「ラビング 愛という名の二人」

一九五0年代のバージニア州。レンガ職人のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は恋人のミルドレッド(ルース・ネッガ)が妊娠したのを機に結婚を申し込み、彼女も受け入れた。愛しあう白人夫と黒人妻は幼なじみで、それぞれの家族にとっても自然な成り行きだった。
ふたりはわたしの目に藤沢周平の名作『蝉しぐれ』の牧文四郎と幼なじみの隣家の娘小柳ふくのように映った。もっともこちらは江戸屋敷に奉公に出たふくに藩主の手がついて男児を産み、その後、藩主が世を去るとともに彼女は仏門に入る決意をする。その前に一度文四郎に会い、あの有名な「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」とのことばを口にしたのだったが、リチャードとミルドレッドはふくの言う「道」をあゆんだ。
ところが、やっかいなことに当時の州法では異人種間の結婚は禁止されていた。そこでかれらは異人種間の結婚が認められているワシントンD.C.の教会で挙式し、地元へ帰ったところ、まもなく自宅に押しかけてきた保安官に逮捕され、司法取引で収監は免れたものの離婚もしくは州外退去のいずれかを迫られ、やむなくワシントン州で暮らしはじめた。
経済的にもまずまず(家屋や電話や家電製品などこの時代を忠実に再現した大道具、小道具がじつに効果的だ)で三人の子宝にも恵まれた生活だった。
異郷で暮らして五年、ミルドレッドはふと思いついてふるさとへの思いを綴った手紙をケネディ司法長官に送ったところ、はからずも長官は弁護士を派遣して来た。そこから事態が動きはじめる。

公民権運動の胎動が聞こえてこようかという時代における異人種間の結婚であり、ただならぬ波瀾の半生を送った夫婦の物語にはちがいない。しかし二人の願いはともに暮らしたいという一点にあった。だから波瀾や荒立ちではなく、どのような事態になっても家族を守り切るとの強い思いを秘めた寡黙で無骨な夫に、控えめではあるが深い愛情と芯の強さをもって寄り添った妻との物語とするほうがふさわしい。
人種差別に係る映画としては破格である。小津安二郎が撮った白人夫と黒人妻の物語という趣さえあり、時間の経過とともにその破格に対する感心と驚きの深度が増す。
プロデューサーをコリン・ファースが務めている。監督はジェフ・ニコルズ。かれらの出発点は人種差別ではなく、ふつうの人のふつうの生活の描写にあったと思う。観る者もまずは坦々と、丹念に、粘り強く描かれた困難ななかでの夫婦愛に魅了される。そうしているうちに「ふつう」であることを許さない理不尽がだんだんと浮かび上がる。
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劇場で「海賊と呼ばれた男」という映画の予告篇を何回か目にしたが、初めから終わりまで絶叫が続いてウンザリだった。予告篇でこれなら本篇はもう阿鼻叫喚の世界ではないかな。
人間だものときに感情のたかぶりがあって当然ではあるけれど、前提にあるのは感情のコントロールであって、むやみな失禁はいただけない。
女優の岩下志麻は、小津安二郎から、人間はよほどのことがないかぎり感情を表情に出さないと教えられたそうだが、いっぽう近年の日本映画には感情の制御という成分がだんだんと少なくなってきているようである。「映画は時代を映す鏡」という観点からいえば、日本人は感情のコントロールよりも感情の暴発をよしとするようになったのではないかとすら思う。かつての東映任侠映画のラストシーンにしても、それまでの高倉健鶴田浩二の感情のコントロールがあるから感動的なのだ。
「ラビング 愛という名の二人」は感情が暴発し、わめき、どなるシーンの多い作品となって不思議はない。下手な監督だったらそうしただろう。でもね米原万里がいったように「キートンはニコリともせずに観客を笑わせ、『道』のジュリエッタ・マシーナはあの笑顔で涙をさそったものな。抑制された演技のほうが感動を呼ぶのだよ」。(『不実な美女か貞節な醜女か」)
どなり、わめくシーンを多用することの多い日本映画にこの作品や「ハドソン川の奇跡」を通して内省してほしいと願う。
(三月八日TOHOシネマズシャンテ)