知らなくてよい、いきあたりばったりの話

文章を書くとき敬称をどうするかはけっこう悩ましい問題で、歴史的人物なら敬称は不要としても、この数年のあいだに故人となった方はどうすればよいか。昔から芸人とスポーツ選手は敬称なしが慣行とされているが、志ん朝師といったりもする。スポーツ選手が引退するとすぐさま氏を付けるのもなんとなく不自然な気がする。

こんなとき、わたしがまず求めるのは永井荷風の見解で、たまたま読んでいた「岡鬼太郎君新作昔模鼠小紋」にその意見が述べられていた。

「私は役者の名を書きます時芸名の下に氏だの師だのといふこの頃流行の敬語をつけませぬ。私は芸名若しくは屋号を以て呼ぶことが既に相応の敬意を表するものと思つて居ります。文士俳人を評論する文に雅号庵号もしくは字を以てその人を呼ぶのと同様だと心得て居ます」「今時長うたの芸人衆に師の字をつけることが流行しますが、何となく禅宗の坊さんにでもなつたやうで面白くありませぬ」

たしかに海老蔵氏とか菊五郎氏は変だ。文士、役者は荷風の意見に従うとして、敬称の問題はそこに止まらない。

          □

東京五輪では七人制ラグビーとマラソンを楽しみにしていたのだが、ラグビーは放送日時のチェック漏れで、テレビ観戦はマラソンだけになってしまった。

暑さを避けるため札幌での開催となった女子マラソンだが北海道の記録的な暑さにより急遽スタートが一時間繰り上がり六時スタートという異例の事態となった。

札幌の午前六時の気温は25・9度、湿度78%(気象庁アメダス)で、このコンディションをめぐり日本テレビの中継で気になる発言があった。

後半の後半、過酷な条件のなかイスラエルの選手(だったと思う)が歩きはじめたのを見てアナウンサーが、これで後続の一山麻緒選手の入賞の可能性が高まりましたと、なんだか他人の不幸を喜んでいるみたいでいやだなと思っていたところ、選手たちがつぎつぎにフィニッシュするころになって解説の増田明美さんが「この気温と湿度に慣れている日本人選手は一時間繰り上げることなく定時にスタートしていたらもっとよい成績になったかもしれません」と口にした。

選手たちにはもっとよいコンディションで走らせてあげたかったというのが真っ当なのではないか。 ランナーたちになんと酷いことをいうのだろう。

前を行く外国の選手が歩き出したのを日本人選手のために喜んだり、コンディションがもっと悪ければ日本人選手には都合がよかったといういびつな身びいきで後味の悪いマラソン中継となった。 担当するアナウンサー、解説者もスポーツマンシップに反する発言は慎むべきだ。

翌日の男子マラソンは定時の七時にスタートした。出場した選手は百六人、そのうち三十人が途中棄権した。懸念された気温は30度を超えなかったが、完走できない選手が相次いだ。「気温、湿度に慣れている日本人選手は一時間繰り上げることなく定時にスタートしていたらもっとよい成績になったかもしれません」どころではなく、服部勇馬選手はフィニッシュしたあと車椅子で運ばれ、「深部体温が40度以上に上昇し熱中症の重い症状だった」と文書でコメントした。

          □

東京オリンピックパラリンピックを前に「陛下が開会式で大会の中止を宣言されるしか、もはや止める手だてはない」とツイッターに投稿した立憲民主党政調会長代行がいた。また開会式と閉会式の演出を担当する予定だった一人が過去のホロコーストをめぐって看過できない事実があると政府や組織委員会を飛び越して米国のユダヤ人団体に注進に及んだ外務副大臣がいた。

象徴天皇制についての見識を疑う野党の幹部、報告先をまちがえているとしか思われない茶坊主副大臣に唖然としていたところへ名古屋市河村たかし市長が真打として登場した。

ソフトボール日本代表として東京オリンピックで金メダルに輝いた後藤希友投手の表敬訪問を受けた際、突然マスクを外し、後藤投手のメダルを噛むというおバカな行為に及んだのである。

さっそく萩生田文科相が「教育上非常に良くない。人の大切なものを口にいれるなんて」と問題視し、後藤投手が所属するトヨタ自動車が「不適切かつあるまじき行為」とのコメントを発表したほか、名古屋市に多数の苦情が寄せられ、市長が謝罪する事態となった。

それでも市長はメダルを噛んだことについて「全然、僕はそんな認識(セクハラ)はないですね。ハラスメントは、嫌がらせの認識は全くなかったですね」 「オリンピックで最近というか、噛むということが結構ありますので、メダル的なものをとったときに愛情と言いますか、そういう噛む時ってあるじゃないですか」と語っている。

人の大切なものを口にいれたのは愛情だったという市長は、自分がどうして批判されているかおわかりになっていないらしい。

京極純一「両性の平等・前途多難」に「『人間らしく自然にふるまっている』つもりが、女性から糾弾されて訳が分からず閉口する男性は哀れである。文明人間の第一歩は、生きていく自分とその自分を観察し制御する自分、二つの自分が分かれることである。両性の平等と個人の尊厳は表と裏である」とあり、なんだかこの市長を念頭において書かれてあるような気さえした。

