「仁義なき戦い」雑記帖(其ノ四)~ほんのはなし

わたしがこれまでに読んだ映画の本のワン・オブ・ベストに『われわれはなぜ映画館にいるのか』がある。一九七五年に晶文社から刊行され、のち再編改題され『映画を夢見て』(筑摩書房)、さらに改編されて『新編われわれはなぜ映画館にいるのか』が二0一三年にキネマ旬報社から上梓された。それぞれの版には「『仁義なき戦い』スクラップブック」が収められ、また『新編』には小林信彦芝山幹郎両氏による対談「今ひとたびの『仁義なき戦い』」が収録されている。

そのなかで小林氏の日下部五朗『シネマの極道』によせての発言に気がかりな箇所がある。

その発言とは『シネマの極道』を「これは比較的ほんとうのことが書かれて」いるとしたうえで、これまでの「仁義なき戦い」について書かれた本は俊藤浩滋プロデューサー側か岡田茂社長側かどっちかに立つというものと分類している。

仁義なき戦い」をめぐる俊藤プロデューサーと岡田茂社長との関係を『シネマの極道』に見てみよう。

「『仁義なき戦い』の成功を見た岡田さんは従来の任侠路線を切り捨てようとしていた。例えば高倉健の三大シリーズ『日本侠客伝』も『昭和残侠伝』も『網走番外地』も作られなくなった。これに俊藤さんは猛反発した。要は、かつての時代劇のように、任侠映画を断ち切るように見捨てるのか、ということである。俊藤さんは任侠路線の役者たちの代理人のようなところもあり、自らの既得権益のこともあって、岡田社長と真っ向から対立する立場を取った。俊藤さんが、鶴田浩二高倉健などを連れて、東映から独立する騒ぎになりかけたのだ。

この岡田と俊藤の仲違いは、映画館主会の大物が中に入り、比較的早く手打ちがなされたが、任侠路線が復活するわけではなかった。」

この対立が「仁義なき戦い」関連本に「俊藤浩滋プロデューサー側か岡田茂社長側かどっちか」の立場を取らせたというのだが、わたしには誰のどういった本が俊藤側で、どれが岡田側かわからない。立場の違いが記述内容にどのような異同をもたらしているのかもわからない。ここではご教示を願っておくほかない。

仁義なき戦い」についてはこの四十年のあいだに数多くの関連書籍が出された。飯干晃一の原作と笠原和夫の脚本を別格とすると、前出『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫』と『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』(いずれも太田出版)が群を抜いていて感動的な註釈を映画に寄せてくれている。

なにしろ取材魔というのが岡田茂社長の笠原評でNHK「“仁義なき戦い”を作った男たち」には笠原の膨大な取材メモが撮影されていた。そのエキスが『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫』と『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』には詰まっている。

たとえば笠原は、「広島死闘篇」の村岡組の組長は被差別部落の出身で、その姪にあたる上原靖子(梶芽衣子)もおなじ出自をもつ。この村岡組でヒットマンとして頭角を現したのが山中正治北大路欣也)で山中と靖子との恋愛には被差別部落の問題が影を落としていたと述べている。

やくざの問題の背後に被差別部落在日朝鮮人の存在があるという指摘はこれまでにもあったが、被差別部落出身のやくざはおなじ出身すなわち「兄弟」を理由に組の意向を超えて結びつく、親分子分の縦構造ではなく横で団結して押してくることがある、それに対して在日朝鮮人のばあいはそうした行動は見られないといった指摘は取材魔、笠原和夫ならではの貴重なものだと思う。そして「例えば本多会と山口組と所属する組が違っていても、同和の問題となるとくっついちゃって、お互い金を共有しようとするところがある。在日の場合は金が出ないからバラバラになったままでね」というふうに両者の違いが生ずる原因にも言及している。

裏切り、裏切られの現象にもときに差別の問題が絡むのである。