「ビリーブ 未来への大逆転」

 古代ローマにおけるグラディエイターどうしの命を賭けた戦いや猛獣との死闘は映画のなかではともかく、現実となるとたまったものじゃない。格闘を格闘技というスポーツとしたのは人類の大きな進歩だった。

 ついでに?権力闘争を票数の競い合いに、正邪の判定を原告と被告、検察側と弁護側による攻防に、いわば可視化されたスポーツ様式としたことも大慶の至りで、むかしの日本では正邪の判定に釜で沸かした熱湯のなかに手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる盟神探湯(くがたち)が行われていたなんて話を聞くと、わたしのような臆病な人間は、いろいろ問題はあっても裁判制度でよかったなあとしみじみ思う。とはいっても、いまなお権力闘争や正邪の判定を命がけでやっているところも多いけれど。

 ともあれ裁判がスポーツ化されると、多くの裁判劇はスポーツ映画に似たスリルと興奮をもたらすようになる。「ビリーブ 未来への大逆転」もそのひとつで、ここではアメリカ初の女性最高裁判事となったルース・ギンズバーグの実話にもとづく性差別の問題が扱われる。社会問題を優れたエンターテイメントとするのはハリウッド映画が得意とするところで、その点で最近話題の「グリーンブック」や「ブラック・クランズマン」にも通じている。

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 一九三三年、ユダヤ人家庭に生まれたルース・ギンズバーグフェリシティ・ジョーンズ)は女性の入学が認められた直後のハーバード法科大学院に学び、在学中に結婚して子育てをしながら弁護士をめざし、さらには病に倒れた夫マーティン(アーミー・ハマー)の授業にも出席して単位取得を扶け、大学院を首席で卒業した、飛び抜けて優れた人物だ。しかしその彼女にして女性であることを理由に雇い入れる法律事務所はどこにもなかった。

 大学教授となり、男女平等の問題を論じている彼女だが、積極的にフェミニストの集会に参加する長女ジェーン(ケイリー・スピーニー)の目には講壇で差別を論じるだけの人と映っている。

 そんなある日、ルースは、母親の介護をしている独身男性が税の控除を求めて起こした訴訟に敗れた記録を目にして、弁護士の夫の協力を得て法廷に立つこととなる。親の介護をしている女性に認められている控除がなぜ男性には認められないのか。そこにあるのは牢固とした性別役割分業だった。

 夫のがんの克服や長女の反抗期の家庭教育はよい意味で思いっきり簡略化し、物語は税制と性差別をめぐる訴訟へと一気呵成に進む。テンポはよく、グイグイ引き込まれてゆく。そうしてクライマックスの法廷シーンでは女性の大学教授兼弁護士が動揺し、高ぶった心を抑え、親の介護は女性がするものとして控除を認めるが、男には認めない背後にある考え方、社会意識を衝き、丹念に、整然と議論を展開する。

 ミミ・レダー監督の人間観の一端がうかがわれるシーンで、反対にこういうところで日本映画はしばしば役者に叫ばせ、わめかせするのだが、そうした心の高ぶりと声の大きさを比例させる演出をわたしは好まない。

(三月二十七日TOHOシネマズ日比谷)