「両性の平等・前途多難」は一九九一年に発表されていて、この三十年は何だったのかと思わざるをえない市長のふるまいで、ちなみにうえの引用の前段に京極先生は「女性に対する男性の優位と特権と甘えを保証する文化が男性社会という文化である」と書いている。

          □

アフガニスタンで米軍が撤退するとたちまちタリバンが政権を奪取した。

そこでわたしが思ったのは第二次世界大戦後の国共内戦だった。この連想が適切かどうかはよくわからないとしたうえでいえば、国共内戦で、毛沢東中国共産党が勝利した最大の要因は国民が中共を選択した結果であり、中共側のプロパガンダはあるにしても、蒋介石、国民党側の政治腐敗はずいぶんとひどく、最後に国民から見放されたのである。

いまは大使館員や現地の協力者の脱出についての問題が大きく報道されていて、避難したガニ大統領の政権を見捨てた人々やタリバン政権を支持する人たちの声はあまり聞こえてこない。でもふつうに考えると政権奪取は軍事力の強弱だけによるものではなく、民意が大きく作用しているはずで、だとすればアフガニスタン国民はガニ政権ではなくタリバンを支持したとなるが、そう言い切るのは自信がなく、判断がつかない。

タリバンの女性への人権侵害や歴史遺産の破壊に賛成するものではないが、米国にすり寄ってというか、外国の軍隊の力を借りて政権を樹立、維持しようと考える輩にろくなやつはいないのではないかとも思う。

別の話になるが、NHKのニュースで、アフガニスタンでニュースキャスターの職にあった女性が、タリバンから認められないと放送局での勤務を拒否されました、命が脅かされています、助けてください、と訴えた直後に大谷選手のホームランのニュースが派手に報じられていた。どこかの風景の映像をインサートしてワンクッション置くなどもう少し編集の工夫はないものか。

          □

NHKBSPで放送のあった「太陽の中の対決」(1967)をみた。主演はポール・ニューマン、監督はマーティン・リット、代表作に「寒い国から帰ったスパイ」がある、そして原作はエルモア・レナード『オンブレ』、と並べるとけっこうシブい取り合わせだ。

アパッチに育てられた男ラッセル、インディアン居留地の物資を横領して逃亡を図るフェーバー夫婦、元下宿屋の管理人ジェシーたちが駅馬車に乗り込んだが、同乗していた男の一味に襲われてしまう。と書けばおわかりのようにジョン・フォード監督の名作「駅馬車」を下敷きにした作品で、なかなかのお値打ち品である。

ラストシーンでラッセルはライフル銃を手にして襲撃犯と戦い、人質を救出する意志を固める。しかし相手側には複数の人質がいて、一人は彼が好意をもつ女性だ。この困難な状況でジェシーラッセルに「(救う)相手を選んでいたら世界は地獄になる。損得抜きで人と接するの、私たちは等しく人間なんだから」と語る。

このセリフ、原作の「オンブレ」(村上春樹)にあったのだろうか。読み飛ばしているとすれば情けない。

          □

八月十四日の10キロヴァーチャルマラソンの結果。

フィニッシュタイム 57:43、

総合ランキング 271/865、

年代別ランキング(70-74)1/18。

七十年生きて、長距離走ではじめて、年代別ランキングではありますが1位になりました。感謝です。

f:id:nmh470530:20210903153542p:image

          □

自宅近くに日本医大病院と東大病院があり救急車のサイレンの音を聞くことが多くなった気がする。先日も昼食で外に出たところ立て続けに二台の救急車が日医病院の方向に向かって行くのを見て、新型コロナ患者の搬送を思い、あらためて救急隊員の方々に頭が下がった。この現実のなかでパラリンピックに児童生徒を動員するという人の心がわたしには理解できない。

この日、NHK午後九時のニュースでキャスターが、人流をしっかり抑えなければなりませんと訴えていた。わたしはマルクス主義者ではないが、このばあいは階級的視点が不可欠で、一方に、都道府県をまたいだ移動も政治資金パーティも粛々?とやっている少数がいて、他方で自粛を強いられ続ける多数がいる。与党の幹部が集まって会食しながら、発覚すると「黙食」だったと開き直る始末である。

みんなとはいわないが上のほうは自分たちのやりたいことは大いにやりつつ、下には営業自粛などさまざまな制限をかけている印象はぬぐえない。

緊張感の共有は大切だ。しかし好き勝手やってる上級国民を認めたうえで共有を訴えられてもためにする議論としか思えない。前提となる信頼感が崩壊しているのだからどうしようもなく、信頼感があれば意見の違いはあっても政府の訴えを真剣に受け止めるが、いまは疑心暗鬼でしかない。

