活の安定は望めない」と言うと寺内は「それは自分もよほど考へてをる。しかし一体先にやるべきことを、『これだけはどうしてもやらなきやあならん』と決めておいて、後から財政の方法を考へればいいのに、歳入がこれだけだから……と歳入の目安をつけてからどうこう言ふことは、結局なんにもしないことになつてしまふ」と応じた。まずは軍の要求を呑み、事後の対策はそちらで考えればよろしいと言っているのに等しい。

満州事変のとき陸軍大臣だった南次郎が戦後、巣鴨拘置所で、事変の影響を最小限とするよう各国との協調のため奔走した外交官の重光葵に「外交とは軍の尻拭いをすることであると思つてゐた」と語った話と軌を一にしている。

加えて軍には統帥権の独立という切り札があり、それは軍部は政治に口を出せても、政治は軍部に口を出せないことを制度的に保障するものであった。

戦後の外交は英米協調の路線に戻った。そのことを含め戦後政治の骨格を作ったのが吉田茂だった。生活を豊かにするため経済成長を国民の課題とし、憲法九条を踏まえ本格的な再軍備は否定した。

国際政治学高坂正堯は『宰相 吉田茂』で経済重視、本格的な再軍備の否定はその時点で唯一正しい選択だったと評価したうえで、しかしワンマンと呼ばれた吉田は、ワンマンらしく緩やかな再軍備についての国民の主体的な判断を求めなかったと後世に向けた課題を指摘している。一九六三年(昭和三十八年)に著された論考だが当時より、テロへの対応やロシアによるウクライナへの侵略に苦慮するいまのほうが、軍備についての国民の主体的な判断、その切実の度合は大きい。

いま中国とロシアの軍事力は強化され、わが国への圧力はますます大きくなっている。

日本国憲法前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるけれど、国連安保理常任理事国のロシアがウクライナを侵略し、蛮行を繰り返し、おなじく中国は武力による台湾統一の意思をあらわにしている現状では「諸国民の公正と信義に信頼」することは困難というほかない。

また日米関係においては米国の国力の変化を背景に日本側の一方的依存と米国側の一方的保護は見込めなくなった。

かつてのように英米協調路線を破棄して中ロ同盟に馳せ参ずることはないだろうが、しかし事態の推移によってはこうした外交路線を主張する政党政派があって不思議はない。

こうして憲法論議を含め新しい事態にどう処していくべきか。その行方を注視する七十七回目の「八月十五日」である。