先日も大島衆議院議長が次の選挙には出ないと、東京ではなく選挙区の青森でおっしゃっていた。都道府県をまたいだ移動をされていたわけだ。要人はそうした移動も必要だろうと承知している。ただ、他方で西村大臣が、お盆の時期の帰省は今からでもキャンセルをと呼びかけている風景がいかにもチグハグなのだ。

          □

このところジョギングでの発汗が半端ない。朝走った疲れが気温の上昇とともに増幅するからエアコン、小まめの水分補給の熱中症対策だけではヤバい。体重増は避けたいが落とす必要もないので、もっと食わなければいけない。

七、八年前の真夏に肉離れをしていて、その再発も怖い。肉離れと暑さとの関係についての医学的所見はわからないものの、わたしのなかで両者はリンクしている。そのときは、医師から、ミネラルをもっと摂らなくてはいけない、ミネラルウオーターくらいじゃダメ、もっともっと食えといわれた。

こういうときはレストランかビアホールに行こうとなるが、緊急事態宣言でビールの提供がないからそれもできない。ふと先日の与党幹部たちの「黙食」の宴席にビールはなかったのか気になった。

          □

疲れが収まらない。暑さとストレッチ、筋トレ、ジョギングによる疲れだからトレーニングをお休みすればよいのだがわたしは休む勇気がない。

午後のコーヒータイムから夕方にかけては本を読んでいて、BGMはジャズを聴くことが多いが、 極度の疲労時には演歌へと移動する。この二日は美空ひばり石原裕次郎を聴きながら過ごした。こういうときわたしの日本人としての自覚は深くなる。

演歌に比べると、ジャズやクラシックにはそれなりに体力を使っているということになるのだろうか。逆にいえば、演歌は身体に染み込んでいるのにたいして、ジャズ、クラシックは無意識に身構えて聴いているわけだ。

それはともかく、小学六年生のとき石原裕次郎「赤いハンカチ」(カラオケでのわが愛唱歌)が好きで45回転のドーナツ盤を買ってもらった。その歌詞カードに、北国の春も逝く日、俺たちだけがしょんぼり見てた遠い浮雲よ、とあるのを見て、春は「行く」と思っていたのが「逝く」なのだった。振り返ると、微かな文学へのめざめだった。

          □

「返校 言葉が消えた日」「モロッコ、彼女たちの朝」「ドライブ・マイ・カー」「Summer of ’85」「白頭山大噴火」「孤狼の血 LEVEL2」などなど魅力ある映画群の到来で、 ここへきて映画館へよく出かけるようになった。映画の前か後、もしくは両方の時間帯は喫茶店で座るからおのずとこちらの回数も増える。

はじめての緊急事態宣言に際しては、最大限外出を自粛し自己防衛に努めなければならないと思った。「人間の不幸は、ただ一つのこと、一つの部屋に落ち着いてじっとしていられないことからやってくる」(パスカル)としても新型コロナはもっと不幸かもしれないではないか。

いま外出にあたっては、映画館と喫茶店でのクラスターの話は聞かない、それにあまり一つのところに縮こまっているのもよくないと自分を納得させている。勝手なものである。新型コロナ禍が終息して生き延びてあれば、わたしは丸川珠代オリンピック・パラリンピック担当大臣が、バッハ会長の銀座出遊について語った「十四日間しっかりと防疫措置の中で過ごしていただいているかということが重要なポイント。不要不急の外出かはご本人が判断すること」を思い出すだろう。

どうやらわたしはこの丸川大臣の御発言でほんの少しだけ吹っ切れた気がしている。

          □

八月二十二日に投開票された横浜市長選は立憲民主党が推薦した山中竹春氏が菅首相の推薦した元国家公安委員長小此木八郎氏や現職の林文子氏に大差をつけて当選した。林氏に続いたのが元長野県知事で作家の田中康夫氏で、日本維新の会に所属する松沢成文氏より多い得票数は善戦といってよいだろう。

いまわたしは昨二0二0年一月二十日六十一歳で急逝した坪内祐三を追悼して「週刊文春」に千回以上にわたり連載された「文庫本を狙え!」全篇を読み返している。そのなかの一篇に、坪内がテレビの政見放送を見ていると枝野幸男が「まっとうな」というフレーズを繰り返し、「まっとうな」をよく口にする田中康夫を思い出したというくだりがあった。

「枝野の妻(元スチュワーデス)はかつて田中康夫と付き合っていたと噂されている。枝野の妻で田中康夫の元恋人とされた彼女はよっぽど『まっとうな』人が好きなのだろう」。

よく知られた話かもしれないがわたしは初耳で、世間にはみょうなことをご存知の方がいるもんだ。

「わたしはごく自然体で自分を歩かせていく。それに、わたしが扱う内容だって、別にどうしても知らなくてはいけないようなものでもないし、いきあたりばったりに、手軽に論じてはいけないものというわけでもない」(モンテーニュ)。

どうしても知らなくてはいけないようなものでもない、いきあたりばったりの話はたのしいな。